表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

029年秋、耿弇が斉地で張歩をくだす

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

029年夏、竇融が、劉秀の涼州牧となる

初,竇融等聞帝威德,心欲東向,以河西隔遠,未能自通,乃從隗囂受建武王朔; 囂皆假其將軍印綬。囂外順人望,內懷異心,使辯士張玄說融等曰:「更始事已成,尋 覆亡滅,此一姓不再興之效也!今即有所主,便相系屬,一旦拘制,自令失柄,後有危 敗,雖悔無及。方今豪桀競逐,雌雄未決,當各據土宇,與隴、蜀合從,高可為六國, 下不失尉佗。」

はじめ竇融は、劉秀の威徳をきいて、劉秀に心がむく。だが河西がとおいので、竇融は、劉秀と交通できない。隗囂は、劉秀の年号・建武をつかった。だが隗囂は、劉秀にことわらず、将軍の印綬をくばった。隗囂は、劉秀に逆らうつもりだ。
隗囂は、弁士の張玄を、竇融にやった。張玄は言った。「更始帝の劉玄が立ったが、ほろびた。もう劉姓は再興しない。いま豪傑が競合する。竇融は、隴蜀とむすべ。よければ戦国6雄になれる。わるくても尉佗になれる」と。

尉佗のことは、高帝十一年にある。


融等召豪桀議之,其中識者皆曰:「今皇帝姓名見於圖書,自前世博物 道術之士谷子雲、夏賀良等皆言漢有再受命之符,故劉子駿改易名字,冀應其占。及莽 末,西門君惠謀立子駿,事覺被殺,出謂觀者曰:『讖文不誤,劉秀真汝主也!』此皆 近事暴著,眾所共見者也。況今稱帝者數人,而雒陽土地最廣,甲兵最強,號令最明, 觀符命而察人事,它姓殆未能當也!」眾議或同或異。

竇融らは、豪傑を議した。「劉秀の姓名は、図讖にあらわれた。前漢のとき、道術する谷子雲(成帝の永始元年)、夏賀良(哀帝の建元元年)は、ふたたび劉氏が受命すると考えた。だから劉歆は、劉秀と改名したのだ(成帝の綏和二年)。図讖が誤るはずはない。いま洛陽にいる劉秀は、つよい。劉秀にそむけば、竇融は、尉佗にすらなれない」と。衆議は、まとまらない。


融遂決策東向,遣長史劉鈞等奉 書詣雒陽。先是,帝亦發使遺融書以招之,遇鈞於道,即與俱還。帝見鈞歡甚,禮饗畢, 乃遣令還,賜融璽書曰:「今益州有公孫子陽,天水有隗將軍。方蜀、漢相攻,權在將 軍,舉足左右,便有輕重。以此言之,欲相厚豈有量哉!欲遂立桓、文,輔微國,當勉 卒功業;欲三分鼎足,連衡合從,亦宜以時定。天下未並,吾與爾絕域,非相吞之國。 今之議者,必有任囂教尉佗制七郡之計。王者有分土,無分民,自適己事而已。」因授 融為涼州牧。璽書至河西,河西皆驚,以為天子明見萬裡之外。

ついに竇融は、劉秀につくと決めた。長史の劉鈞を、洛陽におくる。これより先、劉秀は、竇融に使者した。使者は、劉鈞とはち合わせした。劉秀はよろこび、竇融に璽書をたまわった。

ぼくは思う。はち合わせって、ホンマかいなと。神秘的で、すばらしいなあ。竇融がやった「衆議」は、後漢の正統性にとって、もっとも重要な議論である。もしかしたら『後漢書』は、後漢の正統性を宣伝するために、ここに逸話を挿入したのかも知れない。竇融は現実的に「隗囂につくのがトクか、劉秀につくのがトクか」と議論しただろう。この場面を利用して、歴史家が「図讖が!」なんて話を、つけくわえたのだろう。

