06) 23 春夏, 昆陽で光武帝が勝つ
『漢書』王莽伝をやります。
光武帝を知る目的なので、天鳳4年(後17年)から。
ちくま訳を参照します。『漢書補注』でおぎなうのは、後日。
23年春:組織化された反乱軍、更始帝の漢兵
四年正月,漢兵得下江王常等以為助兵,擊前隊大夫甄阜、屬正樑丘賜,皆斬之,殺其眾數萬人。初,京師聞青、徐賊眾數十萬人,訖無文號旌旗表識,鹹怪異之。好事者竊言:「此豈如古三皇無文書號諡邪?」莽亦心怪,以問群臣,群臣莫對。唯嚴尤曰:笭此不足怪也。自黃帝、湯、武行師,必待部曲旌旗號令,今此無有者,直饑寒群盜,犬羊相聚,不知為之耳。」莽大說,群臣盡服。及後漢兵劉伯升起,皆稱將軍,攻城掠地,既殺甄阜,移書稱說。莽聞之憂懼。
地皇四年(23年)正月、漢兵(劉伯升たち)は、下江兵を合わせて、官軍の数万を斬った。
はじめ長安では、青州と徐州にいる数十万の盗賊は、組織や旗印がないことを聞いて、怪しんだ。もの好きが、
「文字が発明される以前、古代の軍団のようですね」
と述べた。王莽は、これに対する意見を求めたが、誰も分からない。
厳尤だけが、答えた。
「飢えと寒さで、盗賊たちは動いています。犬や羊と同じです」
王莽は、厳尤の指摘に、おおいに喜んだ。
旧斉の文化圏は、ヨコのつながりで動く。タテの官僚組織が、なじまない。曹操が青州兵を、個人的な紐帯?でつかった。臧覇に、間接的に統治させた。そういう自由な地域らしい。
王莽は、劉伯升が将軍をなのり、官軍を破ったと聞き、憂い懼れた。
漢兵乘勝遂圍宛城。初,世祖族兄聖公先在平林兵中。三月辛巳朔,平林、新市、下江兵將王常、硃鮪等共立聖公為帝,改年為更始元年,拜置百官。莽聞之愈恐。欲外視自安,乃染其鬚髮,進所征天下淑女杜陵史氏女為皇后,聘黃金三萬斤,車馬、奴婢、雜帛、珍寶以巨萬計。莽親迎於前殿兩階間,成同牢之禮於上西堂。備和嬪、美禦、和人三,位視公;嬪人九,視卿;美人二十七,視大夫;禦人八十一,視元士:凡百二十人,皆佩印韍,執弓。封皇后父諶為和平侯,拜為甯始將軍,諶子二人皆侍中。是日,大風髮屋折木。群臣上壽曰:「乃庚子雨水灑道,辛醜清靚無塵,其夕穀風迅疾,從東北來。辛醜。《巽》之宮日也。《巽》為風為順,後誼明,母道得,溫和慈惠之化也。《易》曰:『受茲介福,于其王母。』《禮》曰:『承天之慶,萬福無疆。』諸欲依廢漢火劉,皆沃灌雪除,殄滅無餘雜矣。百谷豐茂,庶草蕃殖,元元歡喜,兆民賴福,天下幸甚!」莽日與方士涿郡昭尹等於後宮考驗方術,縱淫樂焉。大赦天下,然猶曰:「故漢氏舂陵侯群子劉伯升與其族人婚姻党及北狄胡虜逆輿洎南僰虜若豆、孟遷,不用此書。有能捕得此人者,皆封為上公,食邑萬戶,賜寶貨五千萬。」
劉伯升は、勝ちに乗じて、宛城を囲んだ。
はじめ光武帝の族兄・劉玄は、平林兵のなかにいた。3月辛巳ついたち、平林、新市、下江の兵たちは、劉玄を皇帝につけて、更始元年と改元した。
王莽は、更始帝の即位に、いよいよ恐れた。
王莽は、新室が安泰だと示すため、ヒゲと髪を染めた。あたらしい皇后を立てた。120人がいる後宮をつくった。皇后の父・史諶を、和平侯に封じ、甯始將軍とした。外戚を登用した。書を下した。
「廉丹らは、盗賊に殺された。カタキを取った者を、上公とする」
皇室の行く末がヤバくなったとき、王莽が真っ先にやったのが、若づくり。つぎに、外戚を固めること。もともと王莽の家は、前漢の外戚として、権力を握った。外戚は、皇族を支えるため、必要不可欠だという認識だ。
又詔:「太師王匡、國將哀章、司命孔仁、兗州牧壽良、卒正王閎、揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬眾,迫措青、徐盜賊。納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂、車騎將軍王巡、左隊大夫王吳亟進所部州郡兵凡十萬眾,迫措前隊醜虜。明告以生活丹青之信,複迷惑不解散,皆並力合擊,殄滅之矣!大司空隆新公,宗室戚屬,前以虎牙將軍東指則反虜破壞,西擊則逆賊靡碎,此乃新室威寶之臣也。如黠賊不解散,將遣大司空將百萬之師征伐剿絕之矣!」遣七公幹士隗囂等七十二人分下赦令曉諭雲。囂等既出,因逃亡矣。
