147年、李固と杜喬ら、劉蒜派を殺す
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
147年春夏、李固のあとは杜喬だけ
147年春正月辛亥ついたち、日食した。戊午、天下を赦した。3月、譙県に龍があらわれた。
六月,太尉胡廣罷。光祿勳杜喬為太尉。自李固之廢,內外喪氣,群臣側足而立, 唯喬正色無所回橈,由是朝野皆倚望焉。
147年夏4月庚寅、京師は地震した。阜陵王・劉代の兄である、勃遒亭侯・劉便を、阜陵王とした。
147年6月、太尉の胡廣をやめた。光祿勳の杜喬を、太尉とした。李固が廃されてから、內外は氣を喪った。郡臣のなか、杜喬だけが、正義を曲げない。みな朝野の人は、杜喬に期待する。
ぼくは思う。スジが通った、梁冀への敵対者は、李固と杜喬。列伝をやろう。
147年秋、趙戒と袁湯と胡広、vs杜喬
詔以定策功,益封梁冀萬三千戶,封冀弟不疑為穎陽侯,蒙為西平侯,冀子胤為襄 邑侯,胡廣為安樂侯,趙戒為廚亭侯,袁湯為安國侯。又封中常侍劉廣等皆為列侯。
杜 喬諫曰:「古之明君,皆以用賢、賞罰為務。失國之主,其朝豈無貞干之臣,典誥之篇 哉?患得賢不用其謀,韜書不施其教,聞善不信其義,聽讒不審其理也。陛下自籓臣即 位,天人屬心,不急忠賢之禮而先左右之封,梁氏一門,宦者微孽,並帶無功之紱,裂 勞臣之土,其為乖濫,胡可勝言!夫有功不賞,為善失其望;奸回不詰,為惡肆其兇。 故陳資斧而人靡畏,班爵位而物無勸。苟遂斯道,豈伊傷政為亂而已,喪身亡國,可不 慎哉!」書奏,不省。
147年秋7月、渤海孝王・劉鴻が死んだ。子なし。梁太后は、桓帝の弟の蠡吾侯・劉悝に、渤海王につがせた。
梁冀は桓帝を立てたから、1万3千戸を増やす。弟の梁不疑を、穎陽侯とした。弟の梁蒙を西平侯とした。子の梁胤を、襄
邑侯とした。胡廣を安樂侯とした。趙戒を廚亭侯とした。袁湯を安國侯とした。中常侍の劉廣らを、みな列侯とした。
杜喬は、桓帝を批判した。梁冀一門や宦官を、亭侯にしてはいけないと。桓帝は、杜喬を省みず。
ぼくは思う。梁氏一門と宦官は、杜喬の言うとおり、分限を越えて亭侯になったのかも。悪者の絵として、分かりやすい。いっぽう、必ずしも史料で悪人に単純化されえていない、胡広と趙戒と袁湯ら、桓帝初期の三公に、注目すべきだ。おかしなバイアスをぬき、梁冀政権の政策が見えるかも知れない。袁湯伝(袁安伝のつづき)は、記述が過疎っている。見るなら、胡広伝と趙戒伝だろう。
147年8月乙未、梁氏を桓帝の皇后に立てた。
梁冀は、皇后の実家として、特典をもらいたい。杜喬が反対した。
梁冀は、汜宮を尚書にあげて、杜喬の部下にした。だが杜喬は、汜宮を用いない。汜宮がワイロするからだ。梁冀と杜喬は、日に日に対立した。
9月丁卯、京師は地震した。地震を理由に、杜喬は太尉を辞めさせられた。冬10月、司徒の趙戒を、太尉にした。司空の袁湯を、司徒にした。さきの太尉の胡広を、司空にした。
梁冀は自派を亭侯に封じ、三公に任じ、大盤振る舞いする。この行動の目的は、自派を強固にするため。桓帝が即位して数年は、桓帝派と劉蒜派が、現実味をおびて、対立したかも。劉蒜の脅威は、すぐ下の文に出てきます。
ところで、劉蒜の伝記がやたら少ないのは、梁冀が抹殺したからか。抹殺しなければならないくらい、脅威だったのでは?