「いま益州に公孫述、天水に隗囂がいる。蜀(公孫述)と、漢(劉秀)があらそう。カギは、竇融将軍がにぎっている。うまくバランスをとれ。いま議者は、隗囂が尉佗のように、7郡で独立するつもりだと予想する。王者は、分土しても、分民しない。私は隗囂に分民するつもりはない」と。

尉佗のことは、高帝十一年にある。尉佗は、7郡で独立した。李賢はいう。蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、南海、日南である。李賢は考える。尉佗のとき、7郡は整備されていない。劉秀は、のちの地名をあてはめて、7郡と言ったのだ。

劉秀は竇融を、涼州牧とした。涼州牧の璽綬が河西にくると、みなおどろいた。はるかな劉秀を、あおぎ見た。

029年夏、秦豊がくだり、龐萌が董憲ににげる

硃祜急攻黎丘,六月,秦豐窮困出降;轞車送洛陽。吳漢劾祜廢詔命,受豐降。上 誅豐,不罪祜。

朱祜は、黎丘をきびしく攻めた。029年6月、飢えて秦豊がくだった。轞車で、秦豊を洛陽におくった。呉漢は「朱祜が、詔命にそむいて、秦豊の投降をうけた」と劾めた。劉秀は秦豊を誅し、朱祜を罪せず。

董憲與劉紆、蘇茂、佼強去下邳還蘭陵,使茂,強助龐萌圍桃城。帝時幸蒙,聞之, 乃留輜重,自將輕兵晨夜馳赴。至亢父,或言百官疲倦,可且止宿;上不聽,復行十裡, 宿任城,去桃城六十裡。旦日,諸將請進,龐萌等亦勒兵挑戰。帝令諸將不得出,休士 養銳以挫其鋒。時吳漢等在東郡,馳使召之。萌等驚曰:「數百裡晨夜行,以為至當戰, 而堅坐任城,致人城下,真不可往也!」乃悉兵攻桃城。城中聞車駕至,眾心益固;萌 等攻二十餘日,眾疲睏,不能下。吳漢、王常、蓋延、王梁、馬武、王霸等皆至,帝乃 率眾軍進救桃城,親自搏戰,大破之。龐萌、蘇茂、佼強夜走從董憲。

董憲と劉紆、蘇茂、佼強は、下邳をさり、蘭陵にもどる。蘇茂と佼強は、龐萌をたすけて桃城をかこむ。劉秀は、蒙県(梁国)にゆき、これを聞いた。輜重をとどめ、日夜とばした。亢父(東平)で、百官が疲れたが、劉秀はとまらない。任城に入った。任城の場所は、桃城から60里。

ぼくは思う。この強行軍は、劉秀の戦術として、アピールされてもいいんだろう。周囲の反対を押し切ったのだから、よっぽどだ。ただし、「社稷の臣」龐萌に裏ぎられたので、感情的になっているだけかも。

翌朝、龐萌らが任城を攻めた。劉秀は、諸将を出撃させない。兵を休ませ、鋭気をやしない、龐萌をくじいた。ときに吳漢らは、東郡から召された。龐萌らはおどろいた。「劉秀は日夜、強行してきたわりに、任城の守備は堅い。任城を攻めるな」と。龐萌は任城をあきらめ、全兵で、桃城を攻めた。桃城は、劉秀がきたので、守備する士気がつよまった。龐萌は、桃城を20日攻めたが、くだせず。
吳漢、王常、蓋延、王梁、馬武、王霸らが、ついた。劉秀は、桃城をすくった。桃城をかこむ龐萌らは、大破された。龐萌、蘇茂、佼強は、夜に董憲へにげた。

029年秋、劉永の子・劉紆が斬られる

秋,七月,丁丑,帝幸沛,進幸湖陵。董憲與劉紆悉其兵數萬人屯昌慮;憲招誘五 校餘賊,與之抿守建陽。帝至蕃,去憲所百餘里,諸將請進,帝不聽,知五校乏食當退, 敕各堅壁以待其敝。頃之,五校果引去。帝乃親臨,四面攻憲,三日,大破之。

