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『晋書』列14、漢魏からの名族
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9)歴史家の華嶠
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華表の三男の華嶠です。華暠の弟です。ワケが分からなくなってきたから、系図を作らねば。。
華嶠
嶠字叔駿,才學深博,少有令聞。文帝為大將軍,辟為掾屬,補尚書郎,轉車騎從事中郎。泰始初,賜爵關內侯。遷太子中庶子。出為安平太守。辭親老不行,更拜散騎常侍,典中書著作,領國子博士,遷侍中。
華嶠は、あざなを叔駿という。才學は深博で、少くして令聞があった。
司馬昭が大將軍となると、召して掾屬とし、尚書郎に任じた。車騎の從事中郎に転じた。
泰始初(265年)、關內侯を賜った。太子中庶子に遷った。華嶠は出でて安平太守となったが、親が老いているから行かなかった。さらに散騎常侍を拝し、中書著作となり、國子博士を領ねた。侍中に遷った。
太康末,武帝頗親宴樂,又多疾病。屬小瘳,嶠與侍臣表賀,因微諫曰:「伏惟聖體漸就平和,上下同慶,不覺抃舞。臣等愚戇,竊有微懷,以為收功於所忽,事乃無悔;慮福于垂成,祚乃日新。唯願陛下深垂聖明,遠思所忽之悔,以成日新之福。沖靜和氣,嗇養精神,頤身于清簡之宇,留心於虛曠之域。無厭世俗常戒,以忽群下之言,則豐慶日延,天下幸甚!」帝手詔報曰:「輒自消息,無所為慮。」元康初,封宣昌亭侯。誅楊駿,改封樂鄉侯,遷尚書。
太康末(289年)、武帝は宴会の楽しさにのめり込み、大きな疾病を患らった。武帝が快方に向かったから、華嶠は侍臣たちと上表して祝い、少しだけ諌めの言葉を混ぜた。
「(抄訳すると)摂生して健康を保って下さい」
武帝は手ずから詔を発行した。
「病気はすぐに治る。心配してくれなくていい」
〈訳注〉武帝は翌年に死ぬのです。
元康初(291年)、華嶠は宣昌亭侯に封じられた。楊駿を誅すると、樂鄉侯に改封され、尚書に遷った。
後以嶠博聞多識,屬書典實,有良史之志,轉秘書監,加散騎常侍,班同中書。寺為內台,中書、散騎、著作及治禮音律,天文數術,南省文章,門下撰集,皆典統之。初,嶠以《漢紀》煩穢,慨然有改作之意。會為台郎,典官制事,由是得遍觀秘笈,遂就其緒,起于光武,終於孝獻,一百九十五年,為帝紀十二卷、皇后紀二卷、十典十卷、傳七十卷及三譜、序傳、目錄,凡九十七卷。嶠以皇后配天作合,前史作外戚傳以繼末編,非其義也,故易為皇后紀,以次帝紀。又改志為典,以有《堯典》故也。而改名《漢後書》奏之。詔朝臣會議。時中書監荀勖、令和嶠、太常張華、侍中王濟咸以嶠文質事核,有遷固之規,實錄之風,藏之秘府。後太尉汝南王亮、司空衛瓘為東宮傅,列上通講,事遂施行。嶠所著論議難駁詩賦之屬數十萬言,其所奏官制、太子宜還宮及安邊、雩祭、明堂辟雍、浚導河渠,巡禹之舊跡置都水官,修蠶宮之禮置長秋,事多施行。元康三年卒,追贈少府,諡曰簡。
華嶠は博聞多識で、書いた文は事実に忠実で、良史之志があった。 だから華嶠は秘書監に転じて、散騎常侍を加えられ、中書に班同した。
華嶠は、寺(オフィス)を内台に設けて、中書、散騎、著作の事務機能を集めた。 治禮や音律、天文や數術について、華嶠が要点を抜き出し、門下の人が撰集して、統一見解にまとめた。
はじめ華嶠は、《漢紀》が煩雑で、文体が穢れているから、慨然として書き直そうと思った。
