027年春、赤眉の劉盆子がくだる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
026年を抄訳してから、ブランクが半年。がんばります。
027年正月、鄧禹と馮異が、赤眉にやぶれる
春,正月,甲子,馮異為征西大將軍。鄧禹慚於受任無功,數以饑卒徼赤眉戰,輒不利;乃率車騎將軍鄧弘等自河北度至湖,要馮異共攻赤眉。異曰:「異與賊相拒數十日,雖虜獲雄將,餘眾尚多,可稍以恩信傾誘,難卒用兵破也。上今使諸將屯澠池,要其東,而異擊其西,一舉取之,此萬成計也!」禹、弘不從,弘遂大戰移日。
027年春正月甲子、馮異を征西大將軍とした。
鄧禹は功績がなく、自分が将軍に任じられないことを、はじた。しばしば飢えた兵をつかい、赤眉とたたかった。勝てない。鄧禹は、車騎將軍の鄧弘らをひきい、河北県から、湖県にきた。
鄧禹は、馮異とともに、赤眉をせめた。馮異は言った。「私・馮異は、赤眉と、数十日たたかった。赤眉の雄將をとらえたが、まだ赤眉には雄將がおおくて、手ごわい。諸将は澠池にゆき、赤眉の東を攻めてくれ。私・馮異は、赤眉の西を攻めよう。はさみうてば、計略がなる」と。鄧禹と鄧弘は、馮異にしたがわず。鄧弘は、戦いの日数をついやした。
赤眉は、いつわって敗れた。輜重をすてた。輜重には土をのせ、うわっつらに豆をのせた。鄧弘の兵を飢えるので、赤眉の輜重をとりあう。赤眉はひきかえし、鄧弘の軍を潰亂させた。馮異と鄧禹は、兵をあわせて、鄧弘をすくった。赤眉が、すこしひいた。馮異の兵はつかれて、休みたい。鄧禹は休みをゆるさず、ふたたび赤眉と戦った。鄧禹は大敗し、死傷者は三千餘人。鄧禹は、24騎でにげて、宜陽にゆく。馮異は馬をすてて、徒歩でにげた。回谿阪をのぼる。
馮異は、麾下の数人と、軍営にもどる。散った兵をあつめた。馮異は、壁をかたくして、自守した。
正月辛巳、四つの親廟を雒陽にたてた。劉秀の父・南頓君からさかのぼり、春陵節候までまつる。
正月壬午、大赦した。閏月乙巳、鄧禹は、大司徒と梁侯の印綬を、返上した。劉秀は、梁侯の印綬を鄧禹にかえした。鄧禹を、右將軍とした。
027年正月、鄧禹が赤眉をやぶり、赤眉がくだる
馮異と赤眉は、時期をきめて、会戦した。馮異は、赤眉とおなじ服を壯士に着せて、道路のわきに伏せた。朝、赤眉は、馮異軍の前部を攻めた。馮異は、すこししか兵を動かさない。赤眉は、馮異軍のいきおいが弱いとおもい、攻めかかった。夜、赤眉はつかれた。馮異は、にわかに伏兵をおこした。馮異の伏兵は、赤眉と服がおなじだ。赤眉は区別がつかず、驚きくずれた。馮異は、赤眉を崤底(永寧県の西北)で大破した。赤眉の男女8万人が、馮異にくだる。
劉秀は、璽書をくだして、馮異をねぎらった。
のこりの赤眉は、東して、宜陽にゆく。正月甲辰、みずから劉秀は、六軍をひきい、かたく布陣して赤眉をまった。赤眉は、劉秀の大軍におどろいた。赤眉は、劉恭をおくり、降伏をねがった。劉恭は「劉盆子は、百万をひきいて、陛下(劉秀)にくだる。どうして布陣して、私たちを待ちかまえるか」と聞いた。劉秀は「きみたち赤眉を死なせないため、待っていたのだ」と答えた。
正月丙午、赤眉の天子・劉盆子と、赤眉の丞相・徐宣より以下、30余人が、はだぬぎになり、劉秀にくだった。傳國の璽綬を、劉秀にわたした。兵甲を宜陽の城西につみあげた。おなじく熊耳山にも、つみあげた。
まだ赤眉は、
10余万人いる。劉秀は、宜陽の縣廚をひらいて、赤眉に食べさせた。
翌朝、劉秀は、おおいに兵馬を、雒水にのぞませて、閲兵した。劉盆子に、君臣の列をみせた。劉秀は、赤眉の樊崇らに言った。「赤眉は、私にくだって、悔いがないか。もし悔いがあるなら、戦闘で決着をつけよう。むりに服従しなくてよい」と。赤眉の徐宣らは、叩頭して言った。「悔いはない。虎口をはなれて、慈母にまもられたようです」と。劉秀は言った。「鉄のなかに、ゴールドがまじる。バカのなかにも、優れた人がまじる。徐宣は、それである」と。
正月戊申、劉秀は宜陽から、洛陽にもどる。樊崇らと妻子に、洛陽で田宅をあたえた。のちに樊崇と逢安は、そむいて誅された。楊音、徐宣は、郷里にかえった。劉秀は、劉盆子をあわれみ、趙王・劉良(劉秀の叔父)の郎中とした。のちに劉盆子は失明した。滎陽に、均輸の官地をもらった。その収入で、寿命まで生きた。
劉恭は、劉玄を報仇するため、謝祿を殺した。みずから系獄した。劉秀は、劉恭をゆるして、誅さず。
027年2月、劉永が張歩を封じ、伏隆が殺される
建武三年(027)2月、劉永は、董憲を海西王とした。
劉永は、劉秀の部将・伏隆が、劇県にきた聞いた。
また劉永は、張歩を斉王とした。張歩は、王爵をむさぼり、劉秀につくか劉永につくか、態度がきまらない。伏隆は、張歩に言った。「高帝は、劉氏でないと王にしないと、天下に約した。張歩は斉王でなく、10万戸侯でいるべきだ」と。張歩は伏隆に「私・張歩につかえて、青州と徐州をおさめよう」と言った。伏隆はゆるさず、劉秀に復命したい。ついに張歩は、伏隆をとらえた。劉永から斉王に封じられた。伏隆は、上書した。「私・伏隆は、劉秀の使者がつとまらず、張歩につかまった。私が殺されたら、劉秀に家族をまかせる。劉秀の王朝が、ながく栄えますように」と。
劉秀は、伏隆の上奏がとどくと、父の伏湛をよび、流涕して上奏をみせた。のちに張歩は、伏隆を殺した。劉秀は、北の漁陽、南の梁国や楚国に、敵をかかえる。ゆえに張歩は、斉国の12郡に割拠した。
劉秀は、懐県にゆく。呉漢は、耿弇と蓋勲をひきいて、青犢を軹西(河内)で大破して、青犢をくだした。
つぎは、027年の後半。漁陽で、彭寵がそむきます。つづく。