| |
『晋書』列14、漢魏からの名族
|
1)司馬昭が脅した鄭袤
|
卷四十四 列傳第十四
鄭袤(子默默子球)李胤盧欽(弟珽珽子志志子諶)華表(子廙廙子恆廙弟嶠)石鑒溫羨
漢代や魏代に高官になった家の子で、晋でも活躍した人たちの列伝です。三国ファンにとっては、必読之巻でしょう。間違いない。
鄭袤
鄭袤,字林叔,滎陽開封人也。高祖眾,漢大司農。父泰,揚州刺史,有高名。袤少孤,早有識鑒。荀攸見之曰:「鄭公業為不亡矣。」隨叔父渾避難江東。時華歆為豫章太守,渾往依之,歆素與泰善,撫養袤如己子。年十七,乃還鄉里。性清正。時濟陰魏諷為相國掾,名重當世,袤同郡任覽與結交。袤以諷奸雄,終必為禍,勸覽遠之。及諷敗,論者稱焉。
鄭袤は、あざなを林叔という。滎陽郡は開封の人である。
高祖父の鄭衆は、漢の大司農だった。
父の鄭泰は、揚州刺史で、高名があった。鄭袤は幼くして父を失い、早くから識鑑を学んだ。荀攸が鄭袤を見てコメントした。
「鄭公の行業は、不亡となった(きちんと継承された)」
〈訳注〉荀攸が言った鄭公とは、父の鄭泰のことだ。
鄭袤は、叔父の鄭渾に従って、江東に避難した。ときに華歆が豫章太守だった。鄭渾は華歆を頼った。華歆はふだんから鄭泰と仲が善く、鄭袤をわが子のように可愛がってくれた。鄭袤は17歳のとき、郷里(滎陽郡)に帰還した。鄭袤の性質は、清正だった。
ときに濟陰出身の魏諷が相國掾となり、名が當世に重きをなしていた。鄭袤と同郡(滎陽郡出身)の任覽は、魏諷と結交した。鄭袤は、魏諷が奸雄だから、いつか必ず禍いを為すと思い、距離を置いて付き合った。魏諷が謀反して敗れると、
「鄭袤はよくぞ魏諷を見抜いた」
と称えた。
魏武帝初封諸子為侯,精選賓友,袤與徐幹俱為臨淄侯文學,轉司隸功曹從事。司空王朗辟為掾,袤舉高陽許允、扶風魯芝、東萊王基,朗皆命之,後鹹至大位,有重名。袤遷尚書郎。出為黎陽令,吏民悅服。太守班下屬城,特見甄異,為諸縣之最。遷尚書右丞。轉濟陰太守,下車旌表孝悌,敬禮賢能,興立庠序,開誘後進。調補大將軍從事中郎,拜散騎常侍。會廣平太守缺,宣帝謂袤曰:「賢叔大匠垂稱于陽平、魏郡,百姓蒙惠化。且盧子家、王子雍繼踵此郡,使世不乏賢,故複相屈。」袤在廣平,以德化為先,善作條教,郡中愛之。征拜侍中,百姓戀慕,涕泣路隅。遷少府。高貴鄉公即位,袤與河南尹王肅備法駕奉迎於元城,封廣昌亭侯。徙光祿勳,領宗正。
曹丕ははじめ、諸子を侯に封じて、(皇族の)賓友を精選した。鄭袤と徐幹は、ともに臨淄侯(曹植)の文學となり、司隸功曹從事に転じた。
司空の王朗は、鄭袤を召して自分の掾にした。鄭袤は、高陽郡の許允、扶風郡の魯芝、東萊郡の王基を推挙した。王朗はみな採用した。このとき推挙された人は、後に大位に至り、重名を有した。
〈訳注〉鄭袤が推挙した人は、鄭袤の人脈にリンクしていく。その後を要チェックです。
鄭袤は尚書郎に遷った。洛陽から出て、黎陽令となった。黎陽県では、吏民は鄭袤の政治に悅服した。
魏郡太守が、管轄化の県城を査定したとき、鄭袤の政治が最も優れていると評価した。
〈訳注〉黎陽県は冀州魏郡なので、訳に補いました。
鄭袤は、尚書右丞に遷った。濟陰太守に転じた。太守として乗った馬車の旗に、「孝悌、敬禮、賢能、興立庠序、開きて後進を誘う」と書いた。
大將軍從事中郎となり、散騎常侍を拝した。たまたま廣平太守に欠員があったので、司馬懿は鄭袤に言った。
「賢叔大匠は、陽平・魏郡にて稱を垂れ、百姓は惠化に蒙し。且つ盧子家、王子雍は、この郡を繼踵して、世に賢を乏しからざらしむが、故に複た相い屈す」
〈訳注〉盧子家と王子雍は、姓+あざなだ。誰のことか調べねば。司馬懿は何を言ったんだ?もっと分かりやすく喋ってくれ。
鄭袤は廣平郡にあって、德化を先んじて実行し、善作條教したから、郡中では鄭袤のやり方は愛された。侍中となって廣平郡を去るとき、百姓は鄭袤を恋慕し、路隅で涕泣した。
少府に遷った。曹髦が即位すると、鄭袤は河南尹の王肅とともに法を備え、曹髦の駕奉を元城に迎えた。
〈訳注〉王粛は王朗の子で、司馬炎の外祖父だ。
鄭袤はこの功績により、廣昌亭侯に封じられた。光祿勳に徙り、宗正を領ねた。
毌丘儉作亂,景帝自出征之,百官祖送於城東,袤疾病不任會。帝謂中領軍王肅曰:「唯不見鄭光祿為恨。」肅以語袤,袤自輿追帝,及於近道。帝笑曰:「故知侯生必來也。」遂與袤共載,曰:「計將何先?」袤曰:「昔與儉俱為台郎,特所知悉。其人好謀而不達事情,自昔建勳幽州,志望無限。文欽勇而無算。今大軍出其不意,江、淮之卒銳而不能固,深溝高壘以挫其氣,此亞夫之長也。」帝稱善。轉太常。高貴鄉公議立明堂辟雍,精選博士,袤舉劉毅、劉寔、程鹹、庾峻,後並至公輔大位。及常道鄉公立,與議定策,進封安城鄉侯,邑千戶。景元初,疾病失明,屢乞骸骨,不許。拜光祿大夫。五等初建,封密陵伯。
