表紙 > 漢文和訳 > 『漢書』王莽伝下を抄訳し、光武帝を知る準備をする

05) 22, 減税の直前、光武帝が挙兵

『漢書』王莽伝をやります。
光武帝を知る目的なので、天鳳4年(後17年)から。

ちくま訳を参照します。『漢書補注』でおぎなうのは、後日。

22年春:青州と徐州を10余万で討ち、貧困を促進

三年正月,九廟蓋構成,納神主。莽謁見,大駕乘六馬,以五采毛為龍文衣,著角,長三尺。華蓋車,元戎十乘有前。因賜治廟者司徒、大司空餞客千萬,侍中、中常侍以下皆封。封都匠仇延為邯淡裏附城。

地皇三年(22年)正月、九廟が完成した。建築を担当した、司徒と大司空をほめた。

二月,霸橋災,數千人以水沃救,不滅。莽惡之,下書曰:「夫三皇象春,五帝象夏,三王象秋,五伯象冬。皇王,德運也;伯者,繼空續乏以成歷數,故其道駁。惟常安禦道多以所近為名。乃二月癸巳之夜,甲午之辰,火燒霸橋,從東方西行,至甲午夕,橋盡火滅。大司空行視考問,或雲寒民舍居橋下,疑以火自燎,為此災也。其明旦即乙未,立春之日也。予以神明聖祖黃、虞遺統受命,至於地皇四年為十五年。正以三年終冬絕滅霸駁之橋,欲以興成新室統一長存之道也。又戒此橋空東方之道。今東方歲荒民饑,道路不通,東嶽太師亟科條,開東方諸倉,賑貸窮乏,以施仁道。其更名霸館為長存館,霸橋為長存橋。」
是月,赤眉殺太師犧仲景尚。關東人相食。

2月、覇橋が燃えた。数千人で水をかけたが、火は消えず。飢えた民の、焚き火が原因だった。王莽は、民を養う小屋を建てた。

漢室の火徳を連想させつつ、首都の荒廃も表せる。王莽の衰退を表現するためには、最高のできごとである。

この月、赤眉は、太師犧の仲景尚を殺した。

青州と徐州を鎮圧するため、派遣された将軍である。


四月,遣太師王匡、更始將軍廉丹東,祖都門外,天大雨,沾衣止。長老歎曰:「是為泣軍!」莽曰:「惟陽九之厄,與害氣會,究於去年。枯旱霜蝗,饑饉薦臻,百姓困乏,流離道路,于春尤甚,予甚悼之。今使東嶽太師特進褒新侯開東方諸倉,賑貸窮乏。太師公所不過道,分遣大夫謁者並開諸倉,以全元元。太師公因與廉丹大使五威司命位右大司馬更始將軍平均侯之兗州,填撫所掌,及青、徐故不軌盜賊未盡解散,後複屯聚者,皆清潔之,期於安兆黎矣。」太師、更始合將銳士十余萬人,所過放縱。東方為之語曰:「寧逢赤眉,不逢太師!太師尚可,更始殺我!」卒如田況之言。

4月、太師の王匡と、更始將軍の廉丹は、東へ出征した。

前任が戦死した地域に、行きたくないなあ。でも、王匡も廉丹も、新室の重鎮である。イヤと云っている場合ではない。新室に殉じる人だ。

出発するとき、雨が降った。軍装がぬれた。長老は「泣き軍だ」と、不吉なことを云った。王莽は、
「いちばん悪い歳は、去年だ。今年は、上向くはずだ」
と言い返した。

王莽は、占いばかりやっているイメージ。
これは、班固が、王莽の言動を、忠実に引っぱってきた証拠だと思う。占いを非合理だとする、ぼくのような「近代人」から見ると、王莽伝は、王莽を貶めているように見せる。しかし実際は、王莽リスペクトなんだ。高帝・劉邦の本紀より、王莽伝に字数を割いているのだから。
光武帝の周囲だって、細かいセリフを採録すれば、王莽と同じく、占いに頼ってばかりだっただろうな。ただ、記録者がいなかっただけで。

王匡と廉丹は、青州と徐州で、物資を現地調達をした。東方の民たちは「赤眉より、官軍のほうが、ひどい」という歌をつくった。
田況の云うとおり、東方は貧しさゆえに、治まらない。

