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『晋書』列14、漢魏からの名族 2)武帝と同格、鄭黙
鄭黙
默字思元。起家秘書郎,考核舊文,刪省浮穢。中書令虞松謂曰:「而今而後,硃紫別矣。」轉尚書考功郎,專典伐蜀事,封關內侯,遷司徒左長史。武帝受禪,與太原郭奕俱為中庶子。朝廷以太子官屬宜稱陪臣。默上言:「皇太子體皇極之尊,無私於天下。宮臣皆受命天朝,不得同之籓國。」事遂施行。出為東郡太守,值歲荒人饑,默輒開倉振給,乃舍都亭,自表待罪。朝廷嘉默憂國,詔書褒歎,比之汲黯。班告天下,若郡縣有此比者,皆聽出給。入為散騎常侍。

鄭默は、あざなを思元という。起家して秘書郎となった。舊文を考核し、浮穢を刪省した。
〈訳注〉古典を研究して、後世に付けられた余計な追加分を剥がし、脱稿当時の姿に近づけたのだろう。
中書令の虞松は、鄭黙に言った。
「現代にも後世にも、原典と加筆箇所は区別されるべきだなあ!
〈訳注〉硃とは朱色の砂で、朱墨の原料。紫は、『孟子』に「紫を憎むのは、その朱に紛れんことを恐るればなり」とあり、孔子は中間色として憎んだらしい。虞松は絵の具のパレットに例えて、鄭黙の仕事を褒めたんだろう。「朱と紫の分解をやってくれた」ということだ。
鄭黙は尚書に転じて郎を考功した。專ら蜀を討伐したことを典じ、關內侯に封じられ、司徒の左長史に遷った。
武帝が受禪すると、太原郡の郭奕とともに中庶子となった。朝廷は、
「太子の官屬を、陪臣と称すべきだ」
と考えた。 鄭黙は上言した。
「皇太子の体は、皇極之尊であり、天下において無私のものです。宮臣は、みな天朝を受命し、同じく籓國に行くことができないものです」
〈訳注〉太子の官属に限定されることなく、晋朝に使える全員が「陪臣」なんだと鄭黙は言った。
太子の官属(だけ)を陪臣とする命令が、ついに施行された。鄭黙は洛陽を出て、東郡太守となった。飢饉の年だったから、鄭黙はすぐに開倉して、食料を振給した。
「私の独断を罰して下さい」
舍都亭におよび、鄭黙は自ら上表して罪を待った。朝廷は、鄭黙が憂國したことを嘉し、詔書にて褒歎した。汲黯に比し、天下に班告した。
「もし郡縣に、鄭黙のように緊急措置で民を救った人がいれば、みな申し出よ」
鄭黙は洛陽に戻って、散騎常侍となった。

初,帝以貴公子當品,鄉里莫敢與為輩,求之州內,於是十二郡中正僉共舉默。文帝與袤書曰:「小兒得廁賢子之流,愧有竅賢之累。」及武帝出祀南郊,詔使默驂乘,因謂默曰:「卿知何以得驂乘乎?昔州裏舉卿相輩,常愧有累清談。」遂問政事,對曰:「勸穡務農,為國之基。選人得才,濟世之道。居官久職,政事之宜。明慎黜陟,勸戒之由。崇尚儒素,化導之本。如此而已矣。」帝善之。

はじめ武帝は、高貴な公の子弟の中で、自分との比較に堪える人を探した。だが、郷里にそれだけの人物がいなかった。
〈訳注〉司馬氏の本貫は、河内郡温県だ。
範囲を州にまで広げて探すと、12郡のなかに鄭黙が見つかった。
〈訳注〉司州にまで、捜索範囲を広げたのだ。
司馬昭は鄭袤に書状を送った。
「小兒(鄭黙)は、賢子之流の持ち主だ。せっかくの賢者の血筋をダメにしてしまうことを愧じよ
武帝が南郊に出祀すると、詔して鄭黙に驂乘させた。
武帝は鄭黙に言った。
なぜ驂乘の役を与えられたか分かるか?むかし州内で、きみと私は同格だと言われた。きみは清談ばかり重ねていることを愧じよ
〈訳注〉武帝から鄭黙へのメッセージはこうだ。「きみは、私(武帝)と並び称された自覚を持って、もっと実政治で活躍せよ。だからわざわざ、驂乘の任務に引っ張り出したのだ。きみがクズだと、私までクズだったことになるだろ!」と。
武帝は、鄭黙に政事を問うた。鄭黙は答えた。
「農業の振興は、国家の基礎です。人材の選出は、濟世之道です。(有能な人材に)長く官職を務めてもらうのは、政事之宜です。進退のタイミングを明らかにして慎ませることは、賞罰の理想形です。儒素を崇尚することは、化導之本です。政事に必要なのは、これだけです」
〈訳注〉司馬昭といい司馬炎といい、鄭黙を急かすばかりだ。面倒くさいから、鄭黙は一般論でごまかした感がある。「良い政治とは、良いことを政治で行なうことです」と言ったのと、どれだけ違うのか(笑)
武帝は、これを良い意見だと認めた。

