表紙 > ~後漢 > 『後漢書』任光・任隗伝:父は光武帝を拾い、子は袁安と協調する

01) 王郎を倒した張本人・任光

『後漢書』胡広伝を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
渡邉義浩氏のサイン入りの『全訳後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈他もひろいます。20100911に、三国志学会で購入し、サインしてもらったのだ。

この列伝をあつかう動機

任隗は、袁安とともに、竇憲と対決した三公だ。
袁安を知るために、任隗と、その父・任光の列伝を読みます。

更始帝の軍に就職し、信都太守となる

任光字伯卿,南陽宛人也。少忠厚,為鄉里所愛。初為鄉嗇夫、郡縣吏。漢兵至宛,軍人見光冠服鮮明,令解衣,將殺而奪之。會光祿勳劉賜適至,視光容貌長者,乃救全之。光因率黨與從賜,為安集掾,拜偏將軍,與世祖破王尋、王邑。

任光は、あざなは伯卿。南陽の宛県の人。わかくして忠厚、郷里に愛された。

ぼくは思う。光武帝と同郷だ。後漢の前半に三公になるのだから、当然、建国を助けた家柄だよね。袁安が、特殊なのだ。

はじめ任光は、郷の嗇夫、郡の縣吏となる。

渡邉注はいう。嗇夫は官名。もっとも民衆にちかく、賦税と司獄の実権を、郷のなかでもつ。大庭脩「漢の嗇夫」を参照。

漢の兵が宛県にきた。漢の軍人は、任光の冠服が鮮明だから、冠服をぬがせて、殺して奪いたい。たまたま光祿勳の劉賜がきた。任光の容貌が長者なので、任光を救った。任光は、黨與をひきい、劉賜にしたがう。

渡邉注はいう。光禄勲は、中2千石。五官中郎将などを統率する。宮殿を警備する。『後漢書』百官志、『通典』より。
渡邉注はいう。劉賜は、劉玄の従兄弟。光禄勲になり、のちに丞相、宛王となる。『後漢書』劉玄伝にある。ぼくは補う。劉玄(更始帝)は、劉縯(光武帝の兄)を殺して、この劉賜を大司徒とした。つまり任光は、光武帝でなく、更始帝の軍に就職したわけだ。光武帝は更始帝の下で、やや孤立した部将にすぎない。以下、参照。
『後漢書』劉玄伝を抄訳、袁術が目標とした、一番のりの皇帝

任光は、安集掾となる。偏將軍となる。

渡邉注はいう。安集掾は官名。群集を安撫するため、かりに設けられた。劉玄伝。
渡邉注はいう。偏将軍は、裨将軍とおなじ。大庭脩「後漢の将軍と将軍仮節」
ぼくは思う。任光の役職は、更始帝の朝廷のもの。後漢ではない。

任光は、光武帝とともに、新室の王尋と王邑を破る。

渡邉注はいう。王尋は、新室の大司徒。昆陽で敗死。王邑は、王莽の従父の兄弟。父は王商。新室の大司空。のちに王莽を守って奮戦し、子とともに死んだ。『漢書』王莽伝


更始至洛陽,以光為信都太守。及王郎起,郡國皆降之,光獨不肯,遂與都尉李忠、令萬脩、功曹阮況、五官掾郭唐等同心固守。廷掾持王郎檄詣府白光,光斬之於市,以徇百姓,發精兵四千人城守。

更始帝は洛陽にゆき、任光は信都太守となる。王郎が起兵すると、郡國はみな降る。任光だけが降らず。以下の人と、信都郡をまもる。都尉の李忠、信都令の萬脩、功曹の阮況、五官掾の郭唐らだ。

王郎については、今年の夏にやりました。
『後漢書』王郎伝を抄訳、光武帝の河北デビュー戦の強敵
渡邉注はいう。都尉は、前漢が郡ごとに置く軍事官。後漢は軍縮し、都尉をはぶく。辺境の属国にのみ、属国都尉をおく。浜口重国「光武帝の軍備縮小と其の影響」
李忠は列伝11、萬脩は列伝11、阮況は列伝33の朱ウン伝にある。
渡邉注はいう。功曹とは、功曹従事。郡の属吏のなかで、地位が高い。後漢では、郡を代表する豪族が、功曹従事となる。渡邉義浩「支配」
渡邉注はいう。五官掾は、郡の属吏。功曹従事のまえに就任することがおおい。

廷掾は、王郎の檄文を任光にとどけた。任光は廷掾を斬り、市にさらす。百姓をしたがえ、任光は精兵4千人で、王郎から信都郡をまもる。

さまよう光武帝を拾い、王郎をほふる

  更始二年春,世祖自薊還,狼狽不知所向,傳聞信都獨為漢拒邯鄲,即馳赴之。光等孤城獨守,恐不能全,聞世祖至,大喜,吏民皆稱萬歲,即時開門,與李忠、萬脩率官屬迎謁。世祖入傳舍,謂光曰:「伯卿,今勢力虛弱,欲俱入城頭子路、力子都兵中,何如邪?」光曰:「不可。」世祖曰:「卿兵少,如何?」