宦官の唐衡は、左悺とともに、杜喬をそしった。「桓帝が即位する前、杜喬と李固は、桓帝は適任でないと言いました」と。桓帝は、また杜喬を怨んだ。
147年冬、劉氏たちが劉蒜を、皇帝に擁立
147年11月、清河の劉文と、南郡の妖賊・劉鮪は、通じて妄言した。「清河王・劉蒜が、天下を統べるぞ」と。劉文らは、清河相の謝暠をおどした。「劉蒜が天子になり、謝暠が三公になれ」と。謝暠は劉文に協力せず、劉文を罵った。劉文は謝暠を殺した。
劉文と劉鮪を、誅した。かつがれた劉蒜を連座させ、尉氏侯に貶めた。劉蒜は桂陽に徙され、自殺した。梁冀は梁太后に誣告した。「李固と杜喬は、劉文と劉鮪に通じていた。逮捕せよ」と。
ぼくは思う。劉鮪にだけ「妖賊」という形容があるのは、なぜか。劉文こそは、正しき血筋だと暗示するか。加えて、注目したい。劉蒜を担ごうとした2人とも、劉姓である。もしかして、桓帝を廃して劉蒜を立てることは、劉氏の社会?のなかで、一定量の支持を得ていたか。
桓帝の身分を保証するのは、梁冀だ。「桓帝も梁冀も、セットでつぶそう!」という勢力が出ても、おかしくない。桓帝は梁皇后を立てたが、これは梁冀に利益を与えるためであり、桓帝自身が保身するためでもある。足元がため。
とすると、杜喬や李固が、世直しを思い、劉蒜を立てたという「妄想」を立てても、あながちウソだと切り捨てられない。杜喬たちは、劉文や劉鮪のやり口に共感しなかったか、連絡に失敗するか。杜喬がオモテに出てこなかった理由は、こんなところ。
梁太后は、杜喬の忠を知る。
ぼくは思います。筆誅が二重に加えられると、超ややこしい。勝者Aが敗者Bをけなすのは、単純でよい。事実に近い姿は、Aの賞賛を割り引き、Bの悪口を割り引けばいい。シンプルです。単純です。
だが、その勝者Bが、あとで別のCに敗れると、史書が混乱する。敗者Bは、勝者Aに史料を抹殺されたから、Cの手元にろくな記録がない。しかしCは、Aを批判するために、Bを褒めたい。だからCはBに、内容のない抽象的な賞賛を付けるしかない。ぼやける。もはや歴史家は、Bの実態を復元できない。
Aは、初めになんで勝てたか分からないほど、Cに貶される。ただし。ここに言うAのように、褒めてから貶したパターンは、まだタチがいい。バイアスを割り引く作業が、やりやすいから。Cは、Aの豊富な賞賛記録を、改竄する。切り貼りの継ぎ目が、どうしても残る。史料批判で、復元しやすい。ありがたい。
147年に戻ってくると。Aは梁冀、Bは劉蒜、Cは桓帝が、当てはまる。
さらにCの桓帝は、魏晋南北朝の分裂期をつくった張本人として、史家に貶されることになる。二重にも三重にも、褒めると貶すが重ねられ、けっきょく何も、分からなくなる。劉備の評価についても、同じことが言えないか。貶して褒めて、をくり返して、輪郭がぼやけた。後日考えます。
太后は、杜喬を罰さず。
っていうか、『資治通鑑』の注釈になってない。ごめんなさい。梁冀を読んでいて、ぼくがこれを思いつきました、という記録になっています。
147年冬、梁冀が、李固と杜喬を殺す
梁冀は、李固を下獄した。李固の門生・渤海の王調が、李固の無実を証明した。河內の趙承ら数十人が、武装デモした。太后は李固を赦した。京師の人はみな、万歳した。
梁冀は驚き、李固の悪事を、文書で提出した。梁冀は、大將
軍長史の吳祐に、李固を殺せと命じた。吳祐は、梁冀の命令を聞かず。梁冀は怒った。從事中郎の馬融は、梁冀の文書をあずかる。呉祐は馬融に言った。「もし李固が殺されたら、馬融が作文したせいだ」と。梁冀は怒って、立ち去った。
李固は獄中で死んだ。李固は、胡広と趙戒に手紙した。「私が桓帝を選んだのは、梁冀をつけ上がらせるためでない。桓帝を、前漢の文帝や宣帝と同じにするためだ。胡広と趙戒は、梁冀とつるむのもいいが、漢室を滅ぼすな」と。
ぼくは思う。袁湯は、なぜ手紙をもらえなかったのか。胡広と趙戒に比べると、小粒だった? いいや。小粒の三公なんて、ありえない。じゃあ李固が袁湯に手紙しなかったのは、救いようもないほど、袁湯が梁冀に密着したからだ。「改心」する余地がないと、李固に見なされたからだ。ぼくの妄想ですが。
胡広と趙戒は、悲慚して流涕した。
冀暴固、喬屍於城北四衢,令:「有敢臨者加其罪。」固弟子汝南郭亮尚未冠,左 提章、鉞,右秉鈇鍎,詣厥上書,乞收固屍,不報;與南陽董班俱往臨哭,守喪不去。 夏門亭長呵之曰:「卿曹何等腐生!公犯詔書,欲干試有司乎!」亮曰:「義之所動, 豈知性命,何為以死相懼邪!」太后聞之,皆赦不誅。杜喬故掾陳留楊匡,號泣星行, 到雒陽,著故赤幘,托為夏門亭吏,守護屍喪,積十二日;都官從事執之以聞,太后赦 之。匡因詣厥上書,並乞李、杜二公骸骨,使得歸葬,太后許之。匡送喬喪還家,葬訖, 行服,遂與郭亮、董班皆隱匿,終身不仕。
梁冀は、杜喬を脅した。「自首すれば、妻子は赦してやる」と。杜喬は従わず。翌日、梁冀は騎兵をおくり、杜喬の門につけた。梁冀は、杜喬を獄死させた。
梁冀は、李固と杜喬の死体を、城北四衢にさらす。梁冀は「死体に近づいたら、有罪である」と命令した。
汝南の郭亮は、李固の死体を弔った。陳留の楊匡は、杜喬の死体を弔った。太后は、2人を赦した。
是歲,南單于兜樓儲死,伊陵屍逐就單于車兒立。
梁冀は、呉祐を河間相に飛ばした。呉祐は着任せず死んだ。
梁冀は、劉鮪が反したので、硃穆の発言を思い、人事異動した。種暠を從事中郎にした。欒巴を議郎にした。朱穆の高第にあげて、侍御史とした。
胡三省はいう。朱穆を、大将軍府の掾属にある高第にあげたのだ。
ぼくは思う。朱穆に連なる人材は、どこにルーツがあるのか。いま梁冀は、李固と杜喬を殺した。李固が余計な遺言をするから、趙戒と胡広は、梁冀と距離をとっただろう。袁湯はベッタリだろうが、袁湯だけじゃ足りない。今回、劉鮪(劉蒜)に対抗するための異動だから、根本的な方針転換はなさそうだが。
この147年、南単于の兜樓儲が死に、伊陵屍逐就單于の車兒が立つ。