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『晋書』列14、漢魏からの名族 8)王導の口利き、華恆
華暠には3人の子がいました。

華混、華薈
混字敬倫,嗣父爵,清貞簡正,曆位侍中、尚書,卒官。子陶嗣,補鞏令,沒于石勒。
薈字敬叔,為河南尹。與荀籓、荀組俱避賊,至臨穎,父子並遇害。

華混は、あざなを敬倫という。父である華暠の爵位を嗣いだ。華混は、清貞で簡正な人だった。侍中、尚書を歴任し、在官のまま死んだ。子の華陶が嗣いだ。
〈訳注〉華陶は、韓壽の娘を娶らなかった人だ。
華陶は、鞏令になり、石勒に殺された。
華薈は、あざなを敬叔という。河南尹となった。荀籓、荀組とともに、異民族から避難した。穎水に至ったところで、父子ともに殺害された。

華恆
恆字敬則,博學以清素為稱。尚武帝女滎陽長公主,拜駙馬都尉。元康初,東宮建,恆以選為太子賓友,賜爵關內侯,食邑百戶。辟司徒王渾倉曹掾,屬除散騎侍郎,累遷散騎常侍、北軍中候,俄拜領軍,加散騎常侍。
湣帝即位,以恆為尚書,進爵苑陵縣公。頃之,劉聰逼長安,詔出恆為鎮軍將軍,領潁川太守,以為外援。恆興合義軍,得二千人,未及西赴,而關中陷沒。時群賊方盛,所在州郡相繼奔敗,恆亦欲棄郡東渡,而從兄軼為元帝所誅,以此為疑。先書與驃騎將軍王導,導言於帝。帝曰:「兄弟罪不相及,況群從乎!」即召恆,補光祿勳。恆到,未及拜,更以為衛將軍,加散騎常侍、本州大中正。

華恆は、あざなを敬則という。博學な人で、清素を称えられた。
武帝の娘である滎陽長公主を尚び、駙馬都尉を拝した。
元康初(291年)、東宮が建てられた。華恆は、太子の賓友に選出され、關內侯の爵位と食邑百戸を賜った。司徒の王渾に召され、倉曹掾となった。散騎侍郎から、散騎常侍に遷り、北軍中候。にわかに領軍を拝し、散騎常侍を加えられた。
湣帝が即位すると、華恆を尚書として、爵位を苑陵縣公に進めた。このころ、劉聰が長安に迫った。愍帝は詔した。
「華恆を長安から出し、鎮軍將軍とする。潁川太守を領ねて、長安を外援せよ
華恆が義勇軍を興すと、二千人が集まった。頴川から長安の救援に向かう前に、關中が陷沒した(長安陥落)。
ときに群賊が方盛し、州郡では官軍が相次いで奔敗した。華恆は、頴川郡を捨てて東晋に合流したかった。だが從兄の華軼が司馬睿に誅されたことがあり、華恆は司馬睿を頼っていいか迷った。
まず華恆は、書状を驃騎將軍の王導に送った。
〈訳注〉王導は言うまでもなく、司馬睿の右腕。
王導は司馬睿に、
「華恆が、江南の私たちを頼りたいようですが」
と話した。司馬睿は言った。
「兄弟の罪は、及ばないものだ。まして従兄の罪など関係ねえ」
司馬睿はすぐに華恆を召して、光祿勳にした。華恆が到着すると、まだ光祿勳に着任する前に、衛將軍に昇進させ、散騎常侍を加えて、本州大中正にした。
〈訳注〉華氏は青州の人。青州の人事権を与えたのだ。東晋の成立期だから、華北の名族の取り込みに熱心なんだ。

尋拜太常,議立郊祀。尚書刁協、國子祭酒杜彝議,須還洛乃修郊祀。恆議,漢獻帝居許,即便郊柴,宜於此修立。司徒荀組、驃騎將軍王導同恆議,遂定郊祀。尋以疾求解,詔曰:「太常職主宗廟,烝嘗敬重,而華恆所疾,不堪親奉職事。夫子稱'吾不與祭,如不祭',況宗伯之任職所司邪!今轉恆為廷尉。」頃之,加特進。
太甯初,遷驃騎將軍,加散騎常侍,督石頭水陸諸軍事。王敦表轉恆為護軍,疾病不拜。授金紫光祿大夫,又領太子太保。成帝即位,加散騎常侍,領國子祭酒。咸和初,以湣帝時賜爵進封一皆削除,恆更以討王敦功封苑陵縣侯,複領太常。蘇峻之亂,恆侍帝左右,從至石頭,備履艱危,困悴逾年。