029年秋7月丁丑、劉秀は沛国にゆく。湖陵にゆく。董憲と劉紆は、全兵の数万をつれて、昌慮(東海)にいる。董憲は、五校の餘賊をさそい、ともに建陽(東海)をまもる。劉秀は、蕃県(魯国)にゆく。董憲とのあいだは、1百余里。諸将は董憲を攻めたいが、劉秀はゆるさず。劉秀は、五校の食糧が尽きて、ひくのを待った。五校がひいたので、劉秀は四面から董憲を攻めた。3日で、董憲をやぶった。

佼強將 其眾降,蘇茂奔張步,憲及龐萌走保郯。八月,己酉,帝幸郯,留吳漢攻之,車駕轉徇 彭城、下邳。吳漢拔郯,董憲、龐萌走保朐。劉紆不知所歸,其軍士高扈斬之以降。吳 漢進圍朐。

佼強がくだった。蘇茂は、張歩をたよる。董憲と龐萌は、にげて郯県をたもつ。8月己酉、劉秀は郯県にゆく。呉漢を郯県にとどめ、劉秀は彭城、下邳をとなえた。
呉漢は郯県をぬいた。董憲と龐萌は、にげて朐県(東海)をたもつ。劉紆は、軍士の高扈に斬られた。すすんで呉漢は、朐県をかこむ。

029年10月、耿弇が青州で、股に矢をうける

冬,十月,帝幸魯。
張步聞耿弇將至,使其大將軍費邑軍歷下,又令兵屯祝阿,別於泰山、鐘城列營數 十以待之。弇渡河,先擊祝阿,自旦攻城,日未中而拔之;故開圍一角,令其眾得奔歸 鐘城。鐘城人聞祝阿已潰,大恐懼,遂空壁亡去。費邑分遣弟敢守巨裡。弇進兵先脅巨 裡,嚴令軍中趣修攻具,宣敕諸部,後三日當悉力攻巨裡城;陰緩生口,令得亡歸,以 弇期告邑。

029年冬10月、劉秀は魯国にゆく。
張歩は、耿弇がくると聞いた。張歩の大将軍・費邑を、歷下におく。

胡三省はいう。魯国は、もとは徐州にぞくす。劉秀が改め、豫州にぞくさせた。
『後漢紀』は、張歩の済南王・費邑とする。いま『後漢書』耿弇伝にしたがい、大将軍・費邑とする。

張歩の軍は、祝阿(平原)、泰山、鐘城など、数十にならび、耿弇をふせぐ。耿弇は黄河をわたり、さきに祝阿をうつ。朝から祝阿を攻め、昼前にぬく。鐘城の人は、祝阿がぬかれたので、にげた。費邑は、弟の費敢を巨裡(済南の歴城にある聚名)におく。耿弇は、3日かけて巨裡を力攻した。ひそかに、ぬけ道をつくった。耿弇は、巨裡の人がにげて、費邑に連絡できるようにした。

邑至日,果自將精兵三萬餘人來救之。弇喜,謂諸將曰:「吾所以修攻具者, 欲誘致之耳。野兵不擊,何以城為!」即分三千人守巨裡,自引精兵上岡阪,乘高合戰, 大破之,臨陳斬邑。既而收首級以示城中,城中兇懼。費敢悉眾亡歸張步。弇復收其積 聚,縱兵擊諸未下者,平四十餘營,遂定濟南。

費邑は、みずから精兵3万をつれて、巨裡をすくう。耿弇はよろこんだ。「費邑を誘いだせた。いま野戦で、費邑をうたねばならない。城攻で、費邑をうてるものか」と。耿弇は、費邑を斬った。
巨裡に費邑のクビを見せた。費邑の弟・費敢は、張歩ににげた。40余の軍営をたいらげた。ついに、済南をさだめた。

ぼくは思う。河南の平定が、すごく長い。そして、徐州の海沿いは、どうも「血が行き渡っていない」感じがする。後漢の順帝のころから、叛乱が多発する地域です。劉秀のときから、統治に限界があったらしい。


