表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』王郎伝を抄訳、光武帝の河北デビュー戦の強敵

前漢成帝の落胤、冀州と幽州をなびかす

『後漢書』列伝第二、王郎伝。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。

王郎とは、光武帝の根拠地・河北をさきに治めていた人。
群雄の筆頭のわりには、列伝が短くて、不自然。今回は解決できず。

邯鄲の王郎が、成帝のご落胤を名のり、皇族が信じる

王昌一名郎,趙國邯鄲人也。素為卜相工,明星曆,常以為河北有天子氣。時趙繆王子林好奇數,任俠于趙、魏間,多通豪猾,而郎與之親善。

王昌は、一名を王郎という。

後漢末の会稽太守と紛らわしいが、王郎で推します。笑

王郎は、趙國の邯鄲県の人だ。

邯鄲は、戦国趙の都。新末も、五大都市のひとつ。
班固『両都賦』は、五大都市をあげる。洛陽、邯鄲、臨シ、宛城、成都。

王郎は占いができた。河北に天子の気があると、天文を読んだ。
ときに、趙繆王の子・劉林は、占いを好んだ。

李賢はいう。景帝の7代の孫だ。だが『後漢書集解』では、代数がちがうらしい。ともかく、光武帝とおなじ、血筋の貴さをもつ。

劉林は、趙と魏のあいだで、任侠として名がとおり、豪傑と交わった。だから王郎も、劉林と親しく付きあった。

初,王莽篡位,長安中或自稱成帝子子輿者,莽殺之。郎緣是詐稱真子輿,雲「母故成帝謳者,嘗下殿卒僵,須臾有黃氣從上下,半日乃解,遂妊身就館。趙後欲害之,偽易他人子,以故得全。子輿年十二,識命者郎中李曼卿,與俱至蜀;十七,到丹陽;二十,還長安;輾轉中山,來往燕、趙,以須天時」。

はじめ王莽が簒奪したとき、長安に、成帝の子・劉子輿を名のる人がいた。王莽は、劉子輿を殺した。これを見た王郎は、
「殺された劉子輿はニセモノだ。私こそが、真の劉子輿だ
ウソをついた

『後漢書』に「詐」とある。ぼくは『後漢書』を鵜呑みにしたくないものの、今のところ反論する材料がありません。

王郎は、自分を語った。
「母は成帝に、歌姫として仕えた。帰宅したとき、にわかに倒れた。半日間、黄色の気が、母をおおった。妊娠して、私を産んだ。母は、成帝の趙皇后に殺されるのを恐れた。同じタイミングで産まれた子と、私を取り替えた。私は12歳のとき、蜀にいった。17歳のとき、丹楊にきた。20歳で長安にもどった。中山にきて、燕や趙をめぐり、天の時がくるをの待った(そして今に至る)」

なんか冗長だ。ウソつきは、よく喋る。真実味を持たせるため、避難した場所を、三国の呉蜀の領域だとしているのは、興味深い。辺境です。
漢は赤徳なのに、黄色の気とは、これいかに。易姓しちゃうよ!


林等愈動疑惑,乃與趙國大豪李育、張參等通謀,規共立郎。會人間傳赤眉將度河,林等因此宣言赤眉當至,立劉子輿以觀眾心,百姓多信之。

劉林は、王郎の話を信じた。劉林は、趙国の大豪族・李育、張参らと話し合い、王郎を天子に立てようと考えた。
ちょうど赤眉が、黄河を北に渡ってくると、ウワサされた。劉林は、劉子輿(王郎)をリーダーにして、赤眉を防ぐべきだと唱えた。万民は、おおくこれを信じた。

なぜ劉林は、みずから天子にならないのだろう。王郎みたいに偽らなくても、正真正銘の皇族だ。おなじ条件(景帝の子孫)の劉玄や劉秀は、求心力を持ったじゃん。『後漢書』が、なにか隠してる?
景帝の子孫・劉林より、成帝の子のほうが、血筋が近くて貴い。劉林が「成帝の落胤」を信じたなら、王郎の補佐に回った理由は、理解できる。


