表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

220年、禅譲を境に、曹丕が豹変する

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

220年春正月、曹丕が魏王となる

春,正月,武王至洛陽;庚子,薨。王知人善察,難眩以偽。識拔奇才,不拘微賤, 隨能任使,皆獲其用。與敵對陳,意思安閒,如不欲戰然;及至決機乘勝,氣勢盈溢。 勳勞宜賞,不吝千金;無功望施,分豪不與。用法峻急,有犯必戮,或對之流涕,然終 無所赦。雅性節儉,不好華麗。故能芟刈群雄,幾平海內。

220年春正月、曹操は洛陽にきた。正月庚子、曹操は死んだ。曹操は、すごい人だった。中原を平定した。

ほめ言葉が、いっぱい並んでる。出典どこから?


是時太子在鄴,軍中騷動。 群僚欲秘不發喪,諫議大夫賈逵以為事不可秘,乃發喪。或言宜諸城守,悉用譙、沛人。 魏郡太守廣陵徐宣厲聲曰:「今者遠近一統,人懷效節,何必專任譙、沛以沮宿衛者之 心!」乃止。青州兵擅擊鼓相引去,眾人以為宜禁止之,不從者討之。賈逵曰:「不 可。」為作長檄,令所在給其稟食。鄢陵侯彰從長安來赴,問逵先王璽綬所在,逵正色 曰:「國有儲副,先王璽綬非君侯所宜問也。」

曹操が死んだとき、曹丕は鄴にいた。郡臣は、曹操の死を隠そうとした。だが諌議大夫の賈逵は、喪を発した。
ある人が言った。
「諸城の太守には、(曹操とおなじ)譙や沛の人ばかりが、任命されている」
魏郡太守をつとめる広陵の徐宣は、声をはげまして、これを否定した。

徐宣の話、なぜ曹操の死のタイミングで、載ってるの?
【追記】誤訳をGolden_hamster氏に、ご指摘いただきました。ありがとうございました。(引用はじめ) 「曹操が死んで情勢不穏だから信頼のおける譙や沛の人間を太守にすべし」→徐宣「そんな必要ないよ」」っていう話ですよね。(引用おわり)

青州の黄巾兵は、鼓をうって、去った。黄巾兵をさまたげた人は、黄巾兵に討たれた。賈逵は「黄巾をつなぎ留めることは、できない」と言った。賈逵は、黄巾に食糧をあたえた。
鄢陵侯の曹彰は、長安から駆けつけた。曹彰は賈逵に、魏王の璽綬のありかを聞いた。賈逵は「曹彰には、関係ない」と突っぱねた。

兇問至鄴,太子號哭不已。 中庶子司馬 孚諫曰:「君王晏駕,天下恃殿下為命。當上為宗廟,下為萬國,奈何效匹夫孝也!」 太子良久乃止,曰:「卿言是也。」時群臣初聞王薨,相聚哭,無復行列。孚厲聲於朝 曰:「今君王違世,天下震動,當早拜嗣君,以鎮萬國,而但哭邪!」乃罷群臣,備禁 衛,治喪事。孚,懿之弟也。群臣以為太子即位,當須詔命。尚書陳矯曰:「王薨於外, 天下惶懼。太子宜割哀即位,以系遠近之望。且又愛子在側,彼此生變,則社稷危也。」 即具官備禮,一日皆辦。明旦,以王后令,策太子即王位,大赦。漢帝尋遣御史大夫華 歆奉策詔,授太子丞相印、綬,魏王璽、綬,領冀州牧。
於是尊王后曰王太后。改元延康。

曹丕は、曹操の死を知ると、泣きつづけた。中庶子の司馬孚は、曹丕をいさめた。「曹丕さん、泣いている場合ではない」と。曹丕は、泣きやんだ。司馬孚は声をはげまし、朝臣たちを仕切った。司馬孚は、司馬懿の弟である。
尚書の陳矯が、曹丕を魏王にせよと言った。
翌日朝、魏王后(卞氏)の命令により、曹丕は魏王になった。大赦した。後漢の献帝は、御史大夫の華 歆に詔を持たせ、曹丕に、魏王の璽綬と冀州牧をつがせた。
魏王后を、魏王太后とした。延康と改元した。