たまたま台郎となり、官制の事を典じた。この役得により華嶠は、(洛陽に保管された)秘笈を全て閲覧することができた。華嶠は《漢紀》の改訂に取り掛かった。 光武帝から孝献帝までの195年間を、帝紀12卷、皇后紀2卷、十典10卷、列伝70卷にまとめ、三譜、序傳、目錄を加えて、全部で97巻とした。
華嶠は考えた。
「皇后は、配天作合した存在だ。元の《漢紀》では、外戚の列伝の後ろに、皇后紀を置いている。これは皇后の意義を正しく表していない。皇后紀は、皇帝紀の次に置くべきだ」と。
また志を改めて典となし、《堯典》を手本とした。華嶠は、書名を《漢紀》から《漢後書》に変更して提出した。
詔して、朝臣に《漢後書》について検討させた。
ときの中書監の荀勖、中書令の和嶠、太常の張華、侍中の王濟は、みな華嶠の文章を褒めた。
「質朴で、核心を捉えている。首尾一貫しているし、事実に基づいて書かれた文体だ。秘府の蔵書とすべきだ」
のちに太尉で汝南王の司馬亮、司空の衛瓘は、東宮傅となった。司馬亮と衛瓘は、東宮に歴史の講義をやり、華嶠の《漢後書》を秘府に納めた。 華嶠が書き著した論議、難駁、詩賦には、數十萬言があった。
華嶠は官制について上奏した。太子は東宮に還るべきだと提案したり、雩祭(雨乞いの祭)、明堂辟雍(人材登用)、浚導河渠(治水)について意見を述べたりした。華嶠は、禹が水官を置いたという旧跡を巡り、蠶宮之禮を修めて長秋を置いた。華嶠が提案したことは、多くが採用された。
〈訳注〉「蠶」とは、「蚕(かいこ)」の別字だ。
元康三(293)年、華嶠は死んだ。少府が追贈され、諡号は「簡」。
嶠性嗜酒,率常沈醉。所撰書十典未成而終,秘書監何劭奏嶠中子徹為佐著作郎,使踵成之,未竟而卒。後監繆徵又奏嶠少子暢為佐著作郎,克成十典,並草魏、晉紀傳,與著作郎張載等俱在史官。永嘉喪亂,經籍遺沒,嶠書存者五十餘卷。
華嶠は酒を嗜むのが好きで、いつも泥酔していた。華嶠が撰書していた十典は、完成しなかった。
〈訳注〉酒は時間泥棒だと、現代日本の自己啓発本に書いてある。
秘書監の何劭は上奏した。
「華嶠の中子である華徹を佐著作郎として、華嶠を継がせましょう」
だが未完成のまま、華徹は死んだ。 遺稿の誤りを正しつつ、
「華嶠の幼子である華暢を、また佐著作郎にして継がせよう」
ということになった。
ついに十典は完成した。魏代と晉代の本紀と列伝は、著作郎の張載らの史官が協力して書いた。永嘉喪亂にて、經籍は遺沒した。
〈訳注〉親から兄、兄から弟。まるで孫呉の覇業みたいに執筆したのに、戦火で失ったしまうとは、、もったいない。
華嶠が書いたものは、五十餘卷だけが(唐代に)現存する。
嶠有三子:頤、徹、暢。頤嗣,官至長樂內史。暢有才思,所著文章數萬言。遭寇亂,避難荊州,為賊所害,時年四十。
華嶠には三子があった。頤、徹、暢である。
華頤が華嶠を継ぎ、官位は長樂內史まで昇った。
華暢には才思があり、著した文章は數萬言にもなった。寇亂に遭い、荊州に避難したが、賊に殺害された。40歳だった。
華歆の子孫は、やっと終わりです。 孫策に脅迫されたり、献帝の伏皇后を壁から引っ張り出したり、華歆は『演義』でアホな役回りですが、子孫の繁栄はすごいなあ。
次は石鑒です。
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨
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