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宦官コンプリート作戦 1)きっかけは和帝
『後漢書』の列伝68は「宦者列伝」です。ここを読むだけで、後漢を滅ぼした三つ巴の一角を網羅的に知ることができる!
なんておトクなんだ(笑) そういうわけで、やります!
宦官の経緯の解説から、列伝68は始まります。
漢が興ると、秦の制度をまねて、中常侍を設置した。はじめは士人(宦官ではない)が任じられた。呂太后が臨朝すると、宦官の張卿を大謁者として、寝室に出入りさせて、政治をした。男性の官人では、後宮に入れないからだ。宦官が権力を握るきっかけは、呂太后でした。
文帝と武帝のとき、寵愛された宦官が登場した。後宮や離宮に行ったとき、ひそかに宦官を呼んで、機密の相談をした。
元帝のとき、忠勤した黄門令が出たが、のちに侫険によって出世した宦官により、帝徳は穢された。

光武帝が中興したとき、内官には全て宦官を用いた。呂太后以来、ふらふらとしていた宦官の地位を固めたのは、光武帝だ。中興した人が滅亡の原因を作ったのだから、責められない。
永平年間(58-75年)に定員を置いた。中常侍は4人、小黄門は8人。
和帝は外戚の竇憲兄弟に苦しんだ。一緒にいるのは宦官だけだった。鄭衆が外戚を破り、封地をもらい、大長秋(宮卿の位)となった。宦官が盛んになったのは、これが初めてだ。
数日前に「梁統伝」を読んだんだが、外戚の地位を至尊に高めたのも、和帝でした。ただ幼くして即位した弱者というだけで、ここまで後世に害を遺せるものか(笑)和帝には亡国のセンスがある。

明帝以後、殤帝(106年)にいたるまで、宦官は任される仕事が増えた。中常侍は10人、小黄門は20人となり、九卿の仕事を兼ねた。
鄧太后は、「万機が殷遠なる」政治を行ったが、女性ゆえに宦官を使わざるを得なかった。官人は、鄧太后に会うことは出来なかった。宦官は、手には王者の権威を握り、口には王法を含み、ただ後宮の雑事をする立場ではなくなった。
孫程は順帝を立て、曹騰は桓帝を立て、五侯は桓帝の要請で梁冀を倒した。彼らは公正で、恩は皇帝の心に刻まれていたから、内外は服従し、上下は息をひそめた。伊尹と霍光の勲(いさおし)、張良と陳平の画(はかりごと)が現世に復活したようだった。
だが良いことばかりではない。
皇甫嵩や蔡邕は宦官に排斥された。宦官が挙動すれば、山と海が位置を変え、呼吸すると霜と露を変えた。宦官におもねれば三族が光寵を受け、直情で逆らえば三族が殺された。漢の綱紀は乱れた。

山高の冠に、長い剣を履き、朱色の衣で、金璽を懐に入れているような人が、宮中に溢れた。封地と割符を与えられ、諸侯となる人が10人以上いた。宦官の役所は、首都にも地方にもずらりと並び、宦官の子弟が州国の半分を仕切った。
「こんどは君の家の番だ。子を去勢せよ」
権力のある宦官にすり寄ろうとする人は、みな我が子を宦官として、自らは栄達した。国政は腐り、竇武や何進は位が高かったが、宦官に破れた。袁紹が根こそぎ天誅を加えたが、暴乱はすぐにでも再開しそうだった。
曹騰が梁冀を説得して、昏弱な桓帝を立てたせいで、漢は魏に禅譲を強いられることになった。曹氏の親子3代の影なる覇業だと『後漢書』は言うが、これは結果論だと思います。
鄭衆
あざなは季産。おいしい旬の果物のようだ。南陽郡の人。
慎重機敏で、なかなかの策士だった。永平年間(58-75年)に初めて皇太子に奉仕した。皇太子時代の章帝に仕えたのが鄭衆です。
章帝が即位すると、小黄門となり、中常侍に進んだ。
和帝の初め、鉤盾令となった。少府の官で、600石。宮廷の池や庭、遊観の管理をする。

ときに竇太后は、兄の竇憲とともに威権を窃み、みなが付き従っていた。しかし鄭衆は竇氏になびかなかった。和帝は、鄭衆を親信した。竇憲たちが不軌をなそうとしたので、鄭衆は討った。もっとドラマチックに書いてくれても良さそうだが、『後漢書』は簡潔すぎる。おそらく宮中の一瞬の出来事で、特に伝えることもなかったのだろう。
大長秋となり、つねに政治の相談を受けた。
「鄭衆の功は美であるなあ」
和帝は102年、鄭衆をソウ郷侯にした。食邑は1500戸。
107年、鄧皇后は、300戸を増した。
114年、鄭衆は死んだ。養子の鄭閎が継ぎ、さらに子の鄭安が継いで、国が絶えた。
桓帝の159年、鄭衆の曾孫の石讐に国を紹封(再建)させ、関内侯とした。この歳に桓帝は、宦官のおかげで梁冀を討った。だから遡って、鄭衆にお礼を言ったのでしょう。

