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『晋書』列14、漢魏からの名族 11)温恢の孫、温羨
温羨
溫羨,字長卿,太原祁人,漢護羌校尉序之後也。祖恢,魏揚州刺史。父恭,濟南太守。兄弟六人並知名於世,號曰「六龍」。羨少以朗寤見稱,齊王攸辟為掾,遷尚書郎。惠帝即位,拜豫州刺史,入為散騎常侍,累遷尚書。及齊王冏輔政,以羨攸之故吏,意特親之,轉吏部尚書。

温羨は、あざなを長卿という。太原郡は祁県の人だ。
漢代に護羌校尉だった温序の後裔である。 祖父の温恢は、魏代に揚州刺史だった。
〈訳注〉陳寿『三国志』に、温恢の専伝がある。孫権の合肥攻めや、関羽の樊城攻めについて、的確なコメントをした人だ。もっとも『三国志』は、裴注も含めて「温恢の子孫は絶えてしまった」と書いてあるが(笑)
父の温恭は、濟南太守だった。温恭は、兄弟六人が名を世に知られて、「六龍」と号された。
温羨は、若くして朗寤だったから、称えられた。齊王の司馬攸が召して、掾とした。温羨は、尚書郎に遷った。
惠帝が即位すると、豫州刺史を拝した。洛陽に入りて、散騎常侍となり、かさねて尚書に遷った。
齊王の司馬冏が輔政すると、温羨は(司馬冏の父である)司馬攸の故吏だから、特に司馬冏に親しまれた。温羨は、吏部尚書に転じた。

先是,張華被誅,冏建議欲複其官爵。論者或以為非,羨駁之曰:「自天子已下,爭臣各有差,不得歸罪於一人也。故晏子曰:'為已死亡,非其親昵,誰能任之?」裏克之殺二庶,陳乞之立陽生,漢朝之誅諸呂,皆積年之後乃得立事。未有事主見存,而得行其志於數月之內者也。式乾之會,張華獨諫。上宰不和,不能承風贊善,望其指麾從命,不亦難乎!況今皇后譖害其子,內難不預,禮非所在。且後體齊於帝,尊同皇極,罪在枉子,事不為逆,義非所討。今以華不能廢枉子之後,與趙盾不討殺君之賊同,而貶責之,於義不經通也。」華竟得追複爵位。

これより先、張華が誅されたとき、司馬冏は建議した。
「張華の官爵を、元に戻したい」
ある人は「張華を名誉回復してはいけない」と論じて反対した。温羨は司馬冏を支持して、張華の官爵を戻すべきだと反駁した。
〈訳注〉補足します。恵帝の賈皇后は、ひどい女だった。恵帝の皇太子は司馬遹で、とても優れた若者だった。賈皇后は、司馬遹が自分の子ではないから、イチャモンを付けて殺してしまった。張華は、司馬遹を弁護したから、官位を剥奪された。
温羨曰く、
「天子より下の位は、臣に争わせて、ランクの違いを設けるものだ。罪はたった1人に帰属させられるものではない。むかし晏子が言った。人が死亡すれば、もう親しい顔見知りではなくなる。死人について、誰がとやかく言えようか?と。
〈訳注〉温羨は、張華の名誉回復することに賛成しているから、「任之」を上記のように訳しました。反対意見なら、「位に任じることができようか」という訳文にする。いい加減だなあ。。
(温羨の台詞は続きます)
里克が二庶を殺し、陳乞が陽生を立て、漢朝が諸呂(劉邦の外戚)を誅したが、みな数十年が経ってから、成功が評価されたのだ。張華は現代人で、彼の行いが記録されてから数ヶ月しか経っていない(張華を正確に評価することは、理論上できないのだ)。
式乾之會のとき、張華だけが諫めた。
政府のトップが不和となって、悪い風潮になったとき、勧んで命令に従うことは、難しくないだろうか(できないだろうよ)。
まして今は、賈皇后が皇太子の司馬遹をそしって、殺害してしまった。内政の艱難は予測できず、礼は失われた。賈氏どれだけひどい人でも、皇后は皇帝と同じように尊い。どれだけ皇太子が正しくても、罪は皇太子の側に降りかかる。張華は、司馬遹の後任の皇太子を廃さなかった(司馬遹の仇を取らなかった)。だが張華を、君主を殺した賊を討たなかった趙盾と、同じに見てはいけない。張華を責めて貶めるのは、義において道理が通らないぞ」
張華はついに生前の爵位に戻された。
〈訳注〉温羨は、張華のために頑張ったのか、司馬冏のために頑張ったのか。もしくは打算して司馬冏の顔を立て、自分の利益としたのか。。

其後以從駕討成都王穎有勳,封大陵縣公,邑千八百戶。出為冀州刺史,加後將軍,范陽王虓敗於許昌也,自牧冀州,羨乃避之。惠帝之幸長安,以羨為中書令,不就。及帝還洛陽,征為中書監,加散騎常侍。未拜,會帝崩。懷帝即位,遷左光祿大夫、開府,領司徒。論者僉謂為速。在位未幾,病卒,贈司徒,諡曰元。有三子:祗、允、裕。
祗字敬齊,太傅西曹掾。允字敬咸,太子舍人。裕字敬嗣,尚武安長公主,官至左光祿大夫。

のちに温羨は、(司馬冏に)從駕して、成都王の司馬頴を討伐した勲功により、大陵縣公に封じられて、邑千八百戸。
洛陽を出でて冀州刺史となり、後將軍を加えられた。
范陽王の司馬虓が許昌で敗れると、司馬虓は冀州牧を自称した。温羨は遠慮して(冀州刺史の地位を)司馬虓に譲った。
惠帝が長安に行幸すると、温羨を中書令としたが、着任しなかった。
恵帝が洛陽に還ると、温羨は中書監となり、散騎常侍を加えられた。拝命するより前に、恵帝は崩御した。
懷帝が即位すると、温羨は左光祿大夫に遷り、開府し、司徒を領ねた。論者はみな、
「温羨は、昇進が速いなあ」
と言った。
〈訳注〉「僉」は、みな、そろって、の意。字形が面白いわりに平凡だ。
数年も三公をやらずに、温羨は病没した。司徒が贈られ、「元」とおくり名された。 温羨には、三子があった。祗、允、裕である。
温祗は、あざなを敬齊という。太傅の西曹掾になった。
温允は、あざなを敬咸という。太子舍人になった。
温裕は、あざなを敬嗣という。武安長公主を尚び、官は左光祿大夫まで至った。
はあ、列伝14が、終わった。
西晋は強気で魏臣を召抱え、八王の乱で求心力が低下して、東晋は弱気に人材を集める。この傾向が分かりやすく出た列伝でした。
今さらだが、武帝(司馬炎)の登場回数がとても多いから、感心する。ちゃんと意思を持って判断して、詔を発行しているしね。ヒツジのウワサは芳しくないけれど、いっぱい働いたんだなあ。090501
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