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宦官コンプリート作戦
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2)曹騰と、正義派の呂強
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曹騰
あざな季興、沛国譙県の人だ。曹操を紹介するときに出身地が述べられるが、曹騰のこの一説に由来するから、とても感動的なスタートだ。
安帝のとき黄門(宦官)の従官になった。 まだ順帝が東宮にあるとき、鄧太后が、
「まだ年少なのに謹厚な子だわ」
と見出して、皇太子の書に侍して(読書の相手役にして)、順帝から親愛された。
順帝が孫程に助けられて即位すると、曹騰は小黄門になり、中常侍に進んだ。宮城谷さんが曹騰と順帝の交流を描いていたが、『後漢書』にはそれがない。すなわち、あの部分は創作だったということが分かる。ここまで知って初めて、やっと凄さが分かるわけです。
桓帝が即位するのを助けたので、長楽太僕の州輔ら7人とともに、亭侯に封じられた。曹騰は費亭侯となり、大長秋に登りつめ、位は特進を加えられた。
曹騰は30余年、4代の皇帝に仕えたが、ただの一度も過失がなかった。曹騰が推薦した人材はみな海内の名人(名人物)であった。
陳留から虞放と辺ショウ(列伝70)、南陽の延固と張温や、弘農の張奐(列伝55)、頴川の堂ケイ典らである。
張奐は政治がからっきしダメな人で、敦煌出身。以前に当サイトで扱ったが、西方とのルート回復に燃えた。けっきょく宦官に騙されて、竇武と陳蕃を殺してしまう。彼はこれを悔やんだが、
「張奐は、宦官派らしいな。そもそも張奐を官界に招いたのは、大宦官の曹騰じゃねえか」
なんて陰口を叩かれたのだろう。辛かったね(笑)
蜀郡太守が、計吏(会計報告を行うために、地方から中央に出てくる)に持たせて、曹騰に賄賂を贈ろうとした。
「ややっ!不正の臭いがするぞ」
のちに諸葛亮が北伐する秦嶺山脈の道には、賄賂犬が放たれていて、麻薬捜査犬みたいに活躍している。道が険阻だから、まるで通関のようなものです。
益州刺史の种暠(列伝46)は、斜谷で曹騰に当てた書状を発見した。
「蜀郡太守と曹騰を、弾劾すべきだ」
廷尉に、曹騰の罪を咎めるように申請した。
ときの桓帝は、
「外から来た書状だろう、曹騰の咎ではない」
と判断した。まだ受け取ったわけではないから、この采配は間違っていない。しかし、賄賂が贈られてくるような土壌にまでメスを入れたら、もしかしたら何かが出たかもしれない。合理的な裁きと言うよりは、曹騰を守る裁きが政治的判断で為されたことになる。
ついに种暠は、奏上を取り下げた。
曹騰は繊介(こせこせしたこと)をしなかった。
「种暠さんは、能吏です、私はそう思います」
と、自分に罪を問うた人を称えた。当時の人は、曹騰の懐の大きさに感歎した。確かにすごい度量ではあるが、大宦官の余裕を、ぼくは感じる。
曹騰が死ぬと、養子の曹嵩が継いだ。
曹騰が死んだ歳は書かれていないから、曹騰と曹操が会ったのか分からず、これが三国ファンが熱心に視線を送っている問題だ。しかし、会わなかったという史料的な根拠がないというのは、絶対に覆らない結論であるから、想像して楽しむのはファンの自由だろう。
曹嵩は、『後漢書』では列伝64「袁紹伝」に収められる。曹操が袁紹の手下だったということは、この父の伝記の在り処からしても分かる。袁紹の家は、一族に中常侍の袁赦がいるほどで、宦官との結びつきに積極的な家だった。だから、袁紹が曹操と交流を持ってやったことは、不自然ではない。
袁紹は「家柄のおかげで領土を得た」とされるが、曹操もまた然りだ。 「遺産として膨大な財貨を得つつも、宦官の孫という負い目があった」というが、それは誤りだ。宦官の孫だからこそ、袁紹に可愛がってもらい、のちに袁紹を逆転するための河南4州を得たのだ。
脱線しましたが・・・
のちに种暠が司徒となると、賓客に告げた。
「私が三公になったのは、曹常侍の力だ」
益州刺史のとき、賄賂摘発犬を放っていたことを、曹騰が褒めてくれた。だから名声が高まって、三公に登ることができた。死人は追加要求してこないから、お礼の言い放題である(笑)
養子の曹嵩は、霊帝のときに宦官に賄賂を送り、西園に銭1億万を送り込み、大尉を購入した。
あれ?