220年2月、

二月,丁未朔,日有食之。 壬戌,以太中大夫賈詡為太尉,御史大夫華歆為相國,大理王朗為御史大夫。 丁卯,葬武王於高陵。
王弟鄢陵侯彰等皆就國。臨菑臨國謁者灌均,希指奏:「臨菑侯植醉酒悖慢,劫脅 使者。」王貶植為安鄉侯,誅右刺奸掾沛國丁儀及弟黃門侍郎廙並其男口,皆植之黨也。

220年2月丁未ついたち、日食した。
2月壬戌、太中大夫の賈詡を、太尉とした。御史大夫の華歆を、相國とした。大理の王朗を、御史大夫とした。2月丁卯、曹操を高陵に葬った。
曹丕の弟・曹彰たちは、みな任国にかえった。臨菑の臨國謁者をつとめる灌均は、曹植の生活態度をチクった。曹植は、安郷侯におとされた。右刺奸掾をつとめる沛國の丁儀と、丁儀の弟で、黃門侍郎をつとめる丁廙と、その男子たちは、殺された。丁氏は、曹植の与党である。

ここで、魚豢がなんか言っていますが、べつのところで翻訳済。


初置散騎常侍、侍郎各四人。其宦人為官者不得過諸署令。為金策,藏之石室。時 當選侍中、常侍,王左右舊人諷主者,便欲就用,不調餘人。司馬孚曰:「今嗣王新立, 當進用海內英賢,如何欲因際會,自相薦舉邪!官失其任,得者亦不足貴也。」遂他選。
尚書陳群,以天朝選用不盡人才,乃立九品官人之法;州郡皆置中正以定其選,擇 州郡之賢有識鑒者為之,區別人物,第其高下。

はじめ、散騎常侍と侍郎を、4人ずつ置いた。宦官は、諸署令より上位には、昇れなかった。ときに侍中や常侍を選ぶとき、新しい人材を採用する道がせまかった。司馬孚が、ひろく人材を集めるように提案した。
尚書の陳羣は、九品官人之法をつくった。州郡に中正をおいた。地域の人物を、査定した。

220年夏5月、涼州の反乱、郝昭と張恭が平定

夏,五月,戊寅,漢帝追尊王祖太尉曰太王,夫人丁氏曰太王后。
王以安定太守鄒岐為涼州刺史,西平□演結旁郡作亂以拒岐。張掖張進執太守杜通, 酒泉黃華不受太守辛機,皆自稱太守以應演。武威三種胡復叛。武威太守毋丘興告急於 金城太守、護羌校尉扶風蘇則,則將救之,郡人皆以為賊勢方盛,宜須大軍。

220年夏5月戊寅、献帝は、曹操の父を太王に、曹操の母を太王后にした。
曹丕は、安定太守の鄒岐を、涼州太守とした。西平の麹演が、鄒岐をこばんだ。張掖の張進は、張掖太守の杜通をとらえた。酒泉の黄華は、酒泉太守の辛機を受けいれず、みずから酒泉太守を名のった。張進と黄華は、麹演に応じた。
武威郡で、三種の胡族が叛いた。武威太守の毋丘興は、金城太守で護羌校尉をつとめる扶風の蘇則に、救いをもとめた。