原文では、官軍は「所過放縱」だったと。原義どおり訳せば、官軍は「通過した先々で、ほしいままに略奪した」となる。しかし、略奪でなく、現地調達だと思う。ものは、云いようである。
田況がふたたび登場したのは、班固が自分の正しさを確認するためだ。


莽又多遣大夫謁者分教民煮草木為酪,酪不可食,重為煩費。莽下書曰:「惟民困乏,雖溥開諸倉以賑贍之,猶恐未足。其且開天下山澤之防,諸能採取山澤之物而順月令者,其恣聽之,勿令出稅。至地皇三十年如故,是王光上戊之六年也。如令豪吏猾民辜而攉之,小民弗蒙,非予意也。《易》不雲乎?『損上益下,民說無疆。』《書》雲:『言之不從,是謂不艾。』咨乎群公,可不憂哉!」

王莽は、草木を食品に加工する技術を教えたが、食べられたものではない。かえって、指導のコストがかさんだ。王莽は、命じた。
「山と沢への課税をやめる。地皇三十年まで、課税しない」

減税です。やっと、経済政策を、転換しました。遅いよ!


是時,下江兵盛,新市硃鮪、平林陳牧等皆複聚眾,攻擊鄉聚。莽遣司命大將軍孔仁部豫州,納言大將軍嚴尤、秩宗大將軍陳茂擊荊州,各從吏士百餘人,乘船從渭入河,至華陰乃出乘傳,到部募士。尤謂茂曰:「遣將不與兵符,必先請而後動,是猶絏韓盧而責之獲也。」

このとき、下江兵は盛んである。新市の硃鮪、平林の陳牧らは、兵を集めた。王莽は、司命・大將軍の孔仁に、豫州を任せた。
納言・大將軍の嚴尤と、秩宗・大將軍の陳茂は、荊州を撃った。厳尤は、陳茂にグチった。
「王莽さまは、兵士をろくに与えず、平定を命じる。猟犬をつないでおきながら、獲物をとれと命じるのと同じだ。できるわけがない」

厳尤は、いっぱい出てきます。王莽政権を、第三者的に見つめている重臣です。ちゃんと最期は、新室に殉じます。


22年夏:ついに首都圏に、流民が入ってきた

夏,蝗從東方來,蜚蔽天,至長安,入未央宮,緣殿閣。莽發吏民設購賞捕擊。莽以天下穀貴,欲厭之,為大倉,置衛交戟,名曰「政始掖門」。

22年夏、イナゴが東方をおおい、長安に到った。王莽は、穀物の価格がたかいから、穀倉を武官に護衛させた。

護衛強化じゃなくて、経済政策をお願いします。笑


流民入關者數十萬人,乃置養贍官稟食之。使者監領,與小吏共盜其稟,饑死者十七八。先是,莽使中黃門王業領長安市買,賤取於民,民甚患之。業以省費為功,賜爵附城。莽聞城中饑饉,以問業,業曰:「皆流民也。」乃市所賣梁飰肉羹,持入視莽,曰:「居民食咸如此。」莽信之。

関東の流民が、函谷関から、首都圏に入った。王莽は、中黃門の王業に、長安の市場を管理させた。王業は、民から食糧を安く買いとった。民は、さらに飢えた。
王業は、経費をさげたから、王莽から城をもらった。
王業は、白米や肉を見せて「みな流民は、こんなにいいものを食べています」と報告した。王莽は、王業が経済を安定させたと信じた。

22年冬:現地調達する名将・廉丹が赤眉に殺される

冬,無鹽索盧恢等舉兵反城。廉丹、王匡攻拔之,斬首萬餘級。莽遣中郎將奉璽書勞丹、匡,進爵為公,封吏士有功者十餘人。
赤眉別校董憲等眾數萬人在梁郡,王匡欲進擊之,廉丹以為新拔城罷勞,當且休士養威。匡不聽,引兵獨進,丹隨之。合戰成昌,兵敗,匡走。丹使吏持其印韍符節付匡曰:「小兒可走,吾不可!」遂止,戰死。校尉汝雲、王隆等二十餘人別鬥,聞之,皆曰:「廉公已死,吾誰為生?」馳奔賊,皆戰死。莽傷之,下書曰:「惟公多擁選士精兵,眾郡駿馬倉谷帑藏皆得自調,忽於詔策,離其威節,騎馬呵噪,為狂刃所害,烏呼哀哉!賜諡曰『果公』。

