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『晋書』列14、漢魏からの名族 6)晋臣にこだわる盧諶
盧諶
諶字子諒,清敏有理思,好《老》《莊》,善屬文。選尚武帝女滎陽公主,拜駙馬都尉,未成禮而公主卒。後州舉秀才,辟太尉掾。洛陽沒,隨志北依劉琨,與志俱為劉粲所虜。粲據晉陽,留諶為參軍。琨收散卒,引猗盧騎還攻粲。粲敗走,諶得赴琨,先父母兄弟在平陽者,悉為劉聰所害。琨為司空,以諶為主薄,轉從事中郎。琨妻即諶之從母,既加親愛,又重其才地。


盧諶は、あざなを子諒という。清敏にして理思あり、《老》《莊》を好み、屬文を善くした。
〈訳注〉父の盧志は、ろくでもない現世に果敢に挑戦した。その背中を見て育つのは、老荘の徒。なるほどねえ、という構図です。
武帝の娘である滎陽公主を選尚し、駙馬都尉を拝した。盧諶との婚礼をやる前に、滎陽公主は死んだ。
のちに州で秀才に舉げられ、太尉掾に召された。
洛陽が陥落すると、盧志に従って、北へ劉琨を頼った。盧諶は途中で、盧志とともに劉粲に虜とされた。劉粲は晉陽を拠点としていた。劉燦は盧諶を手元にとどめ、參軍とした。
(盧志が頼る予定だった)劉琨は、盧志に従っていた兵卒を収容した。劉琨は(鮮卑族の)猗盧の騎馬を引いて、劉粲を攻めた。
劉粲は敗走したから、盧諶は劉琨のところに赴くことができた。
これより先に、盧諶の父母兄弟で平陽にいた人は、ことごとく劉聡に殺害された。
劉琨は司空となると、盧諶を主薄とした。盧諶は、從事中郎に転じた。
劉琨の妻は、盧諶の從母であった。
〈訳注〉洛陽が没したとき、盧志がなぜ劉琨を頼ったのか、理由がやっと分かりました。姻戚だからだ。
劉琨は、盧諶に親愛を加え、また盧諶の才能を重用した。

建興末,隨琨投段匹磾。匹磾自領幽州,取諶為別駕。匹磾既害琨,尋亦敗喪。時南路阻絕,段末波在遼西,諶往投之。元帝之初,末波通使于江左,諶因其使抗表理琨,文旨甚切,於是即加弔祭。累徵諶為散騎中書侍郎,而為末波所留,遂不得南渡。末波死,弟遼代立,諶流離世故且二十載。石季龍破遼西,複為季龍所得,以為中書侍郎、國子祭酒、侍中、中書監。屬冉閔誅石氏,諶隨閔軍,于襄國遇害,時年六十七,是歲永和六年也。

建興末、盧諶は劉琨に随って、(鮮卑族の)段匹磾に投降した。
〈訳注〉詳細は「劉琨伝」にあり、このサイトで翻訳済。
匹磾は自ら幽州を領し、盧諶を取り立てて別駕とした。匹磾が劉琨を殺害すると、盧諶は劉琨のために喪に服した。
(盧志は、劉琨の仇となった匹磾から、去りたいと思った)
当時、南に通じる道は阻絶していた。(匹磾と対立する鮮卑の)段末波が遼西にいたから、盧諶は段末波に投降した。
元帝之初、末波は使者を江左(東晋の建康)と通じた。盧諶は使者に頼みこみ、劉琨の名誉回復を願う上表を託した。盧諶の文旨はとても切実だったから、劉琨に弔祭が加えられた。東晋は、かさねて盧諶を召して、散騎中書侍郎に任じた。だが末波は、盧諶を留めたから、盧諶は南へ渡れなかった。
末波が死に、弟の段遼が代わりに立った。盧諶は世に流離して、二十載(の車の荷物)を引いた。
〈訳注〉末波の拘留が解けたのだね。
石季龍はを遼西ると、盧諶はまた石季龍に用いられた。盧諶は中書侍郎、國子祭酒、侍中、中書監とされた。石季龍の屬たる冉閔が石氏を誅すと、盧諶は閔軍に随った。盧諶は、襄國で殺害された。67歳だった。
これは、永和六年のことである。

諶名家子,早有聲譽,才高行潔,為一時所推。值中原喪亂,與清河崔悅、穎川荀綽、河東裴憲、北地傅暢並淪陷非所,雖俱顯于石氏,恆以為辱。諶每謂諸子曰:「吾身沒之後,但稱晉司空從事中郎爾。」撰《祭法》,注《莊子》,及文集,皆行於世。

盧諶は名家の子だから、早くから声譽があった。才は高く、行は潔く、当世に推された。
中原が喪亂すると、清河郡の崔悅、穎川郡の荀綽、河東郡の裴憲、北地郡の傅暢は、誰も連なって名声を損なった。
〈訳注〉「淪」とは、つらなること。
ところが盧諶は、(異民族の)石氏に顕職を与えられても、つねに屈辱に思った。
〈訳注〉『晋書』の立場では、異民族のために働くことは、恥ずかしいことになるらしい。
盧諶はいつも、諸子に言った。
「私が死んだ後は、ただ晋の司空從事中郎とだけ称してくれ」
〈訳注〉晋に与えられた低い身分の方が、異民族に与えられた高い身分よりも大切だ。盧諶はそう言ったのだ。
盧諶は《祭法》を撰じ、《莊子》に注した。盧諶の文は集められ、世に流通した。

(これは、盧諶と比較された人についての補足です)
悅字道儒,魏司空林曾孫,劉琨妻子之侄也。與諶俱為琨司空從事中郎,後為末波佐史。沒石氏,亦居大官。其綽、憲、暢並別有傳。

崔悅は、あざなを道儒という。魏代の司空だった崔林の曾孫である。崔悅は、劉琨の妻子の侄である。
〈訳注〉「侄」とは、兄弟の息子のこと。
盧諶とともに、劉琨の司空從事中郎となり、のちに末波の佐史となった。石氏が滅ぶと、大官に登った。その他の荀綽、裴憲、傅暢は、別に列伝を持っている(からここに記さない)。
次は華表です。華歆の子です。
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