表紙 > 漢文和訳 > 『漢書』王莽伝下を抄訳し、光武帝を知る準備をする

04) 21, 旧斉が、新室から離脱

『漢書』王莽伝をやります。
光武帝を知る目的なので、天鳳4年(後17年)から。

ちくま訳を参照します。『漢書補注』でおぎなうのは、後日。

21年春夏:王莽の妻子の死、漢室復興の予言

二年正月,以州牧位三公,刺舉怠解,更置牧監副,秩元士,冠法冠,行事如漢刺史。

地皇二年(21年)正月、州牧を三公とおなじ地位に、引き上げた。州牧を監督するため、州牧に副官をおいた。副官の地位と仕事内容は、前漢の刺史にあたる。

中央集権の好きな王莽が、地方を改革した。珍しいことだ。この1年で、赤眉も緑林も匈奴も、鎮圧してしまうつもりである。


是月,莽候妻死,諡曰:「孝睦皇后」,莽渭陵長壽園西,令永侍文母,名陵曰「億年」。初莽妻以莽數殺其子,涕泣失明,莽令太子臨居中養焉。莽妻旁侍者原碧,莽幸之。後臨亦通焉,恐事泄,謀共殺莽。臨妻愔,國師公女,能為星,語臨宮中且有白衣會。臨喜,以為所謀且成。後貶為統義陽正,出在外第,愈憂恐。會莽妻病困,臨予書曰:「上于子孫至嚴,前長孫、中孫年俱三十而死。今臣臨複適三十,誠恐一旦不保中室,則不知死命所在!」莽妻疾,見其書,大怒,疑臨有惡意,不令得會喪。既莽,收原碧等考問,具服奸、謀殺狀。莽欲秘之,使殺案事使者司命從事,埋獄中,家不知所在。賜臨藥,臨不肯飲,自刺死。使侍中票騎將軍同說侯林賜魂衣璽韍,策書曰:「符命文立臨為統義陽王,此言新室即位三萬六千歲後,為臨之後者乃當龍陽而起。前過聽議者,以臨為太子,有烈風之變,輒順符命,立為統義陽正。在此之前,自此之後,不作信順,弗蒙厥佑,夭年隕命,嗚呼哀哉!跡行賜諡,諡曰:『繆王』。」又詔國師公:「臨本不知星,事從愔起。」愔憶自殺。

この月(正月)王莽の妻が死んだ。しばしば王莽が子を殺すから、王莽の妻は泣いて、失明していた。

「明かりを失う」が、視力がゼロになることを、意味するのか。東晋次氏は、視力ゼロで読んでいた。『補注』は、注釈がない。ひどいなあ。

はじめ王莽は、皇太子の王臨に、妻の介護を命じた。王臨は、王莽の妻の侍女と、密通した。おなじ侍女が、王莽に寵愛されているにも関わらず、密通した。
発覚をおそれた王臨は、父の王莽を殺そうとした。
王臨は、云った。
「父の王莽は、30歳の孫たち(王臨の従子)を殺した。私も、30歳である。父の王莽を殺さねば、私が殺されてしまう」

王莽は、自分の身を正す手段として、カンタンに子や孫を殺す。子や孫から見たら、おそろしい父や祖父である。抵抗は、仕方ないかも?

西暦20年、王臨は皇太子を降ろされた。王莽は、王臨の悪意を知った。服毒自殺を命じた。だが王臨は、毒を飲むことをこばんだ。王臨は、みずからを刺し殺した。

親にもらった身体を、傷つけることは、不孝です。服毒は、身体に外傷がつかないから、孝行な死に方。王莽は、王臨に服毒を命じたのに、王臨は父親に抵抗したんだろう。

王臨の妻も、連座して、自殺させられた。

是月,新遷王安病死。初,葬為侯就國實,幸侍者增秩、懷能、開明。懷能生男興,增秩生男匡、女曄,開明生女捷,皆留新都國,以其不明故也。及安疾甚,莽自病無子,為安作奏,使上言:「興等母雖微賤,屬猶皇子,不可以棄。」章視群公,皆曰:「安友于兄弟,宜及春夏加封爵。」於是以王車遣使者迎興等,封興為功脩任,匡為功建公,曄為睦脩任,捷為睦逮任。孫公明公壽病死,旬月四喪焉。莽壞漢孝武、孝昭廟,分葬子孫其中。