种暠は、宦官に賄賂をわたす人を摘発し、名を成した。しかし養子の曹嵩がやっていることは、あのとき罰せられた蜀郡太守と同じだ。曹騰は「賄賂に与しない人だ」という清名を史書に残したが、その効果は1代限りであった。
それにしても、官位市場に1億万銭を入れただけでは、大尉になれなかったのが凄い。まず宦官に賄賂して、市場で買い物する権利を得なければならなかったのだね。取得にかかった経費も含めて計上すべきだから、大尉は1億万銭より高かったのだ。
子の曹操が兵を起こすとき、曹嵩は、相い従うことを肯んじなかった。すなわち、曹操が乱世に出ようとすることに反対だった。巻き込まれたくなかった。
曹操は、曹氏や夏侯氏の味方に恵まれて、初期を勝ち抜いた。しかし上の世代の血縁で、曹操に協力した人はいない。みな曹操の「従兄弟」だったり「族弟」だったり「族子」だったりだ。例えば『蒼天航路』では、みな曹操と同年代かそれ以下の人が、遊び仲間から主従へと変化していく。漫画ですが、一面の真理は示すはず。
一族の年長者と言えば・・・曹操が仮病で叔父を欺いたという話だけしか思い出せないくらい、過疎がひどい。あれも実話かどうか分からんのだが。項羽に叔父がいたように、誰かが落ちついたアドバイスをしてくれれば良かったのに。
「父上、兵を挙げて董卓を討ちます」
「やめておけ」
「いいえ」
「そうか、そう言えば末の息子が病気なんだよ。瑯邪にでも行くよ」
「ご勝手に。しかし資金的援助はお忘れなく」
「う・・・」
このときは「少子の疾」が理由になったそうだが、これは曹操の弟か妹だ。曹操は心配じゃなかったのかなあ。 曹操の兄弟がちっとも活躍しないのが、ぼくには不思議だ。曹操が実家と決裂していたからか。曹操の系図はいまいち不明で、「同世代の同族」という武将は多いのに、曹操との具体的な繋がりが分からない。曹操の親戚づきあいは遠交近攻で、自分に近づいた系図の線は攻め滅ぼして消してしまうようだ。
曹操という厄介者から、養育費(手切れ金)をしこたま奪われることで距離を置いた曹嵩。徐州刺史の陶謙に殺されましたとさ。
呂強
あざなは漢盛という。さっそく「国のために働くぞ」的な香りのするあざなです。彼は異質なのです。まるで官人みたいな行動をします。
河南郡の人。
少年のときに宦官となり、小黄門となり、中常侍に進んだ。人となりは清忠で、国家のために尽した。『後漢書』にそう書いてあるから、そう引用しているんだが、こんな儒教が賛美しそうな人格の人が、宦官というのが意外。きっと悲劇の少年時代があったんだ。
「おい強よ、手術をしよう」
「イヤだ!ぼくは清流の役人になるんだ」
「うちみたいな貧乏な家から、どうして役人が出るというんだい。いいかい、家族を食わすためなんだ」
「イヤだよ!」
「お医者にかかるお金もないから、手術は父さんがやるよ」
「ぎゃああああ!」
宦官にされてしまったが、呂強は国家に奉じる心は已まず、宦官として内から世を正そうと誓ったんだろう。
霊帝のとき、宦官を優遇する慣例から、呂強は都郷侯に封じられた。桓帝が宦官の侯を大量生産してから、まるで蛇口が閉まらなくなっている。
「まだ私は何もしていません。功のない人を、宦官という理由だけで侯にするのは、良くありません」
懇ろに辞退をくり返し、固く拒絶した。霊帝は、これを許した。
謙虚心から、呂強がこんなことを言ったのではないだろう。国の政策について、身をもって修正を促したのだ。「もらえるものは、もらっておこう」という発想では、呂強のようにはなれない(笑)
呂強は上疏した。 こうやって上訴したのが、内容を読む前から、まず驚きだ。これまでの「宦者列伝」で初めてのことです。なんとなれば、宦官は皇帝の近辺をウロウロしているんだから、意見があれば、いつでも言える。しかし敢えて上疏というスタイルを選んだのは、公式な提案として扱われたかったんだろう。
呂強にとって見返りとなるか分からないが、こうして後世のぼくたちが彼の意見を、ずらっと読むことができる。
次回は、呂強の上疏からです。
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このコンテンツの目次
>宦官コンプリート作戦
1)きっかけは和帝
2)曹騰と、正義派の呂強
3)霊帝の疵を映す明鏡
4)孟達の父親
5)三張の三角関係
6)誤解された霊帝
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