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『晋書』列14、漢魏からの名族
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7)魏恩を忘れぬ華表
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華表
華表,字偉容,平原高唐人也,父歆,清德高行,為魏太尉。表年二十,拜散騎黃門郎,累遷侍中。正元初,石苞來朝,盛稱高貴鄉公,以為魏武更生。時聞者流汗沾背,表懼禍作,頻稱疾歸下舍,故免於大難。後遷尚書。五等建,封觀陽伯。坐供給喪事不整,免。泰始中,拜太子少傅,轉光祿勳。遷太常卿。數歲,以老病乞骸骨。詔曰:「表清貞履素,有老成之美,久幹王事,靜恭匪懈。而以疾固辭,章表懇至。今聽如所上,以為太中大夫,賜錢二十萬,床帳褥席祿賜與卿同,門施行馬。」表以苦節垂名,司徒李胤、司隸王宏等並歎美表清澹退靜,以為不可得貴賤而親疏也。咸甯元年八月卒,時年七十二,諡曰康,詔賜朝服。有六子:暠、岑、嶠、鑒、澹、簡。
華表は、あざなを偉容という。平原郡は高唐県の人だ。
父の華歆は、清德にして高行で、魏代に太尉となった。
華表は、二十歳で散騎黃門郎を拝して、かさねて侍中に遷った。
正元初(254年)、石苞が來朝して、高貴鄉公(曹髦)を盛稱した。
「曹髦さまは、曹操さまの生まれ変わりだ」
これを聞いた人は、汗を流して、背中がビショビショになった。
〈訳注〉「沾」は潤すこと。
華表は、石苞の発言が、禍いを招くことを懼れた。華表はしきりに「病気なので」と称して、下舍に帰った。それゆえに華表は、大難を免れることができた。
〈訳注〉大難とは、曹髦が司馬昭に逆クーデターをしたとき、曹髦に連座すること。
のちに華表は、尚書になった。
五等官が建てられると、華表は觀陽伯に封じられた。(親族で)喪のやり方が整っていなかったので、華表は連座して免官になった。
泰始中(265年-274年)、太子少傅を拝し、光祿勳に轉じた。太常卿に遷った。数年して、老病だから引退を願い出た。
詔が出た。
「華表は、清貞履素で、老成之美がある。久しく王事を幹し、靜恭にて懈怠がない。病気だから引退したいと華表が言うのは、よく分かった。華表を太中大夫(名誉職)として、錢二十萬を賜え。床帳褥席と俸禄は、卿と同じレベルのものを賜え。門は行馬を施せ」
華表は苦節によって垂名した。 司徒の李胤と司隸の王宏らは、華表の清澹退靜(身の引き際の正しさ)を歎美した。貴賤にして親疏であることは、得られないものだ(行いの美しさは先天的だ)。
〈訳注〉『晋書』のこの巻の筆者は、誰だか知りませんが、いちいち持論で説明を加えるクセがあります。
咸甯元(275)年8月に、華表は死んだ。72歳だった。「康」とおくり名された。詔して朝服を賜った。
華表には6人の子がいた。暠、岑、嶠、鑒、澹、簡である。
華暠
暠字長駿,弘敏有才義。妻父盧毓典選,難舉姻親,故暠年三十五不得調,晚為中書通事郎。泰始初,遷冗從僕射。少為武帝所禮,曆黃門侍郎、散騎常侍、前軍將軍、侍中、南中郎將、都督河北諸軍事。父疾篤輒還,仍遭喪舊例,葬訖複任,暠固辭,迕旨。
華暠は、あざなを長駿という。弘敏で才義があった。妻の父である盧毓が典籍の建前にこだわって、婿の華暠を推挙しなかった。ゆえに華暠は35歳まで立場が調わず、晩年に中書通事郎となった。
〈訳注〉不偏不党で、親族だとしても甘くしない。素晴らしい心がけだが、婿殿は迷惑している。
泰始初(265年)、華暠は冗從僕射に遷った。若くして武帝に礼遇されて、黄門侍郎、散騎常侍、前軍將軍、侍中、南中郎將を歴任して、都督河北諸軍事となった。
父の華表の病気が篤くなると、すぐに退官して還り、旧例どおりに喪をやった。葬儀が終わると、たびたび任命を受けたが、華暠は固辞して、命令を聞かなかった。