後以父喪去官,尋起為廷尉。是時鬲令袁毅坐交通貨賂,大興刑獄。在朝多見引逮,唯默兄弟以潔慎不染其流。遷太常。時僕射山濤欲舉一親親為博士,謂默曰:「卿似尹翁歸,令吾不敢複言。」默為人敦重,柔而能整,皆此類也。
及齊王攸當之國,下禮官議崇錫典制。博士祭酒曹志等並立異議,默容過其事,坐免。尋拜大鴻臚。遭母喪,舊制,既葬還職,默自陳懇至,久而見許。遂改法定令,聽大臣終喪,自默始也。服闋,為大司農,轉光祿勳。


のちに父が死んだので(273年)、官を去った。
喪が終わると、復帰して廷尉になった。このとき鬲令の袁毅は、賄賂をやりとりに連座し、大いに刑獄が行なわれた。朝官の多くが逮捕されたが、鄭黙の兄弟だけは潔慎で、賄賂の風潮に染まらなかった。
鄭黙は太常に遷った。
ときの僕射である山濤は、親類を博士に推挙したいと思った。山濤は鄭黙に言った。
「あなたは尹翁が歸したのに似ています。鄭黙さんがいるから、血縁をコネで出世させようなんて、私はもう二度と言えないなあ
〈訳注〉尹翁とは、伊尹のこと?
鄭黙の人となりは敦重で、やんわりと間違いを正した。このエピソードに見えるとおりである。
司馬攸が斉に行かされるとき、下禮官は崇錫典制を議した。博士祭酒の曹志らは、並んで異議を申し立てた。鄭黙は、その過ち(曹志から武帝への批判)を容認した。鄭黙は、曹志に連座して罷免された。
大鴻臚を拝した。
母が死んだ。旧制では葬って復職すべきだが、鄭黙は自ら懇至を陳べて、復職を断った。久しくして許された。ついに法を改めて令を定め、大臣が喪の期間を全うすることを許された。鄭黙から始まったことである。
鄭黙は復職して大司農となり,光祿勳に転じた。

太康元年卒,時年六十八,諡曰成。尚書令衛瓘奏:「默才行名望,宜居論道,五升九卿,位未稱德,宜贈三司。」而後父楊駿先欲以女妻默子豫,默曰:「吾每讀《雋不疑傳》,常想其人。畏遠權貴,奕世所守。」遂辭之。駿深為恨。至此,駿議不同,遂不施行。默寬沖博愛,謙虛溫謹,不以才地矜物,事上以禮,遇下以和,雖僮豎廝養不加聲色,而猶有嫌怨,故士君子以為居世之難。子球。

太康元(280)年に卒した。享年は68歳。「成」とおくり名された。尚書令の衛瓘は奏じた。
「鄭默は才は名望を行い、宜しく論道に居くべし。五升九卿、位いまだ德を稱えず。宜しく三司を贈るべし」
かつて皇后の父の楊駿は、娘を鄭黙の子である鄭豫の妻にしたいと思った。 鄭黙は言った。
「わたしは、《雋不疑傳》を読むたび、彼の生き方を想います。雋不疑は、權貴を畏遠し、奕世して守成しました
〈訳注〉外戚と姻戚を結ぶと、権力争いに巻き込まれて、ろくなことがないと言ったのだ。
鄭黙は、楊駿の申し出を断った。楊駿は、深く鄭黙を恨んだ。鄭黙への追贈を話し合うとき、楊駿が反対したから、ついに鄭黙は三司をもらえなかった。
鄭黙は、寬沖博愛にして、謙虚温謹であり、才知を誇ることはなく、礼をもって上に事え、和をもって下を遇した。幼くして修養したから、鄭黙が声を荒げることはなかったが、楊駿からの嫌怨を消すことはできなかった。ゆえに士君子が世渡りをするのは難しいのだ。子は、鄭球。
鄭球
球字子瑜。少辟宰府,入侍二宮。成都王為大將軍,起義討趙王倫,球自頓丘太守為右長史,以功封平壽公。累遷侍中、尚書、散騎常侍、中護軍、尚書右僕射,領吏部。永嘉二年卒,追贈金紫光祿大夫,諡曰元。球弟豫,永嘉末為尚書。

鄭球は、あざなを子瑜という。若くして宰府に召され、洛陽に入って二宮に侍った。成都王の司馬頴が大將軍となると、起義して趙王倫を討つことになった。
鄭球は頓丘太守から右長史となり、(成都王を手伝った)功によって平壽公に封じられた。
侍中、尚書、散騎常侍、中護軍、尚書右僕射と遷って、吏部を領ねた。永嘉二(308)年、卒した。金紫光祿大夫を追贈され、「元」とおくり名された。
鄭球の弟の鄭豫は、永嘉末(313年)に尚書となった。
〈訳注〉鄭豫は、楊駿の娘を娶らなかった人。290年に楊駿とともに「族殺」されることなく、愍帝に長安で仕えたようです。
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