表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』劉玄伝を抄訳、袁術が目標とした、一番のりの皇帝

03) 荊州帰りをこばみ、都おち

『後漢書』列伝第一、劉玄伝をやります。
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。
光武帝を知ることが目的。劉玄とは更始帝を自称した。
劉玄と光武帝は、近くて遠い親戚で、ライバル関係にある。

のちに光武帝は、兄を劉玄に殺されて、自立する。

前漢の正統な皇帝・孺子嬰を一瞬で殺す

十二月,赤眉西入關。
三年正月,平陵人方望立前孺子劉嬰為天子。初,望見更始政亂,度其必敗,謂安陵人弓林等曰:「前定安公嬰,平帝之嗣,雖王莽篡奪,而嘗為漢主。今皆雲劉氏真人,當更受命,欲共定大功,何如?」林等然之,乃于長安求得嬰,將至臨涇立之。聚黨數千人,望為丞相,林為大司馬。更始遣李松與討難將軍蘇茂等擊破,皆斬之。又使蘇茂拒赤眉于弘農,茂軍敗,死者千余人。

24年12月、赤眉が西にゆき、関中に入った。

赤眉は、つぎの劉盆子伝で読める。
青州の民衆が暴動した、非タテ型組織。

更始三年(25年)正月、平陵の人である方望は、前漢の孺子・劉嬰を、天子にした。

王莽に立てられた、カタチだけの皇帝。
劉嬰:王莽が立てるが流浪:方望が支える:劉玄が敵視
劉協:董卓が立てるが流浪:曹操が支える:袁術が敵視

はじめ方望は、劉玄の政治が乱れたので、劉玄はほろぶと考えた。
方望は、安陵の人である弓林らに云った。
劉嬰は、前漢の平帝をついだ。王莽に簒奪されたが、かつて漢の皇帝にちがいない。みな劉氏が、皇帝になるべきだという。劉嬰をかつぎ、大功を立てたいよね」
みな賛成した。方望は、長安で劉嬰を得て、臨涇で皇帝に立てた。数千人があつまった。方望は丞相になり、弓林は大司馬になった。
劉玄は、李松と蘇茂に、方望と劉嬰を斬らせた。

後漢末の献帝・劉協は、いつ殺されてもおかしくない。
なぜなら、前漢の孺子嬰は、明らかに前漢で正統の皇帝なのに、斬られた。劉協の位置づけは、同じである。
袁術が劉協を重んじなかったのは、非常識ではない。とりうる戦略のひとつだ。李傕と郭汜は、支持を集められなかった。曹操がひろうまで、劉協の影響力は、小さかった。献帝は殺されるはずがなく、限りなく貴い人だと眺めるのは、誤りであると思う。

蘇茂は、弘農で赤眉をふせいだ。蘇茂は破れ、千余人が死んだ。

重臣に裏切られ、赤眉に長安から締め出される

三月,遣李松會朱鮪與赤眉戰於{艸務}鄉,松等大敗,棄軍走,死者三萬余人。
時王匡、張B421守河東,為鄧禹所破,還奔長安。B421與諸將議曰:「赤眉近在鄭、華陰間,旦暮且至。今獨有長安,見滅不久,不如勒兵掠城中以自富,轉攻所在,東歸南陽,收宛王等兵。事若不集,複入湖池中為盜耳。」申屠建、廖湛等皆以為然,共人說更始。更始怒不應,莫敢複言。及赤眉立劉盆子,更始使王匡、陳牧、成丹、趙萌屯新豐,李松軍C37D,以拒之。

3月、李松と朱鮪を赤眉にあてたが、敗れた。死者は、3万余人。
王匡と張卬は、河東で鄧禹に敗れた。長安に逃げかえった。王匡らは、南陽に帰ることを薦めた。
「宛城で兵をあつめ、荊州で盗賊に戻ればよいでしょう」
申屠建らも、賛成した。劉玄は、怒った。

劉玄の母体は、良くも悪くも、荊州北部の兵団です。いきおいで長安に来たが、長安にこだわりはない。故郷が大切なのは、つねに同じだ。
劉玄だけ、荊州の在地性を失った。前漢の皇帝をついだような気分である。明らかに、支持が得られない。


張B421、廖湛、胡殷、申屠建等與御史大夫隗囂合謀,欲以立秋日貙膢時共劫更始,俱成前計。侍中劉能卿知其謀,以告之。更始託病不出,召張B421等。B421等皆入,將悉誅之,唯隗囂不至。更始狐疑,使B421等四人且待於外廬。B421與湛、殷疑有變,遂突出,獨申屠建在,更始斬之。B421與湛、殷遂勒兵掠東西市。昏時,燒門入,戰于宮中,更始大敗。明旦,將妻子車騎百餘,東奔越萌于新豐。