また王莽は、詔した。
「太師の王匡、國將の哀章、司命の孔仁らは、青州と徐州を平定せよ。納言將軍の嚴尤、秩宗將軍の陳茂らは、担当する地区を鎮圧せよ」
王莽は、七公幹士の隗囂ら72人らを地方に送り、罪を赦すと布令させた。隗囂は、長安から出ると、逃亡した。
こうして隗囂は、後漢初の群雄に成長する。伏線だね。
23年夏:昆陽で42万が破られ、劉歆がそむく
四月,世祖與王常等別攻潁州,下昆陽、郾、定陵。莽聞之愈恐。遣大司空王邑馳偉至雒陽,與司徒王尋發眾郡兵百萬,號曰「虎牙五威兵」,平定山東。得顓封爵,政決於邑,除用征諸明兵法六十三家術者,各持圖書,受器械,備軍吏。傾府庫以遣邑,多齎珍寶、猛獸,欲視饒富,用怖山東。邑至雒陽,州郡各選精兵,牧守自將,定會者四十二萬人,餘在道不絕,車甲士馬之盛,自古出師未嘗有也。
23年4月、光武帝は下江兵と別れ、潁川を攻めた。光武帝は、昆陽、郾、定陵の3県を陥とした。王莽は、いよいよ恐れた。
司徒の王尋は、諸郡の兵100万を徴発した。司空の王邑は、洛陽で42万を編成した。兵法をはじめ、図讖や器械をあやつれる人を集めた。新室の官軍は、いまだかつてない陣容である。
ともあれ、三公の王氏が2人で率いたのは、揺るがないだろう。王莽にとって、気合の入った討伐軍であることは、確認せねばならない。
六月,邑與司徒尋發雒陽,欲室宛,道出潁川,過昆陽。昆陽時已降漢,漢兵守之。嚴尤、陳茂與二公會,二公縱兵圍昆陽。嚴尤曰:「稱尊號者在宛下,宜亟進。彼破,諸城自定矣。」邑曰:「百萬之師,所過當滅,今屬此城,喋血而進,前歌後舞,顧不快邪!」遂圍城數十重。城中請降,不許。嚴尤又曰:「『歸師勿遏,圍城為之闕』,可如兵法,使得逸出,以怖宛下。」邑又不聽。會世祖悉發郾、定陵兵數千人來救昆陽,尋、邑易之,自將萬余人行陳,敕諸營皆按部毋得動,獨迎,與漢兵戰,不利。大軍不敢擅相救,漢兵乘勝殺尋。昆陽中兵出並戰,邑走,軍亂。大風飛瓦,雨如注水,大眾崩壞號呼,虎豹股栗,士卒奔走,各還歸其郡。邑獨與所將長安勇敢數千人還雒陽。關中聞之震恐,盜賊並起。
23年6月、司徒の王尋は、洛陽を発った。王尋は、厳尤と陳茂と合わさり、昆陽をかこんだ。
厳尤は提案した。
「宛城に、更始帝を名のる人がいる。更始帝さえ倒せば、この昆陽は、おのずと降伏するだろう」
王邑は、却下した。
「百万の軍がいれば、更始帝を倒せて当たり前だ。それより、この昆陽を血祭りにしてから、歌って踊って進軍したい。楽しいぞ」
厳尤は、さらに提案した。
「昆陽を囲うなら、逃げ道を用意してやるべきだ」
王邑は、ふたたび却下した。
光武帝が、昆陽を救いにきた。王尋と王邑は、光武帝をあなどり、小隊で迎撃した。光武帝が圧倒した。新室の大軍は、持ち場を守るだけで、王尋と王邑を救わない。漢兵は王尋を殺し、王邑はちりぢりに逃げた。王邑は、長安から連れてきた数千人と、洛陽にもどった。
関中は震え、盗賊が起こった。
又聞漢兵言,莽鴆殺孝平帝。莽乃會公卿以下于王路堂,開所為平帝請命金滕之策,泣以視群臣。命明學男張邯稱說其德及符命事,因曰:「《易》言『伏戎於莽,升其高陵,三歲不興。』『莽』,皇帝之名,『升』謂劉伯升。『高陵』謂高陵侯子翟義也。言劉升、翟義為伏戎之兵于新皇帝世,猶殄滅不興也。」群臣皆稱萬歲。又令東方檻車傳送數人,言「劉伯升等皆行大戮」。民知其詐也。
漢兵は、王莽が前漢の平帝を毒殺したと、言いふらした。王莽は、平帝の快癒を祈った文書を、百官に示して、泣いた。
