03) 20, 乱鎮圧のため、法を厳しく
『漢書』王莽伝をやります。
光武帝を知る目的なので、天鳳4年(後17年)から。
ちくま訳を参照します。『漢書補注』でおぎなうのは、後日。
20年前半:刑罰を厳しくし、官軍をみがきあげる
地皇元年正月乙未,赦天下。下書曰:「方出軍行師,敢有趨訁襄犯法者,輒論斬,毋須時,盡歲止。」於是春夏斬人都市,百姓震懼,道路以目。
地皇元年(20年)正月乙未、天下を赦した。
「これから軍を出す。処刑は、すぐに実行しろ。この命令は、今年限りである」
前漢では、春夏には、処刑をしなかった。しかし王莽は、春夏でも、すぐに処刑しろという。万民はおそれ、道路で目くばせした。
渡邉義浩氏の論文では、儒家の寛治と、法家の猛政が、対になる概念として、語られていた。よく王莽を、儒家の原理主義者みたいに云う人がいる。しかし王莽は、法律の執行に厳格である。カンタンに分類できない。
二月壬申,日正黑。莽惡之,下書曰:「乃者日中見昧,陰薄陽,黑氣為變,百姓莫不驚怪。兆域大將軍王匡遣吏考問上變事者,欲蔽上之明,是以適見於天,以正於理,塞大異焉。」
2月壬申、太陽が黒くなった。王莽はこれを悪み、書を下した。
「暗くなったのは、私の政治をジャマするやつがいるからだ」
莽見四方盜賊多,複欲厭之,又下書曰:「予之皇初祖考黃帝定天下,將兵為上將軍,建華蓋,立鬥獻,內設大將,外置大司馬五人,大將軍二十五人,偏將軍百二十五人,裨將軍千二百五十人,校尉萬二千五百人,司馬三萬七千五百人,候十一萬二千五百人,當百二十二萬五千人,士吏四十五萬人,士千三百五十萬人,應協于《易》『孤矢之利,以威天下』。予受符命之文,稽前人,將條備焉。」
王莽は、盗賊がおおいので、制圧したいと考えた。
「かつて黄帝は、内に大将をもうけ、外に大司馬を5人おいた。大将軍を25人、偏将軍を25人、裨将軍を1250人、行為を12500人、司馬を37500人(以下略)を置いた。私は、符命を受けて、新室の皇帝になった。黄帝にならって、軍事組織をそなえよう」
於是置前後左右中大司馬之位,賜諸州牧號為大將軍,郡卒正、連帥、大尹為偏將軍,屬令長裨將軍,縣宰為校尉。乘傳使者經歷郡國,日且十輩,倉無見穀以給,傳車馬不能足,賦取道中車馬,取辦於民。
王莽は、前後左右中の5人の大司馬をおいた。州牧たちを、大将軍とした。郡の役人を、偏将軍とした。県の役人を、裨将軍、校尉とした。
軍の使者は、郡国を回った。しかし使者に補給する、食糧や車馬がない。民から徴発して、軍が使用した。
財政のやりくりが下手だからって、「王莽は、豪族の支持を得られず」なんて、戦後歴史学の議論に結びつけるのは、短絡的だと思うが。
20年後半:法律と貨幣で横車をおし、緑林の乱
七月,大風毀王路堂。複下書曰:「乃壬午餔時,有列風雷雨髮屋折木之變,予甚弁焉,予甚栗焉,予甚恐焉。伏念一旬,迷乃解矣。昔符命文立安為新遷王,臨國雒陽,為統義陽王。是時予在攝假,謙不敢當,而以為公。其後金匱文至,議老皆曰:『臨國雒陽為統,謂據土中為新室統也,宜為皇太子。』自此後,臨久病,雖瘳不平,朝見挈茵輿行。見王路堂者,張於西廂及後閣更衣中,又以皇后被疾,臨且去本就舍,妃妾在東永巷。壬午,烈風毀王路西廂及後閣更衣中室。昭甯堂池東南榆樹大十圍,東僵,擊東閣,閣即東永巷之西垣也。皆破折瓦壞,髮屋拔木,予甚驚焉。又侯官奏月犯心前星,厥有占,予甚憂之。優念《紫閣圖》文,太一、黃帝皆得瑞以仙,後世褒主當登終南山。所謂新遷王者,乃太一新遷之後也。統義陽王乃用五統以禮義登陽上千之後也。臨有兄而稱太子,名不正。宣尼公曰:『名不正,則言不順,至於刑罰不中,民無錯手足。』惟即位以來,陰陽未和,風雨不時,數遇枯旱蝗螟為災,穀稼鮮耗,百姓苦饑,蠻夷猾夏,寇賊奸宄,人民正營,無所錯手足。深惟厥咎,在名不正焉。其立安為新遷王,臨為統義陽正,幾以保全二子,子孫千億,外攘四夷,內安中國焉。」
7月、大風が、王路堂を毀した。王莽は、また書を下した。
「大風は、私の悩みが原因だ。符命は、弟の王臨を皇太子にしろという。だが、兄の王安をさしおいて、弟を新室の2代皇帝にするのは、儒教的にNGだ。いま、兄の王安を新遷王とし、弟の王臨を統義陽王とする。私の悩みが晴れたから、この国は治まるだろう」
