111年-114年、羌族が内地に迫る
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
111年春、羌族が河内にきて、後漢が疎開
春,正月,庚辰朔,日有食之。 丙戌,郡國十地震。 己丑,太尉張禹免。甲申,以光祿勳穎川李修為太尉。
先零羌寇河東,至河內,百姓相驚,多南奔渡河,使北軍中候硃寵將五營士屯孟津, 詔魏郡、趙國、常山、中山繕作塢候六百一十六所。羌既轉盛,而緣邊二千石、令、長 多內郡人,並無守戰意,皆爭上徙郡縣以避寇難。
111年春正月庚辰ついたち、日食した。正月丙戌、郡國10で地震あり。
正月己丑、太尉の張禹を免じた。正月甲申、光祿勳する穎川の李修を太尉とした。
先零羌は、河東を寇し、河内にくる。百姓は驚き、南へ黄河をわたる。
北軍中候の硃寵は、五營の士をひきい、孟津に屯した。魏郡、趙國、常山、中山で、616の塢候を修繕させた。後漢の地方官は、羌族を防ぐ意欲がなく、あらそって避難した。
夫餘王寇樂浪。 高句驪王宮與濊貊寇玄菟。
111年3月、隴西は襄武に、安定は美陽に、北地は池陽に、上郡は衙県に、郡治をうつす。土地にしがみつく百姓を、追い立てた。穀物を刈り、家屋を壊して追い立てた。イナゴがあり、道中でみな死んだ。生き残るため、老弱を棄て、ひとの僕妾となった。大半が、死んだ。
ふたたび任尚を侍御史とし、上黨の羊頭山で、羌族を破った。孟津の屯をやめた。
夫餘王が、樂浪を寇した。
高句驪王と、濊貊が、玄菟を寇した。
111年、青州を平定、漢陽で羌族に内通
秋,九月,漢陽人杜琦及弟季貢、同郡王信等與羌通謀,聚眾據上邽城。冬,十二 月,漢陽太守趙博遣客杜習刺殺琦;封習討奸侯。杜季貢、王信等將其眾據樗泉營。 是歲,九州蝗,郡國八雨水。
111年夏閏4月丁酉、涼州と河西4郡を、赦した。
海賊の張伯路は、ふたたび東萊を寇した。青州刺史の法雄は、海賊を撃破した。賊は遼東に逃げたが、遼東の人・李久らが、海賊を斬った。青州は、清靜となる。
111年秋9月、漢陽の杜琦と、弟の杜季貢は、同郡の王信らと、羌族に通謀した。上邽城にこもる。冬12月、漢陽太守の趙博は、客の杜習をおくり、杜琦を殺した。杜習を討奸侯に封じた。弟の杜季貢と、王信らは、樗泉營にこもる。
この111年、9州でイナゴ。郡國8で、雨水あり。
112年、天子を名のる羌族・滇零が死ぬ
112年春正月甲寅、鄧太后は詔した。「育ちきった穀物を、そなえよ」と。23種のそなえ物をはぶいた。3月、10州でイナゴ。
侍御史唐喜討漢陽賊王信,破斬之。杜季貢亡,從滇零。是歲,滇零死,子零昌立, 年尚少,同種狼莫為其計策,以季貢為將軍,別居丁奚城。
112年夏4月乙丑、司空の張敏をやめた。4月己卯、太常の劉愷を司空とした。鄧太后は詔して、建武の元功28將を、みな子孫につがせて封じた。
112年5月、日照。
5月丙寅、2年前からの減給をやめて、もとに戻した。6月壬辰、豫章の員谿で、原山が崩れた。6月辛巳、天下を赦した。
侍御史の唐喜は、漢陽の賊・王信を斬った。杜季貢は逃げて、滇零に従う。この112年、滇零が死に、子の零昌がたつ。零昌がおさないから、同種の狼莫が、計策する。羌族は、漢人の杜季貢を將軍として、丁奚城(北地)におく。
113年、平原王の劉勝(殤帝の兄)が死ぬ
113年春2月丙午、郡國18で地震あり。
夏4月乙未、平原懷王の劉勝が薨じた。子なし。鄧太后は、樂安夷王の劉寵の子・劉得を、平原王とした。
べつにぼくは、天人相感を信じないが。鄧太后が、和帝の皇子を殺しまくったから、後漢の国運が傾いたように見える。べつに、少子の血筋じゃないんだ。光武帝の家は。
4月丙申みそか、日食した。
113年秋、護羌校尉の侯霸と、騎都尉の馬賢は、先零の別部・牢羌を、安定で撃った。1千の首級をとる。イナゴ。
114年、武都、漢中、巴郡で、板楯蛮が羌族を防ぐ
春,正月,甲子,改元。 二月,乙卯,日南地坼,長百餘里。
三月,癸亥,日有食之。 詔遣兵屯河內通谷沖要三十三所,皆為塢壁,設鳴鼓,以備羌寇。 夏,四月,丁酉,赦天下。 京師及郡國五旱,蝗。 五月,先零羌寇雍城。
114年春正月甲子、元初と改元した。
114年2月乙卯、日南の地は、坼長が百餘里だ。3月癸亥、日食した。
河內に33の塢壁をつくり、鳴鼓をもうけ、羌寇に備えた。
114年夏4月丁酉、天下を赦した。京師および郡國5で、日照とイナゴ。5月、先零羌は、雍城(扶風)を寇した。
冬,十月,戊子朔,日有食之。 涼州刺史皮楊擊羌於狄道,大敗,死者八百餘人。 是歲,郡國十五地震。
114年秋7月、蜀郡の夷が、蠶陵(蜀郡)を寇した。県令を殺した。9月乙丑、太尉の李修をやめた。
羌族の號多は、武都、漢中、巴郡を寇した。板楯蠻は、3郡を救う。漢中の五官掾・程信は、郡兵をひきい、板楯蛮とともに羌族を破った。羌族の號多は逃げ、零昌と合わさる。侯霸と馬賢は、枹罕で號多を破った。
9月辛未、大司農する山陽の司馬苞は、太尉となる。
114年冬10月戊子ついたち、日食あり。涼州刺史の皮楊は、羌族に狄道で破れ、8百余人を死なせた。この114年、郡國15で地震した。101228