22年冬、無城の索盧恢が、叛いた。廉丹と王匡は、1万余の首級をとった。廉丹と王匡は、侯爵になった。

無塩も山東だ。新室の良民となるべき人を、1万余も斬ってしまった。困ったことだが、王莽は、どうしたら良かったんだろう。

赤眉の董憲らは、梁郡に数万人をあつめた。
廉丹は、連戦しているから、兵を休息させろと云った。だが王匡は、赤眉に突撃した。王匡は、敗れた。廉丹は、王匡に云う。
「ガキよ、逃げるがいい。私は、逃げられないのだ」
廉丹が戦死した。
「廉公が、すでに死んだ。誰のために、生きていられようか」
部下の校尉も、赤眉に突っこんで死んだ。

新室にも、美談があるのですね。後漢は、赤眉を打倒して成立した。だから、赤眉に善戦した将軍の話は、『漢書』に書くことができる。

王莽は、廉丹の死をいたんだ。
「廉丹は、州郡から物資を徴発して、兵站を確保できる人材だった。哀しいかな。廉丹に、果公とおくり名する」

王莽も、兵站の重要性には気づいていた。っていうか、食べなきゃ死ぬのだから、気づいて当たり前か。輸送でなく、現地調達という原則は、変える気はないようですが。関東は飢えてるのに。
関東は「廉丹に会えば、殺される」と恐れた。財産的な意味で?


國將哀章謂莽曰:「皇祖考黃帝之時,中黃直為將,破殺蚩尤。今臣中黃直之位,願平山東。」莽遣章馳東,與太師匡並力。又遺大將軍陽浚守敖倉,司徒王尋將十余萬屯雒陽填南宮,大司馬董忠養士習射中軍北壘,大司空王邑兼三公之職。司徒尋初發長安,宿霸昌廄,亡其黃鉞。尋士房揚素狂直,乃哭曰:「此經所謂『喪其齊斧』者也!」自劾去。莽擊殺揚。

國將の哀章は、山東平定を志願した。
司徒の王尋は、長安を出るとき、黄鉞をなくした。王莽は、黄鉞をなくした責任者を、撃ち殺した。

黄鉞とは、皇帝権力の象徴。与えられた人は、皇帝とおなじ裁断権をもつ。それをなくすとは、、どれだけ軍紀がゆるんでいるんだか。ひどいなあ。


四方盜賊往往數萬人攻城邑,殺二千石以下。太師王匡等戰數不利。莽知天下潰畔,事窮計迫,乃議遣風俗大夫司國憲等分行天下,除井田奴婢山澤六管之禁,即位以來詔令不便於民者皆收還之。待見未發,會世祖與兄齊武王伯升、宛人李通等帥舂陵子弟數千人,招致新市平林硃鮪、陳牧等合攻拔棘陽。是時,嚴尤、陳茂破下江兵,成丹、王常等數千人別走,入南陽界。

四方の盗賊は、新室の地方官を殺した。太師の王匡らは、しばしば負けた。王莽は、地方の状況を、調査させた。貧困を生んでいる税制を、やめさせようと考えた。
調査する人が、出発する直前に、たまたま光武帝の兄・劉伯升は、宛人の李通と挙兵した。

王莽が、ちょうど今から経済政策を反省する、絶妙のタイミングで、つぎの皇帝が挙兵した。ちょっと小説がかっている。笑

劉伯升は、新市平林の硃鮪や陳牧らと合わさり、棘陽を抜いた。
このとき、厳尤と陳茂は、下江兵を破った。下江兵の成丹や王常らは、数千人で逃げ、南陽郡の境界に入った。

南陽郡とは、劉伯升のいるところだ。荊州で、あちこちの反乱軍が散り、劉伯升のもとに集まり始めた。話がうますぎるが、少なくとも『漢書』では、そうなっている。


十隻月,有星孛于張、東南行,五日痘見。莽數召問太史令宗宣,諸術數家皆繆對,言天文安善,群賊且滅。莽差以自安。

11月、彗星が現れた。天文は新室にとって、善いものだと報告された。王莽は、安心した。

ちっとも安心できないのに。皮肉がきいた、小説的な演出だ。

・・・つづきます。劉伯升や光武帝たちが、勝ち進みます。