158年、桓帝と陳亀VS梁冀と張奐と種暠
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
158年、日食は梁冀のせいである
冬,十月,帝校獵廣成,遂幸上林苑。
158年夏5月甲戊みそか、日食した。太史令の陳授は、小黃門の徐璜に言う。「日食は、梁冀のせいだ」と。梁冀は、洛陽令に吹きこみ、陳授を獄死させた。桓帝は、梁冀に怒った。京師でイナゴ。
六月戊寅、天下を赦した。延熹と改元した。雨乞した。
158年秋7月甲子、太尉の黃瓊を免じた。太常の胡廣を、太尉とした。
158年冬10月、桓帝は廣成に校猟した。上林苑にいたる。
ぼくは思う。桓帝は、なんで校猟をしているのかな。狩猟は、軍事演習である。梁冀を討伐する準備ではないか。もっとも、ただのスポーツかもだが。
158年12月、度遼将軍の陳亀が、辺境を改善
158年12月、南匈奴の諸部が叛した。南匈奴は、烏桓や鮮卑とともに、辺境の9郡を寇した。桓帝は、京兆尹の陳龜を、度遼將軍とした。陳亀は出陣するとき、上疏した。
ぼくは補う。すみません。『考異』の意味が分かりません。
「非常時には、適任者が就くべき。私は文武の才がないのに、度遼将軍になった。いま西州の国土は、うすい。西州の人民は、危険にあう。ここ数年、并州は大雨とズイムシだ。
桓帝が中興する仕事は、光武帝をつぐものだ。だが現在の地方官は、中央官が出張して就いており、中央の意向にビクビクするだけだ。地方官は、無難に勤務するだけ。これでは、異民族の進攻をまねく。
さきの涼州刺史の祝良は、中央に気がねせず、不正をあばいた。涼州にいる太守や令長を、半分も罰した。祝良は、護匈奴中郎将、護烏桓校尉、護羌校尉に、法令を叩きこんだ。
并州と涼州も、改革が必要である。1年、免税せよ。辺境をうまく治めれば、異民族の騎馬が、進入してくる心配はないだろう」と。
桓帝は、陳亀をみとめた。幽州と并州の刺史を、代えた。軍営や太守や都尉より以下、おおくの人材を代えた。陳亀に命じ、并州と涼州の租税を、吏民に与えた。陳亀が、度遼将軍に着任した。州郡は、歓迎した。節約して、1年で億をたくわえた。
対する梁冀は、清濁を併せ呑んで、現状に柔軟に適応する。梁冀を「貪汚」に描くのはカンタンだが、それだけじゃないのだ。むしろ、理想に燃える桓帝のほうが、変化に弱い。
以前に桓帝紀を読んだとき、桓帝は理想に燃えていた。国庫の採算を度外視して、飢民に施してしまう。反動で、霊帝が蓄財に走る。これは、もっと先の話。
ご参考:『後漢書』本紀7、桓帝とは何者か
158年、張奐が烏桓と結び、南匈奴を破る
安定屬國都尉の張奐を、北中郎將とした。張奐に、匈奴や烏桓らを、討たせる。匈奴と烏桓は、度遼將軍・陳亀の軍門を焼いた。
賢はいう。度遼将軍は、五原に屯する。
度遼将軍の軍門が燃えたので、張奐の兵は、逃げそう。だが張奐は帷中に座り、まったく動じない。兵たちは落ち着いた。
張奐は、ひそかに烏桓と和通した。張奐は烏桓に、匈奴の渠帥たちを殺させた。諸胡は、みな張奐に降った。張奐は、南単于に統治能力がないので、左谷蠡王を南單于とした。
桓帝は詔した。「《春秋》がいう大居正によれば。車兒は、後漢の教化を理解した。なんの罪で、車兒を単于から降ろしたか。車兒に、南匈奴の領土を返還せよ」と。
車兒は、桓帝が即位した建和元年に、同じ年に、単于になった。後漢に従った。ぼくは補う。車兒と桓帝が、おなじ年に君主になったから、『春秋』居正を持ち出したのか。記述が符合したとか。
同年のよしみか、桓帝は、張奐が単于に選んだ左谷蠡王をやめて、車兒を南単于に立てた。
袁紀はいう。元康元年4月、中郎将の張奐は、車兒に統治能力がないから、左谷蠡王の都紺を単于とした。桓帝はゆるさずと。范曄の匈奴殿伝では、延熹元年だ。『資治通鑑』は、范曄に従う。
158年、度遼将軍を、陳亀から種暠へ
梁冀は、陳亀と仲がわるい。陳亀の功績を、横取&独占したい。梁冀は、陳亀を中央にもどし、種暠を度遼将軍にした。陳亀は引退したいが、ふたたび尚書に召された。陳亀は、桓帝に言った。「梁冀の暴虐は、日に日にひどい。梁冀を殺したい」と。桓帝は、ゆるさず。
陳亀は、梁冀に殺されると悟った。陳亀は7日食べず、死んだ。
いま梁冀に推薦されたのは、種暠。次の文で見ますが。種暠は、すぐれた政治家である。「梁冀が善人を推挙した」となる。『後漢書』が梁冀に貼ったレッテルから、逸脱する。『後漢書』種暠伝が、梁冀と種暠のつながりを、強調していない(あわよくば、わざと薄めている)と、おもしろい。
まえに冀州刺史となった朱穆も、すぐれた政治家だった。梁冀の人脈は、べつに腐っていない。司馬光が隠せないほど、優秀だ。
種暠は、度遼将軍になった。さきに恩信をのべ、諸胡が服さないと、あとから討伐した。
羌族の人質を、種暠はすべて返した。すべて羌胡は、種暠に服した。種暠が去るとき、烽燧で見送られた。種暠は、大司農となった。
このページで張奐は、南単于の人事を、桓帝に覆された。張奐も、異民族と調和する系の政治家である。梁冀の人脈だろうか。っていうか、張奐を推挙したのは、曹騰だ。曹騰と梁冀は、盟友である。梁冀と張奐が、共通した方針を持つことは、不自然でない。なにか、つながりが見えてきたかも。幻かなあ。笑