〈訳注〉「迕」とは、違う方向から来たものが交錯すること、転じて歯向かうこと。
初,表有賜客在鬲,使暠因縣令袁毅錄名,三客各代以奴。及毅以貨賕致罪,獄辭迷謬,不復顯以奴代客,直言送三奴與暠,而毅亦盧氏婿也。又中書監荀勖先為中子求暠女,暠不許,為恨,因密啟帝,以袁毅貨賕者多,不可盡罪,宜責最所親者一人,因指暠當之。又綠暠有違忤之咎,遂於喪服中免暠官,削爵土。大鴻臚何遵奏暠免為庶人,不應襲封,請以表世孫混嗣表。有司奏曰:「暠所坐除名削爵,一時之制。暠為世子,著在名簿,不聽襲嗣,此為刑罰再加。諸侯犯法,八議平處者,褒功重爵也。嫡統非犯終身棄罪,廢之為重,依律應聽襲封。」詔曰:「諸侯薨,子逾年即位,此古制也。應即位而廢之,爵命皆去矣,何為罪罰再加?且吾之責暠,以肅貪穢,本不論常法也。諸賢不能將明此意,乃更詭易禮律,不顧憲度,君命廢之,而群下複之,此為上下正相反也。」於是有司奏免議者官,詔皆以贖論。混以世孫當受封,逃避,斷發陽狂,病喑不能語,故得不拜,世鹹稱之。
はじめ華表は、鬲県に賜客を囲った。華表は、華暠に命じた。
「鬲県令に袁毅という人がいる。袁毅に、私の賜客の名前を記録させよ。賜客のうち3人は、奴僕が代わったものだ(化けの皮を剥がして、元の身分に戻そう)」
〈訳注〉客とは、主人に無料で住居や食料を与えられている。非常時に特別な才能を発揮して、主人の役に立つことが期待されている。奴とは、良民の資格のない労働力だ。客と奴では大違いだ。
袁毅は奴を探す仕事をするとき、
「私に賄賂を渡さないと、奴僕として名を記すぞ」
と賜客を脅した。
袁毅が賄賂を取ったことが発覚して、有罪になった。取調べ文書は迷謬で(わけが分からず)、奴と客の区別が付かなかった。直言して三奴を送り、華暠に引き渡した。
〈訳注〉直言?よく分かりません。
しかも袁毅は盧氏の婿だった。
〈訳注〉華暠の妻は盧氏だ。袁毅も華暠も、盧氏の婿だから、いちおう親族になる。連座の対象だ。
先に中書監の荀勖は、自分の中子に華暠の娘を娶らせたいと頼んだことがあった。華暠が許さなかったから、荀勖は華暠を恨んだ。だから荀勖は、ひそかに武帝に吹き込んだ。
「袁毅が賄賂を横行させたことを、全て袁毅の罪にしてはいけません。いちばんの責任は、袁毅の親族である華暠です」
華暠は違忤之咎を記録された。
〈訳注〉「忤」はさからうこと。「違」と同義だ。
華暠は服喪中に免官となり、爵土を削られた。
大鴻臚の何遵は上奏した。
「華暠を免官して庶人とし、封土の継承を許してはいけません。華表の世孫の華混(華暠の甥)に、華表を嗣がせて下さい」
〈訳注〉華表-華暠-華混ではなく、華表-華混となる。華暠の存在そのものが、華氏の家譜から消える。
有司は上奏した。
「華暠は袁毅に連座して、名を除かれ爵を削られましたが、これは一時之制です。華暠を世子として家譜に記録し、襲嗣を許さなければ、(廃嫡と免爵とで)刑罰を二重に加えたことになります。諸侯の犯法に精通した人は、功績を褒めて、重複して爵位を授けても良いと考えます(刑罰をダブらせてはいけません)。嫡統の人が終身刑に相当する罪を犯していないなら、廃嫡すれば充分に重い罰となります。(すでに罪が充分なので)華暠の家系で襲封することは許すべきです」
詔が判決した。
「諸侯が薨じると、子は親の位を嗣ぐ。これは古制だ。位に即いてから廃せば、爵命は全て没収される。なぜ(廃嫡と免爵とで)罪罰をダブッて加えて良いのか?かつ華暠は慎み深い人なのに、貪穢な罪状を受けた。(矛盾して複雑だから)もとより常法に当てはめて論じられない。諸賢は、華暠の件が例外だと分からないから、禮律を詭易し(安易に読み違いして)、憲度(本来の意味)を顧みない。君命は前例を廃すこともあるが、群下は前例に従うだけだ。だから上下の意見が、相反するのだ」