この月、新遷王の王安が、病死した。

王安は、王臨の兄。王臨を降ろして、皇太子になった。王莽の妻が死んだ月に、子が2人とも死んだことになる。
「王莽が王安を殺した」と、ロコツには書いていないが、精神的に追いこんだのかも? それなら、間接的に殺したようなものだ。ただし、新室を継ぐくらいなら、死んだほうがマシかも。笑

王莽は、新都国にいたとき、侍女に産ませた子供がいた。

前漢の哀帝のとき、王莽は政治的に敗北し、新都国に押しこめられた。そのときに、つくった子供である。

王莽は、新都国でつくった子を、国許にとどめていた。侍女に子供を産ませたことを、恥じたからだ。

班固は、よけいな解釈を、ちょいちょい、はさむ。王莽が、侍女との関係を恥じたかなんて、分からない。ぼくは思う。無用な後継あらそいを、起こしたくなったから、国許にとどめたかも知れない。
列伝の途中で、著者が批判的な意見をはさむのは、珍しい。ぎゃくに云えば、批判的な意見をはさまないと、王莽を賛美する文章になりかねないと、班固は思ったのか。王莽がだす命令は、皇帝のスタイルだし。

王莽は、男子2人、女子1人を、新都国から長安に迎えた。
王莽の孫が死んだ。1ヶ月で、王莽の親族が4人死んだ。前漢の武帝と昭帝の廟をこわし、孫をほうむった。

4人とは、王莽の妻、王莽の子である王臨と王安、王莽の孫だ。
武帝と昭帝、かわいそうになあ。新室は禅譲を受けたくせに、前漢を敵視するらしい。だから偽善だと云われるのだ。
見方を変えれば、建材や工事費を節約したと、云えなくはない?
あまりに短期間に、王莽と血縁のちかい「貴い」人が死にすぎた。廟の建造が、追いつかない。財政は赤字だしなあ。


魏成大尹李焉與卜者王況謀,況謂焉曰:「新室即位以來,民田奴婢不得賣買,數改錢貨,徵發煩數,軍旅騷動,四夷並侵,百姓怨恨,盜賊並起,漢家當復興。君姓李,李者徵,徵,火也,當為漢輔。」因為焉作讖書言:「文帝發忿,居地下趣軍,北告匈奴,南告越人。江中劉信,執敵報怨,複續古先,四年當發軍。江湖有盜,自稱樊王,姓為劉氏,萬人成行,不受赦令,欲動秦、雒陽。十一年當相攻,太白楊光,歲星入東井,其號當行。」又言莽大臣吉凶,各有日期。會合十余萬言。焉令吏寫其書,吏亡告之。莽遣使者即捕焉,獄治皆死。

魏郡の李焉に、卜者の王況が云った。
「新室の経済政策はひどく、軍事行動の負担もひどい。百姓は、新室を怨んでいる。ふたたび漢室が興るだろう。李という字は、火という字につうじる。漢室は火徳である。漢室の復興をたすけるのは、李氏(あなた)だろう」

のちに光武帝のためにも、この予言が利用された。宛県の李通が、光武帝を挙兵にさそうとき、「オレは李氏だよ」とアピールした。

この予言が王莽に知られた。王莽は、李淵を殺した。

三輔盜賊麻起,乃置捕盜都尉官,令執法謁者追擊長安中,建鳴鼓攻賊幡,而使者隨其後。遣太師犧仲景尚、更始將軍護軍王黨將兵擊青、徐,國師和仲曹放助郭興擊句町。轉天下穀、幣詣西河、五原、朔方、漁陽,每一郡以百萬數,欲以擊匈奴。