趙都の邯鄲で即位し、冀州と幽州をなびかせる

更始元年十二月,林等遂率車騎數百,晨入邯鄲城,止于王宮,立郎為天子。林為丞相,李育為大司馬,張參為大將軍。分遣將帥,徇下幽、冀。

23年12月、劉林は車騎を数百ひきいて、朝に邯鄲城に入った。邯鄲城にとどまり、王宮とした。王郎を天子にした。
劉林は、丞相になった。趙国の豪族・李育は大司馬、張参は大将軍になった。将帥をおくり、幽州と冀州をくだした。

幽州と冀州が、えらくアッサリ降伏した。幽州も冀州も、邯鄲の文化圏というか、影響のもとにあったのかな。
ちなみに後漢末の邯鄲は、さっぱり活躍しない。少し南の、魏郡・鄴城に、主導権を持っていかれているみたい。なぜ邯鄲が寂れたんだ? 宿題。


移檄州郡曰:「制詔部刺史、郡太守:朕,孝成皇帝子子輿者也。昔遭趙氏之禍,因以王莽篡殺,賴知命者將護朕躬,解形河濱,削跡趙、魏。王莽竊位,獲罪於天,天命佑漢,故使東郡太守翟義、嚴鄉侯劉信,擁兵征討,出入胡、漢。普天率土,知朕隱在人間。南嶽諸劉,為其先驅。朕仰觀天文,乃興於斯,以今月壬辰即位趙宮。休氣薰蒸,應時獲雨。蓋聞為國,子之襲父,古今不易。劉聖公未知朕,故且持帝號。諸興義兵,鹹以助朕,皆當裂土享祚子孫。已詔聖公及翟太守,亟與功臣詣行在所。疑刺史、二千石皆聖公所置,未睹朕之沉滯,或不識去就,強者負力,弱者惶惑。今元元創痍,已過半矣,朕甚悼焉,故遣使者班下詔書。」

王郎は、州郡に、檄文を発行した。
「私は前漢の成帝の子だ。東郡太守の翟義は、劉信を立てて、王莽を討った。胡族が、漢族のあいだに入り混じった。

范曄も吉川忠夫氏もいう。ウソである。翟義は、王莽に負けた。
ぼくは思う。ウソにせよ、中央の混乱に乗じて、異民族が乱入したという話はおもしろい。大々的に実現されるのは、西晋末ですが。

私は、趙の都・邯鄲で即位した。南陽の劉氏は、私が生きていることを知らず、更始帝を即位させ、郡太守を任命した。だが更始帝でなく、私の命令がホンモノである」

郎以百姓思漢,既多言翟義不死,故祚稱之,以從人望。於是趙國以北,遼東以西,皆從風而靡。

万民は漢室を慕っていた。王郎はこれを利用した。翟義が死んでいないと聞いて、万民は王郎に期待した。
趙国より北、遼東より西は、みな王郎になびいた。

光武帝は、柏人と鉅鹿を攻めあぐねて、首都に突入

明年,光武自薊得郎檄,南走信都,發兵徇帝縣,遂攻柏人,不下。議者以為守柏人不如定巨鹿,光武乃引兵東北圍巨鹿。郎太守王饒據城,數十日連攻不克。

翌年に光武帝は、薊城で、王郎の檄文を知った。南の信都に逃げた。

王郎は、薊城に命じて、光武帝の首に懸賞をかけたのか? 光武帝は、それを知って逃げたと。吉川忠夫氏の訓読では、「走」に逃げるのニュアンスを含めないから、そう読めないが。

光武帝は、まわりの県から兵をあつめて、王郎が治める柏人県を攻めた。光武帝は、勝てない。光武帝に、アドバイスした人がいた。
「柏人を攻めるより、巨鹿を先に攻めたほうがいい」
光武帝は柏人から兵をひき、東北で鉅鹿をかこんだ。王郎の鉅鹿太守・王饒がまもる。鉅鹿で、数十日も連戦した。光武帝は勝てない。

柏人で失敗し、鉅鹿で失敗した。光武帝は、更始帝から逃げるように、追い出されるように、河北にきたばかり。さっぱり見通しが立たない。


耿純說曰:「久守王饒,士眾疲敝,不如及大兵精銳,進攻邯鄲。若王郎已誅,王饒不戰自服矣。」光武善其計,乃留將軍鄧滿守巨鹿,而進軍邯鄲,屯其郭北門。

耿純が、光武帝に説いた。
「ながく鉅鹿を囲んでいれば、私たちの軍は、つかれます。精兵をひきい、首都の邯鄲を攻めてしまうほうが、いいでしょう。もしボスの王郎を殺せば、鉅鹿は戦わなくても降伏します」

