186年、傅燮と、車騎将軍の趙忠
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
186年春、車騎の趙忠が、傅燮をはばかる
太尉張延罷。遣使者持節就長安拜張溫為太尉。三公在外始於溫。
186年春2月、江夏の兵・趙慈が反した。南陽太守の秦頡を殺した。
2月庚戌、天下を赦した。
太尉の張延をやめた。使者に持節して長安にゆかせ、張溫を太尉とした。三公在外は、張温にはじまる。
中常侍の趙忠を、車騎將軍とした。霊帝は、趙忠が黄巾を討った功績を論じた。
執金吾の甄舉は、趙忠に言った。「傅燮は、東軍で功績があったが、侯でない。天下は、失望した。あなた(趙忠)は、理屈をわきまえ、世論にしたがえ」と。趙忠は、甄舉をみとめた。
弟の城門校尉・趙延は、傅燮を殷勤に迎えた。趙延は、傅燮に言った。「傅燮は、趙忠の口ぞえがなければ、1万戸ももらえない」と。傅燮は、趙延にことわる。「功績があっても、褒賞がないのは、天命だ。私は、趙忠に賞されたくない」と。趙忠は、傅燮を恨んだ。だが趙忠は、傅燮の名声にはばかり、傅燮を殺せない。
傅燮は中央をでて、漢陽太守となった。
186年夏、荊州刺史の王敏が、趙慈を斬る
霊帝は、鉤盾令の宋典に、南宮の玉堂を繕修させた。掖庭令の畢嵐に、4つの銅人と、4つの鐘を、鋳造させた。どちらも、2千斛を受けた。その他、おおくを建築した。ありものの施設を流用して、節約した。
186年5月壬辰みそか、日食した。
6月、荊州刺史の王敏は、趙慈を斬った。車騎將軍の趙忠をやめた。
186年冬10月、武陵蠻が反した。郡の兵が、蛮をやぶる。 さきの太尉の張廷は、宦官にそしられて獄死した。 12月、鮮卑が幽州と并州を寇した。張温を、京師にもどした。101215