首都のある三輔で、盜賊が起こった。捕盜都尉をおいた。
太師犧の仲景尚と、更始將軍護軍の王黨に、青州と徐州を討たせた。

青州と徐州は、王莽から自立したがる、いちばん困った地域。

天下の穀物を北にあつめ、郡ごとに百万人をあつめ、匈奴を討った。

21年秋冬:登仙を夢みて、劉邦の廟を殴りつける

秋,隕霜殺菽,關東大饑,蝗。
民犯鑄錢,伍人相坐,沒入為官奴婢。其男子檻車,兒女子步,以鐵鎖琅當其頸,傳詣鐘官,以十萬數。到者易其夫婦,愁苦死者什六七。孫喜、景尚、曹放等擊賊不能克,軍師放縱,百姓重困。

秋、霜でマメが枯れた。関東が飢えた。イナゴ。
貨幣政策の失敗で、10万人が生活の保障を失った。人民が抵抗し、青州と徐州を攻めた将軍は、勝てない。官軍が、ほしいままに現地調達したから、関東の万民は、さらに飢えた。

兵站にうといのは、袁術も同じでした。古代中国の君主は、経済にうとくて、当たり前なんだと思う。『孫子』は、現地調達と節約を言うのみだ。
曹操の屯田みたいに、経済センスのある人が、ぎゃくに珍しいのだ。


莽以王況讖言刑楚當興,李氏為輔,欲厭之。乃拜侍中掌牧大夫李棽為大將軍、揚州牧,賜名聖,使將兵奮擊。

王莽は、王況の予言を気にした。王況は「荊楚で漢室が復興し、李氏がたすける」と云ったが、王莽はこれを潰そうとした。
王莽は、侍中掌牧で大夫の李棽を、大將軍・揚州牧とした。

わざわざ王況の予言を、くり返し班固が書くのは、光武帝をほのめかすからだ。王莽は、ぎゃくに李氏をつかい、長江流域を征圧しようとした。的外れな対策だなあ、と笑うために、この一節があるのだろう。


上谷儲夏自請願說瓜田儀,莽以為中郎,使出儀。儀文降,未出而死。莽求其屍葬之,為起塚、詞室,諡曰「瓜寧殤男」,幾以招來其餘,然無肯降者。
閏月丙辰,大赦天下,天下大服、民私服在詔書前亦釋除。

上谷郡の瓜田儀という盗賊が、新室への降伏をねがった。だが瓜田儀は、降伏する前に死んでしまった。

新室に降伏したくない人が、瓜田儀を殺したんじゃないか。
「リーダーの瓜田儀が、新室に降伏するなんて、ふざけたことを言い出した」という理由で。史料に書いてないことです。推測です。

王莽は、瓜田儀の塚をつくって、男爵の位をおくった。王莽は、瓜田儀のような降伏者が、あとに続くことを願ったのだ。だが、だれも新室に降伏してくれなかった。

曹丕とおなじロジックにして、曹丕とおなじミスである。笑
曹丕は孫権の降伏を信じてやり、天下統一する機会を失った。
懐の深さを見せなければならない皇帝は、不利なルールで駆け引きをしなければならない。手を差し伸べて、恥をかくという。

閏月丙辰、大赦して、服喪をすべて解除した。

王莽の妻の喪よりも、国内外の平定、経済復興が優先だ。

  

郎陽成脩獻符命,言繼立民母,又曰:「黃帝以百二十女致神仙。」葬於是遣中散大夫、謁者各四十五人分行天下,博采鄉里所高有淑女者上名。
莽夢長樂宮銅人五枚起立,莽惡之,念銅人銘有「皇帝初兼天下」之文,即使尚方工鐫滅所夢銅人膺文。又感漢高廟神靈,遣虎賁武士入高廟,拔劍四面提擊,斧壞戶牖,桃湯赭鞭鞭灑屋壁,令輕車校尉居其中,又令中軍北壘居高寢。
或言黃帝時建華蓋以登仙,莽乃造華蓋九重,高八丈一屍,金瑵羽葆,載以秘機四輪車,駕六馬,力士三百人黃衣幘,車上人擊鼓,挽者皆呼「登仙」。莽出,令在前。成官竊言:「此似軟車,非仙物也。」