更始二年(024)春、光武帝は薊県よりかえる。狼狽して、行く先がない。光武帝は聞いた。信都郡だけが、王郎をこばむと。光武帝は、信都郡にゆく。任光は、光武帝が来たので、大喜した。みな吏民は、萬歲を称した。すぐに開門した。李忠と萬脩が、光武帝を迎謁した。

ぼくは思う。このあたり、後漢バンザイのフィクションだ。光武帝は、更始帝から追い出されて、河北に行った。兵がないから、野たれ死ぬ。仕方なく、信都郡の任光を頼った。任光は、光武帝を拾ってあげた。その程度だ。

光武帝は任光に言った。「いま信都郡は、勢力が虛弱だ。城頭の子路と、力子都の兵を、信都郡に入れないか」と。

城頭の子路と、力子都は、この列伝の後方で出てくる。いまは、「そういう更始帝の部将がいるんだなあ」くらいの理解で、読みすすめることができる。
【追記】goushu氏はいう。「俱に城頭子路・力子都の兵中に入らんと欲す」ということで、光武帝は大軍を擁する城頭子路、力子都の元に身を寄せて安全を図ろうとしたのでは?(引用おわり) ぼくは確認しました。そうでした。ご指摘ありがとうございます。

任光は、光武帝を却下した。「城頭の子路と、力子都は入れない」と。光武帝は言った。「任光の兵は少ない。どうするか」と。

ほおら、光武帝は、ただの居候。作戦は、任光が決めるのだ。任光は、光武帝を却下したのだから、代替案を求められた。代替案を出すのが、マナーだ。


光曰:「可募發奔命,出攻傍縣,若不降者,恣聽掠之。人貪財物,則兵可招而致也。」世祖從之。拜光為左大將軍,封武成侯,留南陽宗廣領信都太守事,使光將兵從。光乃多作檄文曰:「大司馬劉公將城頭子路、力子都兵百萬眾從東方來,擊諸反虜。」

任隗は言った。「奔命を出して、兵をつのる。奔命で言う。そばの県を攻め、もし県が降らねば、ほしいままに掠んでいいと。財物をむさぼれる条件なら、ここに兵は集まる」と。光武帝は、任光に従う。

渡邉注はいう。奔命とは、緊急のとき、郡国から集めた精鋭。郡国の、材官や騎士から選ぶ。光武帝紀がひく注『前書音義』より。
ぼくは思う。更始帝の母体は、荊州中部の飢えた民の集団。ろくに、ルールもない。更始帝の部将・任光も、なりふり構わない。っていうか、更始帝と王郎、どっちが賊なんだよ。

任光は、左大將軍となり、武成侯に封じられる。南陽の宗廣をとどめ、信都太守をまかす。任光は、光武帝に従軍した。

渡邉注はいう。宗廣は、列伝11の李忠伝にある。左大将軍は、『後漢書』で他にない。雑号将軍の1つと考えてよい。
ぼくは思う。『後漢書』は、光武帝は任光を、従軍させたと書く。だが実際は逆だろう。任隗がリーダーで、光武帝はオマケである。もし任光が更始帝を見限り、新しい劉氏のリーダーを求めているならば、光武帝を祭り上げるだろうが。ぼくは任光が、更始帝を見限るとは思わない。王郎に靡かず、信都を守り抜いたのだから。更始帝が025年に死ぬまで、任光は、更始帝の部将をつらぬいたのでは。
となれば、任光の左大将軍は、更始帝の将軍号である。後漢に継承されなくて、当然だ。武成侯も、更始帝からの爵位だ。

任光は、おおく檄文をつくる。「大司馬の劉公(光武帝)は、城頭の子路と、力子都の兵を100万ひきいて、東から反虜を撃つ」と。

ぼくは思う。更始帝の朝廷で、光武帝の官位は、もう実効がない。さっき光武帝は、行くあてもなく、ウロウロしてた。もし「大司馬の劉公」という掛け声に意味があるなら、ウロウロしないはずだ。いま任光が、左大将軍だ。史料に序列は伝わらないが、大司馬と同じくらい、偉いのだろう。渡邉氏が言うような、雑号将軍ではない。
この檄文が効くとしたら、要因は2つだ。実際に兵をもつ任光が発行したこと。城頭の子路や、力子都らの兵数が合わさったこと。


遣騎馳至巨鹿界中。吏民得檄,傳相告語。世祖遂與光等投暮入堂陽界,使騎各持炬火,彌滿澤中,光炎燭天地,舉城莫不震驚惶怖,其夜即降。旬日之間,兵眾大盛,因攻城邑,遂屠邯鄲,乃遣光歸郡。

任光らは、鉅鹿に入る。吏民が集まる。光武帝と任光は、堂陽県を降した。旬日の間に、兵衆が盛んになる。任光は城邑を攻め、王郎のいる邯鄲を屠った。任光は、信都郡にかえる。