符命や古典に照らして、兄弟のどちらを皇太子にすべきか、王莽は論じている。本人だけが、理解できている議論である。笑
どうやら、弟の王臨を皇太子からおろし、統義陽王にした。兄の王安を、皇太子にしたという話である。
是月,杜陵便殿乘輿虎文衣廢臧在室匣中者出,自樹立外堂上,良久乃委地。吏卒見者以聞,莽惡之,下書曰:「寶黃廝亦,其令郎從官皆衣絳。
この月、王莽の虎ガラのシートが、ひとりでに赤土の上に落ちた。
王莽は命じた。「黄色をとうとび、赤色をいやしめ」
望氣為數者多言有士功象,莽又見四方盜賊多,欲視為自安能建萬世之基者,乃下書曰:「予受命遭陽九之厄,百六之會,府帑空虛,百姓匱乏,宗廟未修,且袷祭於明堂太廟,夙夜永念,非敢寧息。深惟吉昌莫良於今年,予乃卜波水之北,郎池之南,惟玉食。予又卜金水之南,明堂之西,亦惟玉食。予將新築焉。」於是遂營長安城南,提封百頃。九月甲申,莽立載行視,親舉築三下。司徒王尋、大司空王邑持節,及侍中常侍執法杜林等數十人將作。崔發、張邯說莽曰:「德盛者文縟,宜崇其制度,宣視海內,且令萬世之後無以復加也。」莽乃博征天下工匠諸圖畫,以望法度算,乃吏民以義入錢、谷助作者,駱驛道路。壞徹城西苑中建章、承光、包陽、犬台、儲元宮及平樂、當路、陽祿館,凡十餘所,取其材瓦,以起九廟。是月,大雨六十餘日。令民入米六百斛為郎,其郎吏增秩賜爵至附城。九廟:一曰黃帝太初祖廟,二曰帝虞始祖昭廟,三曰陳胡王統祖穆廟,四曰齊敬王世祖昭廟,五曰濟北湣王王祖穆廟,凡五廟不墮雲;六曰濟南伯王尊禰昭廟,七曰元城孺王尊稱穆廟,八曰陽平頃王戚禰昭廟,九曰新都顯王戚禰穆廟。殿皆重屋。太初祖廟東西南北各四十丈,高十七丈,餘廟半之。為銅薄櫨,飾以金銀雕文,窮極百工之巧。帶高增下,功費數百巨萬,卒徒死者萬數。
気が読める人は、王莽が功を立てる兆しを感じた。王莽もまた、盗賊がひどいので、新室を安定させるために、廟の建設をねがった。
「有"士"功象」を「有"土"功象」で訳したのかな。土木事業なんて、雲気にみちびいてもらわなくても、やりたいときに、やればいいのだ。
司徒の王尋と、大司空の王邑は、下見した。
王莽は、長安の南に、先祖をまつった九廟をたてた。
巨鹿男子馬適求等謀舉燕、趙兵以誅莽,大司空士王丹發覺以聞。莽遣三公大夫逮治党與,連及郡國豪傑數千人,皆誅死。封丹為輔國侯。
鉅鹿の男子である馬適求が、燕や趙の兵をあげて、王莽を討とうとした。大司空士の王丹は、事前に摘発した。数千人が、誅された。王丹を、輔國侯とした。
自莽為不順時令,百姓怨恨,莽猶安之,又下書曰:「惟設此一切之法以來,常安六鄉巨邑之都,枹鼓稀鳴,盜賊衰少,百姓安土,歲以有年,此乃立權之力也。今胡虜未滅誅,蠻僰未絕焚,江湖海澤麻沸,盜賊未盡破殄,又興奉宗廟社稷之大作,民眾動搖。今夏一切行此令,盡二年止之,以全元元,救愚奸。」
王莽が、季節を無視して、法令を執行した。百姓は、王莽を怨んだ。王莽は、書をくだした。
「新室に従わない勢力がいるから、イレギュラー対応として、法律を厳しくしている。2年したら、もとにもどすつもりだ」
是歲,罷大小錢,更行貨布,長二寸五分,廣一寸,真貨錢二十五。貨錢徑一寸,重五銖,枚直一。兩品並行。敢盜鑄錢及偏行布貨,伍人知不發舉,皆沒入為官奴婢。
この歳、大小銭をやめて、貨布と貨銭という、あたらしい通貨を発行した。私鋳したり、あたらしい貨幣の流通に協力的でない人は、摘発して奴婢におとした。
太傅平晏死,以予虞唐尊為太傅。尊曰:「國虛民貧,咎在奢泰。」乃身短衣小袖,乘牝馬柴車,藉槁,瓦器,又以曆遺公卿。出見男女不異路者,尊自下車,以象刑赭幡污染其衣。莽聞而說之,下詔申敕公卿思與厥齊。封尊為平化侯。
太傅の平晏が死んだ。予虞の唐尊を、太傅とした。唐尊は、清貧だった。王莽は、みな唐尊をマネろと命じた。
是時,南郡張霸、江夏羊牧、王匡等起雲杜綠林,號曰:下江兵」,眾皆萬餘人。武功中水鄉民三舍墊為池。
このとき、南郡の張霸、江夏の羊牧と王匡らは、雲杜に緑林を起こした。「下江兵」と号して、百余人をあつめた。
武功県の中水郷で、民の三舍が、池になった。
つぎの歳は、王莽の後継問題について。つづく。