表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

154年、泰山と琅邪で、賊が再発

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

154年春夏、3年喪の復活

孝質皇帝永興二年(甲午,公元一五四年) 春,正月,甲午,赦天下。 二月,辛丑,復聽刺史、二千石行三年喪。 癸卯,京師地震。
夏,蝗。 東海朐山崩。 乙卯,封乳母馬惠子初為列候。

154年春正月甲午、天下を赦した。
2月辛丑、刺史と太守に、ふたたび3年喪をさせる。

胡三省はいう。安帝の建光元年、3年喪をやめた。『資治通鑑』49巻にある。
ぼくは思う。3年喪を、なぜ辞めて、なぜ始めたのか。ネタバレすれば、桓帝は3年喪を、またすぐ辞めます。いろいろ、研究があるだろうなあ。入手しやすい論文がありましたら、教えてください。
政治の状況と、どのようにリンクするのか、気になります。

2月癸卯、京師は地震した。
154年夏、イナゴした。東海の朐山が崩れた。
乙卯、桓帝の乳母・馬惠の子である馬初を、列侯にした。

154年秋冬、泰山と琅邪で、賊が起こる

秋,九月,丁卯朔,日有食之。 太尉胡廣免;以司徒黃瓊為太尉。閏月,以光祿勳尹頌為司徒。
冬,十一月,甲辰,帝校獵上林苑,遂至函谷關。 泰山、琅邪賊公孫舉、東郭竇等反,殺長吏。

154年秋9月丁卯ついたち、日食した。太尉の胡廣を免じた。司徒の黃瓊を、太尉にした。閏月、光祿勳の尹頌を司徒とした。

ぼくは思う。胡広は、梁冀がおいた、最後の三公かな。今まで胡広は、梁冀と距離をとりつつも、梁冀の派閥の人だった。

154年冬11月甲辰、桓帝は上林苑で校猟した。函谷關にいたる。

胡三省はいう。獣を柵で囲って、狩をするから、校猟という。後漢は上林苑を、洛陽の西につくった。函谷関は、河南の穀城県だ。

泰山や琅邪の賊である、公孫舉と東郭竇らが反した。長吏を殺した。101202

ぼくは思う。梁冀の求心力、すごいなあ。梁冀が第一線をしりぞいた途端、辺境がグラグラし始めた。