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『晋書』列伝70、反逆者の列伝 8)杜弢
杜弢
杜弢,字景文,蜀郡成都人也。祖植,有名蜀土,武帝時為符節令。父,略陽護軍。弢初以才學著稱,州舉秀才。遭李庠之亂,避地南平,太守應詹愛其才而禮之。後為醴陵令。時巴蜀流人汝班、蹇碩等數萬家,布在荊湘間,而為舊百姓之所侵苦,並懷怨恨。會屬賊李驤殺縣令,屯聚樂鄉,眾數百人,弢與應詹擊驤,破之。

杜弢は、あざなを景文という。蜀郡の成都の人である。
祖父の杜植は、蜀の地方で名を知られた。杜植は武帝(司馬炎)のとき、符節令になった。
父の杜□□は、略陽護軍だった。
はじめ杜弢は、才学を称えられ、益州は秀才に挙げた。李庠之亂が起きると、杜弢は南平郡に避難した。南平太守の應詹は、杜弢の才能を愛して、礼遇した。のちに杜弢は醴陵令となった。
巴蜀の流人である汝班や蹇碩らは、数万家の集団だった。荊水と湘水の間に分布していたので、もとから住んでいた百姓は生活を侵害され、流人に怨恨を抱いた。流人の中にいた賊の李驤は縣令を殺し、数百人で群れて樂鄉に屯した。杜弢と應詹は、李驤を撃破した。

蜀人杜疇、蹇撫等複擾湘州,參軍馮素與汝班不協,言于刺史荀眺曰:「流人皆欲反。」眺以為然,欲盡誅流人。班等懼死,聚眾以應疇。

蜀人の杜疇や蹇撫らも、湘州を乱した。參軍の馮素と汝班は協力しないで(ろくな討伐をやらず)、湘州刺史の荀眺に、
「流人は全て叛乱しようとしています」
と報告だけした。
〈訳注〉自分たちが平定できなかったのは、敵が多かったからだ。そういう弁明です。
「そうに違いない」
荀眺は2人のダメな参軍の言葉をそのまま受け取り、流人を全て誅殺しようと考えた。参軍の汝班らは、流人に殺されるのを懼れて、兵を集めて(流人の)杜疇に応じた。

時弢在湘中,賊眾共推弢為主,弢自稱梁益二州牧、平難將軍、湘州刺史,攻破郡縣,眺委城走廣州。廣州刺史郭訥遣始興太守嚴佐率眾攻弢,弢逆擊破之。荊州刺史王澄複遣王機擊弢,敗于巴陵。弢遂縱兵肆暴,偽降于山簡,簡以為廣漢太守。

このとき杜弢は湘中にいた。賊たちは、共に杜弢を推戴してリーダーにした。杜弢は自ら、
「梁益二州牧、平難將軍、湘州刺史」
と称して、郡縣を攻め破った。荀眺は城を委ねて廣州に逃げた。
廣州刺史の郭訥は、始興太守の嚴佐に兵を率いさせて、杜弢を攻めた。だが杜弢は、郭訥を返り討ちにした。荊州刺史の王澄は、ふたたび王機を討伐に遣ったが、杜弢に巴陵で敗れた。 杜弢は兵に好きなだけ暴れさせた。
杜弢は偽って山簡に降伏した。山簡は、杜弢を廣漢太守にした。

眺之走也,州人推安成太守郭察領州事,因率眾討弢,反為所敗,察死之。弢遂南破零陵,東侵武昌,害長沙太守崔敷、宜都太守杜鑒、邵陵太守鄭融等。元帝命征南將軍王敦、荊州刺史陶侃等討之,前後數十戰,弢將士多物故,於是請降。帝不許。弢乃遺應詹書曰:(中略)

荀眺が逃げてしまったので、湘州の人は安成太守の郭察を推薦して、州の政事を領ねさせた。郭察は兵を率いて杜弢を討とうとしたが、逆に杜弢に敗れて殺された。
杜弢は南の零陵郡を破り、東の武昌を侵した。杜弢は、長沙太守の崔敷、宜都太守の杜鑒、邵陵太守の鄭融らを殺害した。
元帝は征南將軍の王敦荊州刺史の陶侃らに命じて、杜弢を討たせた。前後數十回も戦い、杜弢は將士が多くが死んだ。
「投降したい」
と杜弢が願ったが、元帝は許さなかった。杜弢は、(元上司の)應詹に書状を送った。その書状に曰く(中略)
〈訳注〉800字強で、これまでの言い訳をして、投降の口利きを頼んでいる。杜弢にもっと関心が出てきたら訳します。。

詹甚哀之,乃啟呈弢書,並上言曰:「弢益州秀才,素有清望,文理既優,幹事兼美(以下略)」
帝乃使前南海太守王運受弢降,宣詔書大赦,凡諸反逆一皆除之,加韜巴東監軍。


応詹は杜弢のメッセージをひどく哀しみ、元帝に提出した。応詹はコメントを添えて曰く、
「杜弢は益州の秀才で、もとより清望があり、文理は優れ、実行力も兼ね備えています(以下略)」
〈訳注〉300字弱で、杜弢がどれだけ素晴らしい人か、どれだけ投降を受け入れるメリットがあるかを説いている。
元帝は、さきの南海太守の王運に、
「キミが杜弢の投降を受け入れよ」
と命じた。詔して大赦したが、叛逆した人たちは対象外だった。巴東監軍に韜を加えた。
〈訳注〉「韜」とは、弓を射るときに左手を守るための防具。防衛を強化したという意味か?

弢受命後,諸將殉功者攻擊之不已,弢不勝憤怒,遂殺運而使其將王真領精卒三千為奇兵,出江南,向武陵,斷官軍運路。陶侃使伏波將軍鄭攀邀擊,大破之,真步走湘城。於是侃等諸軍齊進,真遂降侃,眾黨散潰。弢乃逃遁,不知所在。

杜弢が元帝に降伏を許可されてからも、功を立てることに熱心な東晋軍は、杜弢への攻撃をやめなかった。
杜弢は約束が違うので憤怒し、(投降を受け入れる役のはずが、逆に杜弢を攻めてきた)王運を殺した。
杜弢は、部将の王真に精兵3000を率いさせ、奇兵を組織した。奇兵は江南に出て、武陵に向かい、官軍の補給路を断ち切った。陶侃は、伏波將軍の鄭攀を出撃させ、王真の奇兵を大いに破った。王真は、湘城に逃げ込んだ。
陶侃らの諸軍は一斉に進んだ。王真は陶侃に降り、軍党はちりぢりに逃げた。杜弢も逃げ出し、行方知れずになった。
〈訳注〉杜弢伝はこれで終わりです。
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝70、反逆者の列伝
1)王弥-上
2)王弥-下
3)張昌
4)陳敏-上
5)陳敏-下
6)王如
7)杜曾
8)杜弢
9)王機、王矩、その他