和帝と、母の梁貴人と、継母の竇太后と竇憲と、宦官の鄭衆。彼ら4人がいれば、後漢の構図をほぼ説明できてしまうのではないか。

蔡倫
あざなは敬仲といい、桂陽郡の人。
永平(58-75年)末に初めて後宮に給仕し、建初(76-84)年間に小黄門となった。
和帝が即位すると中常侍となり、廟堂の政治に参加した。
蔡倫は才学があり、真面目で慎み深かった。天子の意向に逆らっても得失を説き、政治を助けた。皇帝に歯向かうことを「厳顔を犯す」というらしい。張飛もびっくりである。
休日は門を閉じて賓客とは会わず、野外で労働に励んだ。尚方令となった。
97年、秘剣や器械の製造を監督した。蔡倫が指導した器械は、精密で頑丈であり、ノウハウは後世に伝えられた。
文字は竹簡や絹に書いていた。竹は重いし絹は江夏だから、不便だった。105年に紙を献上し、「蔡侯紙」と呼ばれて珍重された。

竇太后にほのめかされ、蔡倫は、安帝の祖母・宋貴人を陥れた。
太后が亡くなり、安帝が親政をするようになった。
朕の祖母の仇敵は誰であったか」
安帝は廷尉を、蔡倫のところに寄越した。
蔡倫は辱めを受けたくなかったので、沐浴して服毒自殺した。龍亭侯の国は蔡倫の一代で除かれた。
孫程
あざなは稚卿、タク郡の人。
安帝のとき中黄門となり、長楽宮に仕えた。
済陰王を迎えて、順帝とした。浮陽侯で万戸を封じられた。このとき協力した宦官は、十九侯と呼ばれた。孫程は、騎都尉となった。
このときの模様は、細かい作戦の経緯まで『後漢書』に載っているので、手に汗を握るのだが、宮城谷さんがすでに描いたとおりだから、いちいち写さず、膨らませず。めちゃめちゃ省略してスルーです。

司隷校尉の虞詡は罪人でございます」
126年、孫程は上表を懐に入れて上殿した。
「君ら重臣は、バカばっかだ。虞詡を野放しにしていて」
孫程は叱りつけた。
順帝はこれに怒り、孫程を免官にした。十九侯は洛陽から追放され、任国に行った。別荘地からの収入を確保しつつ、洛陽で宮廷生活をやるから、「侯」は楽しいのだ。これでは台無しだ。
「仕事があるからオフは楽しい。ずっとオフとは退屈だ!」
孫程は任国に行くや、怨恨して怒り、印綬と符策を返還した。すなわち国を手放した。
「洛陽に帰るぞ」
そう言い残して、孫程は山中に行方を晦ました。
「どうか国に戻ってくれ。君は即位を助けてくれた功臣だ」
順帝は孫程に再び国を与えた。
「もう罰は充分だろう」
128年、順帝は孫程を洛陽に復帰させた。騎都尉となり、朝請(定期の朝会)に参加する権利を得た。
132年、孫程は病が重くなった。順帝はお見舞いとして、奉車都尉を与えて、特進(三公に次ぐ)とした。
死ぬと、五官中郎将として車騎将軍の印綬を追贈して、「剛侯」とおくり名した。皇帝は洛陽の北に出かけて、孫程の棺を見送った。

「死後は、国を弟の孫美に継がせたい」
これが孫程の遺言だったから、順帝は許した。国の半分を弟に与え、もう半分を孫程の養子・孫寿に与えた。のちに孫程の功を再評価し、高望亭侯となった。
135年、宦官の養子が、全ての封爵を相続できることになった。定めて令に記した。ということは、孫程は養子に継がせたかったが、ルール上は無理なので、弟で妥協したと分かる。少なくとも『後漢書』を作った人は、そういう文脈で話をしているね。

孫権と張昭を見ているようです。位を継ぐのを助けた頑固な年長者と、君主です。孫程が後の宦官のように腐っていかなかったのは、「宦官の地位確立がまだだから」というよりは、孫程があまり人を喜ばせるのに熱心じゃない性格だったからじゃなかろうか。
次回は、曹騰が登場します!
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このコンテンツの目次
>宦官コンプリート作戦
1)きっかけは和帝
2)曹騰と、正義派の呂強
3)霊帝の疵を映す明鏡
4)孟達の父親
5)三張の三角関係
6)誤解された霊帝