張卬や申屠建たち重臣は、御史大夫の隗囂とむすんだ。劉玄をおどして、荊州に帰りたい。立秋の祭りで、劉玄をおどす計画をたてた。劉玄は計画を知り、祭りに行かず。

董卓さんの最期ににている。
「共劫更始,俱成前計」を、ぼくは荊州に帰ることだと考えた。でも劉玄を殺す作戦だと、捉えることもできる。

ぎゃくに劉玄は、重臣を呼び出した。劉玄は、申屠建を斬った。張卬は劉玄とたたかい、長安から追いだした。
劉玄は、外戚の趙萌をたより、新豊ににげた。

更始複疑王匡、陳牧、成丹與張B421等同謀,乃並召入。牧、丹先至,即斬之。王匡懼,將兵入長安,與張B421等合。李松還從更始,與趙萌共攻匡、B421於城內。連戰月余,匡等敗走,更始徙居長信宮。赤眉至高陵,匡等迎降之,遂共連兵而進。更始守城,使李松出戰,敗,死者二千余人,赤眉生得松。時松弟B02A為城門校尉,赤眉使使謂之曰:「開城門,活汝兄。」B02A即開門。九月,赤眉入城。更始單騎走,從廚城門出,諸婦女從後連呼曰:「陛下,當下謝城!」更始即下拜,複上馬去。

劉玄は、王匡ら、ほかの重臣も疑った。重臣を斬った。
王匡は長安ににげ、張卬と合わさった。
1ヶ月あまり、劉玄と、劉玄を裏切った旧臣は、長安の内外で戦った。赤眉が到着し、9月に長安に入城した。
劉玄は、単騎で逃げた。劉玄にしたがう婦女は、後ろから叫んだ。
「劉玄さま、長安城にあいさつをなさっては」
劉玄は、下馬して長安を拝み、また乗馬して去った。

都会の毒に染められて、カンチガイしただけの人になりました。


赤眉に降伏して長沙王となり、殺される

初,侍中劉恭以赤眉立其弟盆子,自系詔獄:聞更始敗,乃出,步從至高陵,止傳舍。右輔都尉嚴本恐失更始為赤眉所誅,將兵在外,號為屯衛而實囚之。赤眉下書曰:「聖公降者,封長沙王。過二十日,勿受。」更始遣劉恭請降,赤眉使其將謝祿往受之。

赤眉は、劉玄に伝えた。
「もし劉玄が降るなら、長沙王にしてやる。降る期限は20日」
劉玄は、赤眉に降伏した。

十月,更始遂隨祿肉袒詣長樂宮,上璽綬於盆子。赤眉坐更始,置庭中,將殺之。劉恭、謝祿為請,不能得,遂引更始出。劉恭追呼曰:「臣誠力極,請得先死。」拔劍欲自刎,赤眉帥樊崇等遽共救止之,乃赦更始,封為畏威侯。劉恭複為固請,竟得封長沙王。更始常依謝祿居,劉恭亦擁護之。

10月、劉玄は肌ぬぎになり、赤眉のたてた皇帝・劉盆子に璽綬をさしあげた。
だが赤眉は、劉玄を殺そうとした。劉玄の降伏を仲介した劉恭が、命ごいをしてくれた。劉玄は、長沙王になることができた。

三輔苦赤眉暴虐,皆憐更始,而張B421等以為慮,謂祿曰:「今諸營長多欲篡聖公者。一旦失之,合兵攻公,自滅之道也。」於是祿使從兵與更始共牧馬於郊下,因令縊殺之。劉恭夜往收臧其屍。光武聞而傷焉。詔大司徒鄧禹葬之於霸陵。

三輔の人は、赤眉の暴虐に苦しんだ。劉玄をなつかしんだ。
張卬は、赤眉に吹き込んだ。
「劉玄を殺さないと、ふたたび劉玄が担がれますよ。赤眉にとって、脅威となるでしょう」
赤眉は、劉玄をくびり殺した。
光武帝はこれを悼み、大司徒の鄧禹に、劉玄を埋葬させた。

有三子;求,歆,鯉。明年夏,求兄弟與母東詣洛陽,帝封求為襄邑侯,奉更始祀;歆為穀孰侯,鯉為壽光侯。求後徙封成陽侯。求卒,子巡嗣,複徙封B324澤侯。巡卒,子姚嗣。

劉玄には、3人の子があった。劉求、劉歆、劉鯉である。子たちは、母とともに洛陽にきた。光武帝は、子たちを侯にした。

一番のりの皇帝は、失敗するのだ

論曰:周武王觀兵孟津,退而還師,以為紂未可伐,斯時有未至者也。漢起,驅輕黠烏合之眾,不當天下萬分之一,而旌旃之所捴及,書文之所通被,莫不折戈頓顙,爭受職命。非唯漢人余思,固亦幾運之會也。夫為權首,鮮或不及。陳、項且猶未興,況庸庸者乎!

范曄は、論にいう。
周の武王は、殷の紂王を性急に討たず、兵をもどした。
新末に漢室を復興する動きがあったが、まとまりがない。そのなかで、先がけて皇帝になれば、失敗しても仕方がない。陳勝と項羽ですら、成功しなかった。まして、劉玄のような平凡な人間が、いちはやく皇帝になって、成功するはずがない。

袁術は、劉玄の反省をいかせず、おなじ運命をたどった。
劉玄が即位したのは、南陽郡だ。つまり、洛陽や長安にいなくても、皇帝を名のってよい。南方で皇帝となり、どうどうと北伐すればよい。寿春で他人に先がけて即位したのは「苦肉の早計」とばかり、いえない。
さて、宿題を回収。
劉玄の失敗の原因は、酒と女でない。在地権力(荊州の豪族や兵)と、君主権力(長安の都会人)とを、うまく折り合わせられなかったから。袁術は、これを反面教師にすべきだった。袁術の、荊州や揚州人への政策を、比べたい。袁術も、在地権力と君主権力の調整に、派手に失敗してたはず。


つぎは、赤眉の皇帝・劉盆子伝です。つづく。100806