耿純は、『後漢書』列伝11。つぎに読もうと思います。
耿純の提案は、ムチャである。「敵の子分に勝てないから、敵の親玉を殺しましょう。親玉が死ねば、子分は降ります」と。そりゃそうだが。
「孫権さま。合肥を抜けませんから、曹操を先に殺しましょう
と提案するのと同じくらい、ムチャである。

光武帝は、耿純の作戦を、善しとした。
部将を鉅鹿にのこして、邯鄲に進んだ。郭北門にきた。

王郎が降伏の使者をよこすが、なぜか使者は強気

郎數出戰不利,乃使其諫議大夫杜威持節請降。威雅稱郎實成帝遺體。光武曰:「設使成帝複生,天下不可得,況詐子輿者乎!」威請求萬戶侯。光武曰:「顧得全身可矣。」威曰:「邯鄲雖鄙,並力固守,尚曠日月,終不君臣相率但全身而已。」遂辭而去。

王郎はしばしば邯鄲城を出て戦った。王郎が不利だ。
王郎は、諫議大夫の杜威に、節を持たせて、光武帝に降伏をねがった。杜威は、王郎が成帝の子だと信じている。

杜威の外交スタンスは、ただの降伏じゃなかろう。
「王郎さんは、光武帝よりも、前漢の帝室にちかい。もし光武帝が、景帝の子孫であることを誇るなら、おなじロジックの延長で、王郎さんを敬うべきだ。景帝の子孫で、趙国の劉林が、王郎を支えたように」かな。
軍事的に光武帝に負けた。今後は光武帝が、王郎さんを保護せよと。

光武帝は、杜威に云った。
もし成帝の子だとしても、王郎が、天下を得ることはできない。まして、成帝の子を、いつわって名のる奴なら、もっとムリである」

光武帝の、失言ではないのか? 後半、王郎のいつわりを批判するのは、ヨシ。しかし前半「たとえ成帝の子でもムリ」は、どんな意味だろう。

杜威は、王郎に万戸侯の地位をもとめた。光武帝は答えた。
「命が助かるだけでも、ありがたく思え。王郎に、万戸侯の地位をあげるなんて、とんでもない」
杜威は、交渉の決裂を云って、去った。
「邯鄲はイナカだが、ながく包囲に耐えるだろう。また、私たち君臣は、命が惜しいから、邯鄲でがんばっているのではない

杜威のセリフが、カッコいい。
そもそも、光武帝と杜威が交渉するテーブルが、どういう目的で持たれたのか、よく分からん。光武帝の都合で、書き換えられている?
光武帝は、河北に来たばかりで、なんの基盤もない。もし邯鄲に籠城されたら、柏人と鉅鹿とおなじく、勝てない。ぎゃくに王郎は、城外で負けても、まだアトがある。冀州と幽州があり、援軍も出せる。
もし交渉するとしたら、王郎が有利であるはずだ。『後漢書』のバイアスを剥がして、組み立てなおさないといけない。ろくな材料がないのに。笑


因急攻之,二十余日,郎少傅李立為反間,開門內漢兵,遂拔邯鄲。郎夜亡走,道死,追斬之。

光武帝は、20日あまり、邯鄲を攻めた。王郎の少傅・李立に、反間をしかけた。李立は、邯鄲の城門を開き、光武帝の兵を入れた。光武帝は、邯鄲を抜いた。
王郎は夜ににげた。道で死んだ。光武帝はあとから、死体を斬った。

誰に殺されたんだろう。あとから死体を傷つけたのは、王郎の正統性を否定する、儀式としての目的があったのかも知れない。


おわりに

全体的に断片的でナゾに満ちてた。列伝の字数が、少なすぎる。
光武帝のライバルで、河北を争奪した相手なら、
曹操にとっての袁紹のように、扱いが大きくなるのが自然なのに。
なにか後漢にとって、やましいことが?
たとえば、ホントに成帝の落胤だと、認識されていたとか
鉅鹿をあきらめさせ、邯鄲を攻めさせた、耿純の不自然さが怪しい。
不可解の検証は、耿純伝につづきます。100810