毌丘儉が叛乱すると、司馬師は自ら出陣した。百官は司馬師を城東で見送ったが、鄭袤は疾病だから見送りに参列しなkった。司馬師は、中領軍の王肅に言った。
「鄭袤だけが見送りに来ない。恨めしいことだ」
王粛は、司馬師の発言を鄭袤に教えた。鄭袤は(やばいと思って)自ら輿を出して、司馬師を追った。やっと近くまで追いついた。
司馬師は笑って言った。
「はじめから鄭袤さんは来ると知っていたさ」
司馬師と鄭袤は、同じ車に乗った。
〈訳注〉同乗までしたんだから、司馬師が鄭袤を信用していたのは間違いない。鄭袤の不在で出征することに、人材不足を感じていたのも事実だろう。だが、性格の悪い呼び出し方だよなあ。
司馬師は聞いた。
「毌丘倹を倒す作戦は、何を優先したらいいか」
鄭袤は答えた。
「むかし私は、毌丘倹とともに台郎でしたから、特に彼のことを知悉しています。毌丘倹は謀略を好みますが、情報収集力はいま一つです。むかし毌丘倹は、自ら幽州で勲功を立てました。彼が抱いている志と望みには、限りがありません。文欽は勇力はありますが、頭はカラです。いま大軍を出撃させて、敵の不意を突きなさい。長江や淮水の軍は鋭兵ですが、守備を固めるのは下手です。深い溝と高い塁を築いて、敵の意気を挫きなさい。これは亞夫之長です」
〈訳注〉亞夫って兵法の古典を書いた人?
司馬師は、鄭袤の作戦をほめた。
鄭袤は太常に転じた。 曹髦は明堂を議立し、精選した博士を辟雍した。
〈訳注〉曹髦は若き俊才として、学問の興隆や人材の収集に力を入れました。賢すぎるゆえに、司馬昭と衝突したのですが。
鄭袤は曹髦に、劉毅、劉寔、程鹹、庾峻を推挙した。彼らはのちに公輔大位に並んだ。
曹奐を即位させた手柄があるとして、鄭袤は安城鄉侯に進み、邑千戸を封じられた。景元初(260年)、鄭袤は疾病にて失明した。しばしば骸骨を乞う(引退を願う)が、許されなかった。光祿大夫を拝した。五等官がはじめて建てられたとき、密陵伯に封じられた。
武帝踐阼,進爵為侯。雖寢疾十餘年,而時賢並相推薦。泰始中,詔曰:「光祿密陵侯袤,履行純正,守道沖粹,退有清和之風,進有素絲之節,宜登三階之曜,補袞職之闕。今以袤為司空。」天子臨軒,遣五官中郎將國坦就第拜授。袤前後辭讓,遣息稱上送印綬,至於十數。謂坦曰:「魏以徐景山為司空,吾時為侍中,受詔譬旨。徐公語吾曰:'三公當上應天心,苟非其人,實傷和氣,不敢以垂死之年,累辱朝廷也。'終於不就。遵大雅君子之跡,可不務乎!」固辭,久之見許,以侯就第,拜儀同三司,置舍人官騎,賜床帳簟褥、錢五十萬。
武帝が踐阼して晋王になると、鄭袤は侯に爵位を進めた。病気で十余年も寝ていたが、時の賢者や名補佐役を推薦した。 泰始年間に、詔があった。
「光祿で密陵侯の鄭袤は、履行は純正にて、守道は沖粹なり。退きて清和之風あり、進みて素絲之節あり。宜しく三階之曜に登り、袞職之闕を補すべし。いま鄭袤を司空にする」
〈訳注〉どう訳していいのか分からないが、「適任だから司空にするよ」と言ったのだ。
司馬炎は軒に臨み、五官中郎將の國坦(人名)に命じて、鄭袤に司空の印綬を受けさせようとした。鄭袤はくり返し辞退した。司馬炎は、鄭袤に印綬を渡そうとした。このやりとりが、十数回に及んだ。
鄭袤は国坦に言った。
「魏が徐景山を司空にしたとき、私は侍中として詔を伝えました。徐公は私に言いました。『三公は天心に感応すべきものだ。もし不適任者が就けば、和氣をひどく傷つける。もし垂死之年ではなくても、累年朝廷を辱めてしまう』と。徐公はついに司空を受けませんでした。大雅な君子の前例を守り、私は司空を務めるわけにはいかんのです」
〈訳注〉徐景山とは、徐邈のこと。酒好きだった。
鄭袤は固辞した。久しくして辞退が許され、侯として宮廷に仕えた。鄭袤は儀同三司を拝し、舍人官騎を置き、床帳簟褥と錢五十萬を賜った。
九(273)年に薨じた。享年85歳だった。司馬炎は東堂で哀しみを發した。秘器、朝服一具、衣一襲、錢三十萬、絹布各百匹を賜って、喪事に供えた。「元」とおくり名された。
子は6人いた。長子の鄭黙が嗣ぎ、次いで質、舒、詡、稱、予の5人の弟は、位は列卿に並んだ。
次は、子の鄭黙です。
| |
|
|
このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨
|
|