表紙 > ~後漢 > 『後漢書』任光・任隗伝:父は光武帝を拾い、子は袁安と協調する

02) 章帝の友人、司空の任隗

『後漢書』胡広伝を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
渡邉義浩氏のサイン入りの『全訳後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈他もひろいます。20100911に、三国志学会で購入し、サインしてもらったのだ。

この列伝をあつかう動機

任隗は、袁安とともに、竇憲と対決した三公だ。
袁安を知るために、任隗と、その父・任光の列伝を読みます。
前頁で任光を見たので、本題の任隗です。

章帝の友人として、将作大匠となる

  隗字仲和,少好黃、老,清靜寡欲,所得奉秩,常以賑恤宗族,收養孤寡。顯宗聞之,擢奉朝請,遷羽林左監、虎賁中郎將,又遷長水校尉。

任隗は、あざなを仲和という。わかくして黄老を好む。清靜で寡欲だ。奉秩を得れば、つねに宗族に賑恤した。孤児と寡婦を收養した。明帝はこれを聞き、任隗に朝請させた。任隗は、羽林左監、虎賁中郎將にうつる。また長水校尉にうつる。

『続漢書』はいう。羽林に、左右監が1人いる。それぞれ6百石。左右の羽林騎をつかさどる。渡邉注は、官名に注釈するが、『後漢書』百官志なので、後日まとめて。


肅宗即位,雅相敬愛,數稱其行,以為將作大匠。將作大匠自建武以來常謁者兼之,至隗乃置真焉。建初五年,遷太僕,八年,代竇固為光祿勳,所曆皆有稱。章和元年,拜司空。

章帝が即位した。章帝と任隗は、もとより敬愛しあう。章帝は、しばしば任隗の行いを称えた。

親・任光の七光は、あまり輝かない。むしろ、章帝との個人的なつながりで、抜擢されたような感じ。袁安のキャラも、任光と同じなのだろう。『孟子易』をやる、地味な人。

章帝は任隗を、將作大匠とした。將作大匠は、光武帝のときから、謁者が兼ねた。いま任隗を將作大将の専任とした。

『漢書』はいう。将作大匠は、秦の官だ。秦の将作少府を、前漢の景帝が、将作大匠に改めた。秩は2千石。『後漢書』百官志はいう。将作大匠は、宗廟、路寝、宮室、陵園の土木工事をつかさどる。
百官志はいう。謁者は、謁者僕射がまとめる。常侍謁者、給事謁者、潅謁者がいる。光禄勲に属す。儀礼の補助や、皇帝の使者をやる。

建初五年(083年)、任隗は太僕にうつる。八年(086)年、竇固に代わって、光祿勳となる。経歴した職務は、みな称された。章和元年(87)年、任隗は司空となる。

袁安とともに、竇憲と対決する

  隗義行內修,不求名譽,而以沈正見重於世。和帝即位,大將軍竇憲秉權,專作威福,內外朝臣莫不震懾。時,憲擊匈奴,國用勞費,隗奏議征憲還,前後十上。獨與司徒袁安同心畢力,持重處正,鯁言直議,無所回隱,語在《袁安傳》。

任隗は、義行は内に修まり、名譽を求めず。沈正だから、世に重んじられた。
和帝が即位すると、大將軍の竇憲が北匈奴を撃つと言いだした。任隗は、前後10回を上奏して、竇憲をとめた。司徒の袁安とだけ、同心して力をつくす。任隗は、正しいことを守り、議論がブレない。邪論から逃げない。『後漢書』袁安伝にある。

渡邉注はいう。山崎光洋「後漢時代の汝南の袁氏について」『立正史学』53、1983年を見よと。見なければ!
当初に目的とした任隗より、父の任光のほうが、おもしろかったなあ。任隗は、黄老が好きだったので、ひたすら地味に、淡々と仕事をしたのだろう。その任隗が、表舞台に出てくるのだ。竇憲は、よほど横車を押したと分かる。任隗は、父・任光が光武帝を救ったことを思い出し、使命感を奮い立たせたはず。死ぬリスクを犯して。


  永元四年薨,子屯嗣。帝追思隗忠,擢屯為步兵校尉,徙封西陽侯。 屯卒,子勝嗣。勝卒,子世嗣,徙封北鄉侯。

永元四年(92年)、任隗は薨じた。子の任屯が嗣ぐ。和帝は、任隗の忠を追思し、任屯を步兵校尉とした。うつして西陽侯(山陽郡の県)に封じた。
任屯が卒すと、子の任勝が嗣ぐ。任勝が卒すと、子の任世が嗣ぐ。うつして、北鄉侯(斉郡の県)に封じた。101226

任隗の子孫は、高い位には、就かなかったらしい。袁安の子孫が、高い位に就くには、べつの工夫が必要である。光武帝を、ゼロから助けた任光の子孫ですら、子孫は地味なのだ。袁氏は、よほど、何かスゴイことをしたのだ。つぎの問題が設定できました。