「黄帝は120人の女をひきいて登仙した」と聞けば、45人の役人に天下をめぐらせ、徳のある女性を探させた。
王莽は、長楽宮の銅人が立ち上がる夢を見た。銅人に刻まれた文字が不吉なので、削りとさせた。前漢の高帝廟が、神秘をおびたので、武人を送りこみ、破壊させた。
黄帝が登仙するときに乗ったという、車を再現させた。車をひく人は「登仙」と叫んだ。しかし車は、むしろ死体を運ぶ車に似ていた。

是歲,南郡秦豐眾且萬人。平原女子遲昭平能說博經以八投,亦聚數千人在河阻中。莽召問群臣禽賊方略,皆曰:「此天囚行屍,命在漏刻。」故左將軍公孫祿征來與議,祿曰:「太史令宗宣典星曆,候氣變。以凶為吉,亂天文,誤朝廷。太傅平化侯飾虛偽以偷名位,『賊夫人之子』。國師嘉信公顛倒《五經》,毀師法,令學士疑惑。明學男張邯、地理侯孫陽造井田,使民棄土業。犧和魯匡設六管,以窮工商。說符侯崔發阿諛取容,令下情不上通。宜誅此數子以慰天下!」又言:「匈奴不可攻,當與和親。臣恐新室憂不在匈奴,而在封域之中也。」莽怒,使虎賁扶祿出。然頗采其言,左遷魯匡為五原卒正,以百姓怨非故。六管非匡所獨造,莽厭眾意而出之。

この歳、南郡の秦豊は、1万人をあつめた。平原の遲昭平も、数千人をあつめた。王莽は、もと左將軍の公孫祿に、どうすべきか問うた。
公孫祿は、王莽の人材と政策を、すべて批判した。

いちいち訳しませんが。王莽伝中あたりで、諸政策が紹介されているはずだ。それのダイジェスト版だと思って、いいと思います。

王莽は怒ったが、公孫祿の意見をもちいた。人材を移した。

王莽は、青州の単なる流民を、敵視してしまった

初,四方皆以饑寒窮愁起為盜賊,稍稍群聚,常思歲熟得歸鄉里。眾雖萬數,亶稱臣人、從事、三老、祭酒,不敢略有城邑,轉掠求食,日闋而已。諸長吏牧守皆自亂鬥中兵而死,賊非敢欲殺之也,而莽終不諭其故。

飢えと寒さで、四方の民は盗賊となった。盗賊は、群れるだけで、組織化されない。 盗賊は、新室の城邑を、攻めるわけでもない。新室の役人を殺したが、ただの自己防衛であり、殺意はなかった。王莽は、この実情に気づかなかった。

班固が書いている、地のコメントです。『漢書』の本紀は、淡々と出来事を並べただけだった。班固の立場を踏まえるなら、賛美しても良さそうなのに、班固は顔を出さなかった。
王莽伝は、実質的に本紀なのだが、褒貶(っていうか貶だけ)や分析がおおい。班固が、王莽につよい関心を持っていたことは、自然と感じられる。