時將軍郝 昭、魏平先屯金城,受詔不得西度。則乃見郡中大吏及昭等謀曰:「今賊雖盛,然皆新 合,或有脅從,未必同心。因釁擊之,善惡必離,離而歸我,我增而彼損矣。既獲益眾 之實,且有倍氣之勢,率以進討,破之必矣。若待大軍,曠日彌久,善人無歸,必合於 惡,善惡就合,勢難卒離。雖有詔命,違而合權,專之可也。」昭等從之,乃發兵救武 威,降其三種胡,與毋丘興擊張進於張掖。□演聞之,將步騎三千迎則,辭來助軍,實 欲為變,則誘而斬之,出以徇軍,其黨皆散走。則遂與諸軍圍張掖,破之,斬進。黃華 懼,乞降,河西平。

郝昭が、涼州を平定した。

以前、このサイトでやりました。以下参照。
小説『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を、史料と照合する


初,敦煌太守馬艾卒官,郡人推功曹張恭行長史事;恭遣其子就詣 朝廷請太守。會黃華、張進叛,欲與敦煌並勢,執就,劫以白刃。就終不回,私與恭疏 曰:「大人率厲敦煌,忠義顯然,豈以就在困厄之中而替之哉!令大軍垂至,但當促兵 以掎之耳。願不以下流之愛,使就有恨於黃壤也。」恭即引兵攻酒泉,別遣鐵騎二百及 官屬,緣酒泉北塞,東迎太守尹奉。黃華欲救張進,而西顧恭兵,恐擊其後,故不得往 而降。就卒平安,奉得之郡,詔賜恭爵關內侯。

はじめ、敦煌太守の馬艾は、在官のまま死んだ。敦煌郡の人は、功曹の張恭を推して、長史の仕事を代行させた。張恭は、わが子を朝廷に送り、敦煌太守にしてくれと頼んだ。たまたま黄華と張進が叛き、張恭の子は殺された。
張恭は、黄華と張進の討伐に協力した。曹丕は、張恭を敦煌太守として、關內侯の爵位をたまわった。

敦煌太守は、いつかまとめて、書かねばならん。


220年秋、孫権、孟達、氐王が帰順する

六月,康午,王引軍南巡。
秋,七月,孫權遣使奉獻。
蜀將軍孟達屯上庸,與副軍中郎將劉封不協;封侵陵之,達率部曲四千餘家來降。 達有容止才觀,王甚器愛之,引與同輦,以達為散騎常侍、建武將軍,封平陽亭侯。合 房陵、上庸、西城三郡為新城,以達領新城太守,委以西南之任。

220年6月康午、曹丕は南をめぐった。
220年秋7月、孫権は曹丕に、奉献の使者をだした。

曹丕が魏王になってから、魏帝になるのは、すぐでない。そして孫権は、曹操の晩年とおなじく、一貫して曹丕に臣従している。

蜀の将軍・孟達は、上庸に屯する。孟達は、副軍中郎將の劉封と、仲がわるい。孟達は、4千余家をひきいて、曹丕に降った。曹丕は孟達を愛し、散騎常侍、建武將軍とした。房陵、上庸、西城の3郡から寄せあつめ、新城郡をつくった。孟達を新城太守として、西南の任(蜀漢の対策)を任せた。

孫権がくだり、孟達がくだり。曹丕は、順調である。魏諷と関羽による危機を、ぶじに乗り越えた余韻である。


行軍長史劉曄曰: 「達有苟得之心,而恃才好術,必不能感恩懷義。新城與孫、劉接連,若有變態,為國 生患。」王不聽。遣征南將軍夏侯尚、右將軍徐晃與達共襲劉封。上庸太守申耽叛封來 降,封破,走還成都。初,封本羅侯寇氏之子,漢中王初至荊州,以未有繼嗣,養之為 子。諸葛亮慮封剛猛,易世之後,終難制御,勸漢中王因此際除之;遂賜封死。

行軍長史の劉曄は、孟達に呉蜀をつなぐ要所を任せることに、反対した。曹丕は劉曄を却下し、孟達に新城を任せつづけた。
征南将軍の夏侯尚と、右将軍の徐晃は、孟達とともに、劉封を襲った。上庸太守の申耽は、劉封に叛いて、劉封を破った。劉封は、成都に逃げた。劉封は、劉備に殺された。