王莽は「劉伯升が、殺戮している」とデマを流した。信じられず。
◆王渉と董忠と劉歆がそむく
先是,衛將軍王涉素養道士西門君惠。君惠好天文讖記,為涉言:「星孛掃宮室,劉氏當復興,國師公姓名是也。」涉信其言,以語大司馬董忠,數俱至國師殿中廬道語星宿,國師不應。後涉特往,對歆涕泣言:「誠欲與公共安宗族,奈何不信涉也!」歆因為言天文人事,東方必成。涉曰:「新都哀侯小被病,功顯君素耆酒,疑帝本非我家子也。董公主中軍精兵,涉領宮衛,伊休侯主殿中,如同心合謀,共劫持帝,東降南陽天子,可以全宗族;不者,俱夷滅矣!」伊休侯者,歆長子也,為侍中五官中朗將,莽素愛之。歆怨莽殺其三子,又畏大禍至,遂與涉、忠謀,欲發。歆曰:「當待太白星出,乃可。」忠以司中大贅起武侯孫亻及亦主兵,複與亻及謀。亻及歸家,顏色變,不能食。妻怪問之,語其狀。妻以告弟雲陽陳邯,邯欲告之。
これより先、衛將軍の王渉は、図讖を聞いた。
「國師公の姓名は劉歆である。劉歆とは、漢の復興を示す」
王渉は、大司馬の董忠と、国師公の劉歆に、漢の復興を話した。更始帝に降伏すべきだと、さそった。
王渉のうごきが、王莽に知られてしまった。
七月,亻及與邯俱告,莽遣使者分召忠等。時忠方進兵都肄,護軍王鹹謂忠謀久不發,恐漏泄,不如遂斬使者,勒兵入。忠不聽,遂與歆、涉會省戶下。莽令{帶足}惲責問,皆服。中黃門各拔刃將忠等送廬,忠拔劍欲自刎,侍中王望傳言大司馬反,黃門持劍共格殺之。省中相驚傳,勒兵至郎署,皆拔刃張弩。更始將軍史諶行諸署,告郎吏曰:「大司馬有狂病,發,已誅。」皆令馳兵,莽欲以厭凶,使虎賁以斬馬劍挫忠,盛以竹器,傳曰「反虜出」。下書赦大司馬官屬吏士為忠所詿誤,謀反未發覺者。收忠宗族,以醇醯毒藥、尺白刃叢棘並一坎而埋之。劉歆、王涉皆自殺。莽以二人骨肉舊臣,惡其內潰,故隱其誅。
7月、董忠は宮中で殺された。皇后の父・更始將軍の史諶は、
「董忠は、気が狂う病になったから、誅しました」
と告げた。王莽は、董忠の死体を刻ませて、宮中から出した。
劉歆と王渉も自殺した。王莽は、自分の一族や、古くからの臣下による謀反なので、公表しなかった。
伊休侯疊又以素謹,歆訖不告,但免侍中中郎將,更為中散大夫。後日殿中鉤盾土山仙人掌旁有白頭公青衣,郎吏見者私謂之國師公。衍功侯喜素善卦,莽使筮之,曰:「憂兵火。」莽曰:「小兒安得此左道?是乃予之皇祖叔父子僑欲來迎我也。」
伊休侯疊は、劉歆から何も聞いていないから、連座せず。
王莽は、仙人像のそばに現れた白頭公を、皇祖の迎えだと判断した。
莽軍師外破,大臣內畔,左右亡所信,不能複遠念郡國,欲呼邑與計議。崔發曰:「邑素小心,今失大眾而征,恐其執節引決,宜有以大慰其意。」於是莽遣發馳傳諭邑:「我年老毋適子,欲傳邑以天下。敕亡得謝,見勿複道。」邑到,以為大司馬。大長秋張邯為大司徒,崔發為大司空,司中壽容苗為國師,同說侯林為衛將軍。莽憂懣不能食,亶飲酒,啖鰒魚。讀軍書倦,因憑幾寐,不復就枕矣。性好時日小數,及事迫急,亶為厭勝。遣使壞渭陵、延陵園門罘罳,曰:「毋使民複思也。」又以墨洿色其周垣。號將至曰「歲宿」,申水為「助將軍」,右庚「刻木校尉」,前丙「耀金都尉鸀,又曰「執大斧,伐枯木;流大水,滅發火。」如此屬不可勝記。
王莽は、外は軍隊が破れ、内は重臣に叛かれた。そばに、信じられる人がいない。王邑を呼んで、作戦を語ろうとした。
崔發は、王莽に注意した。
「王邑は小心です。王邑を呼べば、昆陽での敗戦をとがめられると思い、自殺します。呼び出す意図を、きちんとお伝えになるように」
王莽は、王邑に伝えた。
「私には、嫡子がない。王邑に天下を任せたい」
王邑は、大司馬になった。
王莽は、心がふさいで食欲がない。酒ばかり飲み、アワビばかり食べた。軍事の本を読んでも飽き、座ったまま眠り、横にならなかった。マジナイと、将軍号の改称に熱中した。
つぎ、23年の秋冬です。つづきます。