〈訳注〉華氏から廃嫡はするが、華暠その人から官爵は取り上げない。これが武帝の下した判決だ。
この詔により、華暠を免官すべきだと議論した有司たちは、持論を引っ込めた。
〈訳注〉「贖」とは、財貨を払って引き取ること、金品や行為によって過失を帳消しにすること。ここでは金品の授受はなさそうだから、ただ「引っ込めた」と訳した。
華表の世孫だから、華混が受封すべきだった。だが華混は逃避し、陽狂を断続的に発作し、病喑して言葉が喋れなくなった。ゆえに華混は爵位を拝せなくなった。世の人は、華混のやり方を称えた。
〈訳注〉陽狂とは、仮病で狂ったふりをすること。自分に爵位を移すという判決に、反発したのだろう。
暠棲遲家巷垂十載,教誨子孫,講誦經典。集經書要事,名曰《善文》,行於世。與陳勰共造豬闌於宅側,帝嘗出視之,問其故,左右以實對,帝心憐之。帝后又登陵雲台,望見廙苜蓿園,阡陌甚整,依然感舊。太康初大赦,乃得襲封。久之,拜城門校尉,遷左衛將軍。數年,以為中書監。惠帝即位,加侍中、光祿大夫、尚書令,進爵為公。暠應楊駿召,不時還,有司奏免官。尋遷太子少傅,加散騎常侍,動遵禮典,得傅導之義。後年衰病篤,詔遣太醫療病,進位光祿大夫、開府儀同三司。時河南尹韓壽因托賈後求以女配暠孫陶,暠距而不許,後深以為恨,故遂不登臺司。年七十五卒,諡曰元。三子:混、薈、恆。
華暠は遲家に棲み、巷に十載を垂れ、子孫に教誨し、經典を講誦した。
〈訳注〉「誨」も教えること。「毎」という音符には、「くらい」という意味がある。相手の「くらい」部分を言葉で取り除くから、教えるという意味になるのだそうで。
華暠は、經書の要点をまとめて『善文』を著し、世間で読まれた。
華暠は陳勰とともに、自宅のそばに豬闌を造った。
〈訳注〉「豬」とはイノシシ。「闌」とは、欄干のランに通じ、棒を横に連ねて、出入りを遮るもの。華暠は、イノシシの防護柵を作ったのだ。
武帝がこれを見て、
「なぜイノシシの柵を作ったのか」
と問うた。
左右の人は、つぶさに理由を答えた。武帝は心から憐れんだ。
〈訳注〉なんと答えたんだろう?「華暠は志があるのに仕事がないから、活力を持て余していますよ」と言ったのかなあ。
武帝はのちに陵雲台に登り、廙苜蓿園を望み見た。阡陌はとても整っていたから、武帝は(華暠が宮廷にいた)昔日を懐かしく思った。
〈訳注〉華暠がヒマを持て余して造園したのか。でないと、列伝のここに挿入する意味がない。
太康初(280年)大赦があり、華暠は封地を襲うことができた。久しくして、華暠は城門校尉を拝し、左衛將軍に遷った。數年して、華暠は中書監になった。
惠帝が即位すると、華暠は侍中を加えられ、光祿大夫、尚書令、公に爵位を進めた。華暠は楊駿の召しに応じたが、時ならずして(勝手に)還った。有司は華暠を免官にせよと上奏した。
太子少傅に遷り、散騎常侍を加えられた。華暠は禮典を動遵し、良い教育係であった。
後年、華暠は衰えて病気が篤くなった。詔して、太醫(太医)に華暠を治療させた。位は光祿大夫に進み、開府儀同三司。
ときの河南尹だった韓壽は、賈皇后に頼んだ。
「私の娘を、華暠の孫の華陶に嫁がせて下さい」
華暠はこれを拒んで許さなかったから、深く恨まれた。ゆえに華暠は、台司に上らなくなった(公務をできなくなった)。
〈訳注〉華暠は、荀勖と韓壽(に連なる外戚賈氏)と姻族になるのを拒否した。世渡りが下手だ。祖父の華歆は、魏に恩を受けた。荀彧や賈充の家の人が、魏を捨てて晋に靡いたことを嫌ったのだろう。
75歳で死んだ。「元」とおくり名された。
華暠には三子がいた。混、薈、恆である。
次は華暠の子供たちです。
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨
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