是歲,大司馬士按章豫州,為賊所獲,賊送付縣。士還,上書具言狀。莽大怒,下獄以為誣罔。因下書責七公曰:「夫吏者,理也。宣德明恩,以牧養民,仁之道也。抑強督奸,捕誅盜賊,義之節也。今則不然。盜發不輒得,至成群黨,遮略乘傳宰士。士得脫者,又妄自言:我責數賊:『何故為是?』賊曰:『以貧窮故耳。』賊護出我。今俗人議者率多若此。惟貧困饑寒,犯法為非,大者群盜,小者偷穴,不過二科,今乃結謀連常以千百數,是逆亂之大者,豈饑寒之謂邪?七公其嚴敕卿大夫、卒正、連率、庶尹,謹牧養善民,急捕殄盜賊。有不同心並力,疾惡黜賊,而妄曰饑寒所為,輒捕系,請其罪。」於是群下愈恐,莫敢言賊情者,亦不得擅發兵,賊由是遂不制。

大司馬の士が、豫州で盗賊をとらえた。

士さんの姓が、分かりません。ちくま訳でも、放置。

士は、盗賊の実情を、くわしく報告した。王莽はおおいに怒った。
良民が盗賊となる理由は、貧困だと? バカを云うな。士は、盗賊の味方をして、ウソをついているに違いない」
王莽は、士を罪に降した。だれも王莽に、実情を説明しなくなった。

班固が、自分の主張を裏づけるために、具体例を引いてみせた。紀伝体というよりは、ふつうに論述文である。


唯翼平連率田況素果敢,發民年十八以上四萬餘人,授以庫兵,與刻石為約。赤糜聞之,不敢入界。況自劾奏,莽讓況:「未賜慮符而擅發兵,此弄兵也。厥罪乏興。以況自詭必禽滅賊,故且勿治。」後況自請出界擊賊,所向皆破。莽以璽書令況領青、徐二州牧事。況上言:「盜賊始發,其原甚微,非部吏、伍人所能禽也。咎在長吏不為意,縣欺其郡,郡欺朝廷,實百言十,實千言百。朝廷忽略,不輒督責,遂至延曼連州,乃遣將率,多發使者,傳相監趣。郡縣力事上官,應寒詰對,共酒食,具資用,以救斷斬,不給複憂盜賊治官事。將率又不能躬率吏士,戰則為賊所破,吏氣浸傷,徒費百姓。前幸蒙赦令,賊欲解散,或反遮擊,恐入山谷轉相告語,故郡縣降賊,皆更驚駭,恐見詐滅,因饑饉易動,旬日之間更十余萬人,此盜賊所以多之故也。今雒陽以東,米石二千。竊見詔書,欲遣太師、更始將軍,二人爪牙重臣,多從人眾,道上空竭,少則亡以威視遠方。宜急選牧、尹以下,明其賞罰。收合離鄉、小國無城郭者,徙其老弱置大城中,積藏谷食,並力固守。賊來攻城,則不能下,所過無食,勢不得群聚。如此,招之必降,擊之則滅。今空複多出將率,郡縣苦之,反甚於賊。宜盡征還乘傳諸使者,以休息郡縣。委任臣況以二州盜賊,必平定之。」莽畏惡況,陰為發代,遣使者賜況璽書。使者至,見況,因令代監其兵。況隨使者西,到,拜為師尉大夫。況去,齊地遂敗。

翼平の連率である田況は、果敢な人である。

田況とは、西暦19年(本サイト2ページ)に、課税が足りないと、王莽に進言した人である。王莽は、田況の提案を受けて、30分の1税を課したのでした。田況は万民に怨まれた。

赤眉は、田況に一目おいて、田況の管轄を攻めない。王莽は田況に、青州と徐州をまかせた。田況は、青州と徐州について、治める方針の転換を申し出た。
「青州と徐州の盗賊を、攻撃してはいけません。彼らは、飢えたから、盗賊になっただけです。官軍を動かせば、兵糧が必要になり、さらに飢える人が増えます。盗賊が増えるでしょう。そうでなく、私に青州と徐州を、お任せください」

そういえば、戦国時代に斉を治めたのは、田氏でしたね。蛇足!

王莽は、田況を認めず、交替させた。田況が解任されると、旧斉の地は、新室の版図から、離脱してしまった

班固の論文で、王莽のミスが理解できました。つづく。