01) 舂陵の劉氏、長安を攻める
『後漢書』列伝第一、劉玄伝をやります。
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。
光武帝を知ることが目的。劉玄とは更始帝を自称した。
劉玄と光武帝は、近くて遠い親戚で、ライバル関係にある。
のちに光武帝は、兄を劉玄に殺されて、自立する。
袁術:袁紹 = 更始帝の劉玄:光武帝の劉秀
この関係を指摘することが、このページの価値です。
いつわって死に、官吏から父を解放する
劉玄字聖公,光武族兄也。弟為人所殺,聖公結客欲報之。客犯法,聖公避吏于平林。吏系聖公父子張。聖公詐死,使人持喪歸舂陵,吏乃出子張,聖公因自逃匿。
劉玄は、あざなを聖公という。光武帝の族兄だ。
劉玄は、4代前で光武帝と祖先を共有する。『帝王世紀』に劉玄の曽祖父の名まである。前漢の景帝から、系図がちゃんとつながる。
弟が殺された。劉玄は食客とむすび、弟のカタキをとりたい。食客が法を犯した。劉玄は官吏を避け、平林にまぎれた。
任侠っぽさは、袁術とおなじ。しかし、時代の風潮により、みんな任侠を重んじる。劉玄と袁術の「特徴的な共通点」とは云えまいが。
官吏は、劉玄の父・劉子張をとらえた。劉玄は死んだふりをした。劉玄のニセ棺は、故郷の舂陵に運ばれた。
官吏は、劉子張をはなした。劉玄は、逃げかくれた。
劉玄がかくれたとき、前漢はたおれ、王莽の新室が立っていたはず。今週は『漢書』王莽伝を読んだ。王莽は、法家っぽい厳しい政治をした。劉玄にしてみれば「そんな小さなことで、父を捕えるなよ」と、新室の猛政に抗議したかったのかも?
父の名は忌まれ、あざなで記されているのか。それとも、王莽の禁制をやぶって、2字のままなのか。笑
荊州北部に、緑林軍5万が自立する
王莽末,南方饑饉,人庶群入野澤,掘鳧茈而食之,更相侵奪。新市人王匡、王鳳為平理諍訟,遂推為渠帥,眾數百人。於是諸亡命馬武、王常、成丹等往從之;共攻離鄉聚,臧於綠林中,數月間至七八千人。
王莽の末期、南方は飢えた。山沢にはいり、雑草を食べた。
王莽のとき、荊州も飢えたが、青州や徐州が、もっとひどく飢えた。数十万の流民が発生するほどだ。王莽が滅びた原因は、気候によるところが大きいかも? もちろん、つたない政策も原因の一部だろうが。
新市の人である、王匡と王鳳は、もめごとを治めるため、渠帥におされた。数百人があつまった。
王莽のおじに、王鳳がいる。王莽のつかった将軍に、王匡がいる。しかし、いま劉玄が交わる王匡と王鳳は、王莽に敵対する勢力である。
亡命者である、馬武、王常、成丹らは、王匡と王鳳にしたがった。王匡と王鳳らは、緑林にかくれて、7、8千人の勢力となった。
最初から最後まで、劉玄の軍事力は、緑林軍にルーツがある。
地皇二年,荊州牧某發奔命二萬人攻之,匡等相率迎擊于雲杜,大破牧軍,殺數千人,盡獲輜重,遂攻拔竟陵。轉擊雲杜、安陸,多略婦女,還入綠林中,至有五萬餘口,州郡不能制。
地皇二年(21年)新室の荊州牧は、2万人で緑林軍を攻めた。王匡らは、雲杜で勝った。数千人を殺し、輜重をうばった。竟陵をぬいた。雲杜と安陸を転戦した。おおく婦女をうばった。緑林にもどった。
緑林軍は、5万余人にふくらんだ。新室の州郡がもつ軍では、緑林軍にかなわない。
三国や東晋に出てくる「塢」みたいな、自己防衛の団体だろうね。
舂陵の皇族、荊北の兵団は、劉玄を更始帝とする
三年,大疾疫,死者且半,乃各分散引去。王常、成丹西入南郡,號下江兵;王匡、王鳳、馬武及其支常朱鮪、張B421等北入南陽,號新市兵:皆自稱將軍。七月,匡等進攻隨,未能下。平林人陳牧、廖湛複聚眾千餘人,號平林兵,以應之。聖公因往從牧等,為其軍安集掾。
地皇三年(22年)疫病により、緑林軍の大半が死んだ。解散した。緑林は分割して移動した。南郡の下江兵と、南陽の新市兵になった。将軍を名のった。新市兵に、平林兵が合わさった。
南郡の下江兵:王常、成丹(江陵のほうにいく)
南陽の新市兵:王匡、王鳳、馬武(+その支党・朱鮪、張卬)
南陽の平林兵:陳牧、廖湛 (新市兵に合わさる)
劉玄は、平林兵にしたがう。劉玄は、平林兵の安集掾に任じられた。