武都氐王楊僕率種人內附。
甲午,王次於譙,大饗六軍及譙父老於邑東,設伎樂百戲,吏民上壽,日夕而罷。
王以丞相祭酒賈逵為豫州刺史。是時天下初定,刺史多不能攝郡。逵曰:「州本以 六條詔書察二千石以下,故其狀皆言嚴能鷹揚,有督察之才,不言安靜寬仁,有愷悌之 德也。今長吏慢法,盜賊公行,州知而不糾,天下復何取正乎!」其二千石以下,阿縱 不如法者,皆舉奏免之。外修軍旅,內治民事,興陂田,通運渠,吏民稱之。王曰: 「逵真刺史矣。」佈告天下,當以豫州為法;賜逵爵關內侯。
左中郎將李伏、太史丞許芝表言:「魏當代漢,見於圖緯,其事眾甚。」群臣因上 表勸王順天人之望,王不許。

武都にいる氐王の楊僕は、種族をひきいて、曹丕についた。
7月甲午、曹丕は譙にきた。6軍と地元の父老と、昼夜ずっと宴会した。
丞相祭酒の賈逵は、豫州刺史となった。賈逵は、地方官の仕事ぶりを、ひきしめた。曹丕は「賈逵こそ、まことの刺史だ」とほめた。賈逵が豫州をひきしめた方法が、横展開された。賈逵は、関内侯になった。

豫州や揚州の地方官に、興味を持ち始めました。賈逵とか満寵、王淩とか。曹休も。そのうち、シリーズものにして、列伝をやります。

左中郎將の李伏と、太史丞の許芝は、「圖緯が、漢魏革命をあらわしてます」と上表した。曹丕は、革命をゆるさなかった。

220年冬、曹丕が皇帝・裸の王様になる

冬,十月,乙卯,漢帝告祠高廟,使行御史大夫張音持節 奉璽綬詔冊,禪位於魏。王三上書辭讓,乃為壇於繁陽,辛未,升壇受璽綬,即皇帝位, 燎祭天地、岳瀆,改元,大赦。

220年冬10月乙卯、行御史大夫の張音が璽綬をはこび、漢魏革命をした。曹丕は3回ことわり、禅譲をうけた。10月辛未、曹丕は皇帝となった。

十一月,癸酉,奉漢帝為山陽公,行漢正朔,用天子禮 樂;封公四子為列侯。追尊太王曰太皇帝;武王曰武皇帝,廟號太祖;尊王太后曰皇太 後。以漢諸侯王為崇德侯,列侯為關中侯。群臣封爵、增位各有差。
改相國為司徒,御 史大夫為司空。山陽公奉二女以嬪於魏。帝欲改正朔,侍中辛毘曰:「魏氏遵舜、禹之 統,應天順民;至於湯、武,以戰伐定天下,乃改正朔。孔子曰:『行夏之時,』《左 氏傳》曰:『夏數為得天正,』何必期於相反!」帝善而從之。時群臣並頌魏德,多抑 損前朝;散騎常侍衛臻獨明禪授之義,稱揚漢美。帝數目臻曰:「天下之珍,當與山陽 共之。」帝欲追封太后父、母,尚書陳群奏曰:「陛下以聖德應運受命,創業革制,當 永為後式。案典籍之文,無婦人分土命爵之制。在禮典,婦因夫爵。秦違古法,漢氏因 之,非先王之令典也。」帝曰:「此議是也,其勿施行。」仍著定製,藏之台閣。

220年11月癸酉、献帝は山陽公となった。劉氏の王を、侯におとした。相国を司徒、御史大夫を司空とした。
曹丕は、暦の改正を考えた。侍中の辛毗が意見した。
散騎常侍の衛臻だけは、漢室をほめた。曹丕は衛臻を、山陽公に仕えさせてやった。
曹丕は、太后の父母(母方の祖父母)に、尊号を与えようと考えた。尚書の陳羣が、反対した。曹丕は、あきらめた。