華恆は太常を拝し、郊祀(司馬睿の即位の儀式)をどうすべきかと議論を立てた。
尚書の刁協、國子祭酒の杜彝は、
「必ずや洛陽に戻って、郊祀を修めるべきです」
と主張した。
華恆は言った。
「漢代の献帝は(曹操に保護されて)許で郊柴を行なった。この前例に倣って、洛陽にこだわらず、建康で即位しても良いでしょう」
司徒の荀組、驃騎將軍の王導は、華恆と同じ意見だから、ついに郊祀が定まり、司馬睿は即位した。
華恆は病気だから解任を願った。詔に曰く、
「(華恆が就いている)太常の職務は、宗廟の面倒を見ることで、大切な仕事だ。だが華恆は病気となって、職務に堪えない。孔子は言った。『私が祭祀を行なわなければ、(廟だけあっても)祭っていないのと同じだ』と。ましてや宗伯の任職を司る人(太常)が、祭祀を行なえないのは困ったことだ。いま華恆を、廷尉に転じよう」
〈訳注〉孔子がサボっても祭祀が無効になる。孔子どころか、祭祀の責任者がその仕事を放棄してしまっては、司馬氏の祖先に申し訳が立たない。そういう論法だ。華恆を非難するというより、華恆の異動を後押ししたような理屈づけか。
このころ華恆は、特進を加えられた。
太甯初、華恆は驃騎將軍に遷り、散騎常侍を加えられ、石頭城で水陸諸軍事を督した。王敦は上表して、華恆を護軍にせよと言ったが、疾病のため華恆は受けなかった。金紫光祿大夫を授かり、また太子太保を領ねた。
3代成帝が即位すると、華恆は散騎常侍を加えられ、國子祭酒を領ねた。
咸和初、湣帝のときに賜った爵位と封地をリセットされた。華恆はあらためて、王敦を討伐した功績により、苑陵縣侯に封じられて、ふたたび太常を領ねた。蘇峻之亂のとき、華恆は成帝の左右に侍り、成帝に従って石頭城に行った。
艱危を備履し(修羅場を抜けてきて)、困悴して年を逾す。

初,恆為州大中正,鄉人任讓輕薄無行,為恆所黜。及讓在峻軍中,任勢多所殺害,見恆輒恭敬,不肆其虐。鐘雅、劉超之死,亦將及恆,讓盡心救衛,故得免。
及帝加元服,又將納後。寇難之後,典籍靡遺,婚冠之禮,無所依據。恆推尋舊典,撰定禮儀,並郊廟辟雍朝廷軌則,事並施用。遷左光祿大夫、開府,常侍如故,固讓未拜。會卒,時年六十九,冊贈侍中、左光祿大夫、開府,諡曰敬。
恆清恪儉素,雖居顯列,常布衣蔬食,年老彌篤。死之日,家無餘財,唯有書數百卷,時人以此貴之。子俊嗣,為尚書郎。俊子仰之,大長秋。

はじめ華恆が州大中正になったときのことだ。
同郷の任讓は、輕薄無行な性格だから、華恆は任讓をクビにした。任讓は軍の中にいたが、兵力の大きさに油断し、敗北して多くが殺された。任讓は反省して、華恆を恭敬するようになり、控えめになった。
(同軍の)鐘雅と劉超が死んで、華恆にも死が迫ったとき、任讓は心を尽くして華恆を救衛したから、華恆から罷免されなかった
〈訳注〉任讓の成長は素晴らしいが、華恆の情実人事じゃないのか?ところで、鐘雅と劉超って誰だろう。
皇帝が元服して、皇后を迎えることになった。洛陽と長安が寇難を受けたから、典籍は靡遺し、婚冠之禮の参考とする書物がなかった。華恆は旧典を研究し、禮儀を選定した。同じように郊廟、辟雍、朝廷の軌則を定めて施行した。
〈訳注〉わざわざ焚書坑儒しなくても、散逸するもので。日本なら、さながら華恆は有職故実の人だ。
華恆は左光祿大夫に遷り、開府を許され、元のまま常侍とされた。華恆は固辞して受けなかった。華恆は死んだ。69歳だった。
侍中、左光祿大夫、開府が追贈され、「敬」とおくり名された。
華恆は清恪で儉素な人だった。高位に昇ったが、常に衣食は粗末で、老いて徹底された。華恆が死んだとき、家には餘財が無く、ただ書物が数百卷あっただけだった。ときの人は、華恆を貴んだ。
子の華俊が嗣ぎ、尚書郎となった。華俊の子である華仰之は、大長秋になった。
次は、華表の三男の華嶠です。
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