是時,光武及兄伯升亦起舂陵,與諸部合兵而進。四年正月,破王莽前隊大夫甄阜、屬正樑丘賜,斬之,號聖公為更始將軍。眾雖多而無所統一,諸將遂共議立更始為天子。二月辛巳,設壇場于BF73水上沙中,陳兵大會。更始即帝位,南面立,朝群臣。素懦弱,羞愧流汗,舉手不能言。於是大赦天下,建元曰更始元年。悉拜置諸將,以族父良為國三老、王匡為定國上公、王鳳成國上公、朱鮪大司馬、伯升大司徒、陳牧大司空,餘皆九卿、將軍。
このとき光武帝と、その兄の劉伯升は、舂陵で起兵した。
劉玄は光武帝の「族兄」だ。もし官吏に追われて平林に逃げなければ、舂陵のリーダーは、はじめから劉玄でよかったはず。悔しい。
地皇四年(23年)正月、光武帝は、新室の甄阜と樑丘賜を斬った。
劉玄を、更始将軍と号した。光武帝がいる軍は、兵は増えたが、統制がとれない。諸将は話し合い、劉玄を天子に立てた。
2月辛巳、劉玄は更始帝に即位した。劉玄は、惰弱な性格だから、はじて汗を流した。手を挙げても、言葉がでない。
きっと、漢皇帝というポストの重みが、ひどい。わりと頑丈な人だって、震えるだろう。例えば、2トンの自動車を持ち上げられなくても「惰弱」じゃない。
もしくは『後漢書』が、不当に小心者だと歪めているのか、、
大赦して、更始元年とした。
族父の劉良と、新市兵と平林兵のリーダーを、三公にした。
光武帝の兄を殺し、洛陽と長安に攻めこむ
五月,伯升拔宛。六月,更始入都宛城,盡封宗室及諸將,為列侯者百餘人。
更始忌伯升威名,遂誅之,以光祿勳劉賜為大司徒。
5月、劉伯升は宛城をぬいた。6月、劉玄は宛城に入った。宗室と諸将を、100余人、列侯にした。
劉玄は、劉伯升の威名をきらい、劉伯升を殺した。光禄勲の劉賜を、劉伯升のかわりに、大司徒にした。
漢軍トータルでは、劉玄が、劉伯升を殺すメリットが見えにくい。これから、新室の大軍を、たくさん迎撃せねばならん。有能な将軍は、ひとりでも多いほうがいい。
では劉玄は、劉伯升に立場を脅かされ、保身のために殺したか。
『後漢書』劉伯升の列伝では、劉玄よりも劉伯升が、いかにもリーダーの適格者だと描かれる。しかし怪しい。劉伯升は、光武帝の兄だ。よく書かれる。また、上り調子で死ぬから、晩年にありがちな、ボロが出ていない。英雄に飾りたい放題である。
『後漢書』で劉玄は、大義より保身を優先した、ろくでなしだ。
ぼくは思う。この時点で、南陽の劉氏は、大帝国を復興する意思はうすく、目先のケンカに熱中した集団に過ぎない。いまにも新室の大軍に攻められる。生きるか死ぬかだ。悠長を気どっていられない。
劉玄は『後漢書』ほどセコくなく、劉伯升は『後漢書』ほど立派でない?
前鐘武侯劉望起兵,略有汝南。時王莽納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳藏既敗于昆陽,往歸之。
八月,望遂自立為天子,以尤為大司馬、茂為丞相。
さきの鐘武侯・劉望は、汝南を攻めとった。
新室の納言將軍・厳尤と、秩宗將軍・陳茂は、すでに昆陽で敗れた。厳尤と陳茂は、劉望に帰した。
8月、劉望は天子となった。厳尤は大司馬に、陳茂は丞相になった。
劉望は、劉玄=舂陵の劉氏とは、別勢力として、漢室の復興をねらった勢力だろう。こんな人が、おおくいたに違いない。敗者だから、史料が少ないが。劉玄は、うちに劉伯升とあらそい、そとに劉望らと競った。
厳尤と陳茂は、舂陵の劉氏にやぶれた。だから、舂陵とは別勢力の劉氏にしたがって、要職についた。
汝南で独立した、という土地柄が気になる。二袁の故郷だから。袁紹の祖先は、前漢や新室に仕えた。劉望と、からんだかも知れない。
王莽使太師王匡、國將哀章守洛陽。更始遣定國上公王匡攻洛陽,西屏大將軍申屠建、丞相司值李松攻武關,三輔震動。是時海內豪桀翕然響應,皆殺其牧守,自稱將軍,用漢年號,以待詔命,旬月之間,遍於天下。
王莽は、太師の王匡と、國將の哀章に、洛陽を守らせた。劉玄は、定國上公の王匡に、洛陽を攻めさせた。
劉玄は、西屏大將軍の申屠建と、丞相司値の李松に、武關を攻めさせた。長安のまわり・三輔は震動した。
このとき、三輔の豪族たちは、劉玄に応じた。豪族は、新室の地方官を殺し、みずから将軍を名のり、劉玄がさだめた漢の年号を用いた。旬月のうちに、天下は平定された。
次回、王莽を殺します。王莽伝とおなじ展開。(当たり前か)