十二月,初營洛陽宮。戊午,帝如洛陽。
帝謂侍中蘇則曰:「前破酒泉、張掖,西域通使敦煌,獻徑寸大珠,可復求市益得 不?」則對曰:「若陛下化洽中國,德流沙幕,即不求自至。求而得之,不足貴也。」 帝嘿然。

220年12月、洛陽に宮殿をつくった。12月戊午、曹丕は洛陽にきた。
曹丕は、侍中の蘇則にきいた。
「今年、酒泉郡と張掖郡をやぶり、西は敦煌につうじた。宝石を西域から取り寄せたいのだが、どうかな」
蘇則は、こたえた。
「曹丕さまの徳が西域に行きわたれば、わざわざ取り寄せなくても、おのずと宝石がやってくるでしょう」

言うまでもない。曹丕の徳は、西域にとどいていませんよ、と。


帝召東中郎將蔣濟為散騎常侍。時有詔賜征南將軍夏侯尚曰:「卿腹心重將,特當 任使,作威作福,殺人活人。」尚以示濟。濟至,帝問以所聞見,對曰:「未有他善, 但見亡國之語耳。」帝忿然作色而問其故,濟具以答,因曰:「夫『作威作福』,《書》 之明誡。天子無戲言,古人所慎,惟陛下察之!」帝即遣追取前詔。

曹丕は、東中郎將の蔣濟を、散騎常侍とした。あるとき曹丕は、征南将軍の夏侯尚に、詔書をあげた。蒋済が手紙を見て「国を亡ぼす言葉だ」と非難した。蒋済は、曹丕が『書経』をふまえていないと指摘した。曹丕は、詔書を撤回した。

帝欲徙冀州士卒家十萬戶實河南,時天旱,蝗,民饑,群司以為不可,而帝意甚盛。 侍中辛毘與朝臣俱求見,帝知其欲諫,作色以待之,皆莫敢言。毘曰:「陛下欲徙士家, 其計安出?」帝曰:「卿謂我徙之非邪?」毘曰:「誠以為非也。」帝曰:「吾不與卿 議也。」毘曰:「陛下不以臣不肖,置之左右,廁之謀議之官,安能不與臣議邪!臣所 言非私也,乃社稷之慮也,安得怒臣!」帝不答,起入內。毘隨而引其裾,帝遂奮衣不 還,良久乃出,曰:「佐治,卿持我何太急邪!」毘曰:「今徙,既失民心,又無以食 也,故臣不敢不力爭。」帝乃徙其半。帝嘗出射雉,顧群臣曰:「射雉樂哉!」毘對曰: 「於陛下甚樂,於群下甚苦。」帝默然,後遂為之稀出。

曹丕は、冀州の人口10万戸を、河南に移そうとした。日照りとイナゴで、飢饉だ。みな反対した。侍中の辛毗が「国家のため、絶対にやめなさい」と強く言った。曹丕は答えず、引っこんだ。辛毗は、曹丕の衣服をつかまえた。
かつて曹丕は、キジを射た。郡臣に振りかえり、曹丕は「楽しいなあ」と言った。辛毗は「曹丕さまの楽しみは、郡臣の苦しみです」と言った。曹丕は黙ったが、のちにキジ狩をやめた。101115

曹丕が禅譲を受けた途端、司馬光は曹丕をたたく。前月まで、曹丕に有利な記事ばかりだったのに。
衛臻「漢室は素晴らしい」、陳羣「母方の祖父母に尊号を贈るな」、蘇則「曹丕の徳は、西域に届かぬ」、蒋済「夏侯尚に与えた詔書は、国を亡ぼす言葉」、辛毗「曹丕の楽しみは、郡臣の苦しみ」と。可哀想!翌年は、どうなるのかなあ。