ぼくは思う。王郎を破ったのは、じつは任光だ。 なぜここまで、ぼくは光武帝を貶めるか。ねらいは2つ。まず『後漢書』の虚飾を剥ぐこと。もう1つは、任光が光武帝に売った、恩の大きさを見積もること。のちに子の任隗が、三公となるための伏線だ。


城頭の子路と、力子都:青州黄巾との符合

  城頭子路者,東平人,姓爰,名曾,字子路,與肥城劉詡起兵盧城頭,故號其兵為「城頭子路」。曾自稱「都從事」,詡稱「校三老」,寇掠河、濟間,眾至二十余萬。更始立,曾遣使降,拜曾東萊郡太守,詡濟南太守,皆行大將軍事。是歲,曾為其將所殺,眾推詡為主,更始封詡助國侯,令罷兵歸本郡。

城頭の子路は、東平の人だ。姓は爰、名は曾、字を子路という。肥城の劉詡と、盧県(泰山)の城頭で起兵した。だから子路の軍を、「城頭の子路」と言った。 みずから子路は、「都從事」を称した。劉詡は、「校三老」を称した。黄河と濟水のあいだを、寇掠した。20余万が集まった。

劉詡は、ほかに出てこない。渡邉注はいう。都從事も、校三老も、他に出てこない。従事の上にたつ、三老をたばねる、くらいの意味か。

更始帝が立つと、子路は東萊太守となる。劉詡は、濟南太守となる。どちらも大將軍の職務をかねる。子路は部将に殺され、劉詡がトップとなる。更始帝は、劉詡を助國侯に封じた。兵をとかせ、本郡(東平)に帰らせた。

ぼくは思う。更始帝の部将・任光が、兵を吸収したのではないか。東平は、赤眉が始まった青州のあたり。長安に乗りこまなかった余党が、「城頭の子路」の軍だったのでは。
場所も性格も、曹操の青州黄巾に近いものがあるかも。光武帝も曹操も、青州の大衆を従えて、戦いをスタートさせる。キレイな符合だ。曹操が、光武帝を参考にしたのかも!


力子都者,東海人也。起兵鄉里,抄擊徐、兗界,眾有六七萬。更始立,遣使降,拜子都徐州牧。為其部曲所殺,餘黨複相聚,與諸賊會于檀鄉,因號為檀鄉。檀鄉渠帥董次仲始起茌平,遂渡河入魏郡清河,與五校合,眾十余萬。建武元年,世祖入洛陽,遣大司馬吳漢等擊檀鄉,明年春,大破降之。

力子都は、東海の人だ。郷里で起兵した。徐州と兗州の境界を、抄擊した。兵は6、7万だ。更始帝が立つと、力子都は徐州牧となる。力子都は、部曲に殺された。余党が檀郷(山東省)に集まった。だから「檀郷」と号した。檀郷の渠帥は、董次仲だ。董次仲は、はじめ茌平で起兵した。董次仲は黄河をわたり、魏郡や清河に入る。五校の集団と合わさり、兵は10余萬。建武元年(25年)、光武帝が洛陽に入ると、大司馬の吳漢に攻撃された。翌年春、大破され降った。

渡邉注はいう。木村正雄『中国古代農民反乱の研究』を参照。
ぼくは思う。飢えた民衆の群れを、兵力として吸収する話は、珍しくない。曹操の青州黄巾が強調されるのは、曹操の強さを説明するためだ。政策の斬新さを示すためではない。誰でも、似たようなことをやっていたが、ただ曹操が勝者だから、わざわざ書かれた。
ということは。武帝紀にある「汝南や潁川の黄巾」は、じつは袁術軍もしくは、袁紹軍だったとしても、史料の取扱上、べつにおかしくない。もし曹操が敗者となれば、曹操軍でなく、「青州の黄巾」と記されたかも知れない。曹操の兵力が、いまの陳寿『三国志』より、ずっと小さく見えたはずだ。重要度が低く、見えたはずだ。


任光が、更始帝から光武帝に転職

  是歲,更封光阿陵侯,食邑萬戶。五年,征詣京師,奉朝請。其冬卒。子隗嗣。後阮況為南陽太守,郭唐至河南尹,皆有能名。

この歳、あらためて任光を阿陵侯に封じた。食邑は1萬戶。

ぼくは思う。更始帝の爵位から、光武帝の爵位に移った。更始帝が死んだからね。

建武五年(029年)、任光は、京師へ征詣し、朝請した。その冬、任光は死んだ。子の任隗が、任光を嗣いだ。のちに阮況は南陽太守となり、郭唐は河南尹となり、能名があった。

ぼくは思う。光武帝の王郎戦を助けた人は、大恩人である。べつに前歴がなさそうなのに、高位に登った。どちらも、具体的なエピソードがない。ソコソコだったのだろう。売った恩のおかげだ。いちおう能名ということにして、「妥当な人事だよ」と宣伝した。


次回、袁安のお友達、任隗です。すぐ終わるが。