時張步都劇,使其弟藍將精兵二萬守西安,諸郡太守合萬餘人守臨菑,相去四十裡。 弇進軍畫中,居二城之間。弇視西安城小而堅,且藍兵又精,臨菑名雖大而實易攻,乃 敕諸校後五日會攻西安。藍聞之,晨夜警守。至期,夜半,弇敕諸將皆蓐食,會明,至 臨菑城。護軍荀梁等爭之,以為「攻臨菑,西安必救之,攻西安,臨菑不能救,不如攻 西安。」弇曰:「不然,西安聞吾欲攻之,日夜為備,方自憂,何暇救人!臨菑出不意 而至,必驚攏,吾攻之一日,必拔。拔臨菑,即西安孤,與劇隔絕,必覆亡去,所謂 『擊一而得二』者也。若先攻西安,不能卒下,頓兵堅城,死傷必多。縱能拔之,藍引 軍還奔臨菑,並兵合勢,觀人虛實。吾深入敵地,後無轉輸,旬月之間,不戰而困矣。」 遂攻臨菑。半日,拔之,入據其城。張藍聞之,懼,遂將其眾亡歸劇。

ときに張歩は、劇県にいた。弟の張藍に2万をつけ、西安(斉郡)をまもらす。劉秀が任じた諸郡の太守は、1万余人をあわせ、臨菑をまもる。張藍とのあいだは、40里。耿弇は畫中(邑の名)にきた。張藍と太守らのあいだである。
耿弇は命じた。「西安は、小さいがかたい。張藍は精兵だ。臨菑は、有名なわりに、攻めやすい。まず西安を攻め、進路をかえて、夜半に臨菑を攻めよ。すぐに臨菑をおとせる」と。
護軍の荀梁は、耿弇に反対した。「臨菑を攻めれば、西安の兵がでてきて、臨菑をすくう。西安を攻めれば、臨菑の兵は精兵でないから、西安にでてこない。西安を攻めるほうがいい」と。耿弇は言った。「ちがう。西安は、自分を守ることに精一杯だ。臨菑なら驚かせば、1日でおとせる。臨菑をおとせば、西安は孤立する。1城をおとすだけで、自動的に、2城がおちる。かたい西城を攻めたら、犠牲がおおきい」と。
ついに耿弇は、臨菑を攻めた。

ぼくは思う。意見のただしさでなく、官位のたかさで、作戦はきまる。

半日で、耿弇は臨菑をぬいた。張藍はこれを聞き、西安をすてて、劇県ににげた。

弇乃令軍中無得 虜掠、須張步至乃取之,以激怒步。步聞,大笑曰:「以尤來、大彤十餘萬眾,吾皆即 其營而破之。今大耿兵少於彼,又皆疲勞,何足懼乎!」乃與三弟藍、弘、壽及故大彤 渠帥重異等兵號二十萬,至臨菑大城東,將攻弇。弇上書曰:「臣據臨菑,深塹高壘; 張步從劇縣來攻,疲勞饑渴。欲進,誘而攻之;欲去,隨而擊之。臣依營而戰,精銳百 倍,以逸待勞,以實擊虛,旬日之間,步首可獲。」於是弇先出菑水上,與重異遇;突 騎欲縱,弇恐挫其鋒,令步不敢進,故示弱以盛其氣,乃引歸小城,陳兵於內,使都尉 劉歆、泰山太守陳俊分陳於城下。步氣盛,直攻弇營,與劉歆等合戰。弇升王宮壞台望 之,視歆等鋒交,乃自引精兵以橫突步陳於東城下,大破之。飛矢中弇股,以佩刀截之, 左右無知者。至暮,罷。弇明旦復勒兵出。

耿弇は臨菑で、軍中に掠奪を禁じた。耿弇は、張歩がくるのを待ってから、掠奪をはじめた。張歩を、怒らせたるためだ。張歩は、これを聞いて、大笑した。「私には、尤來や大彤の10万がいる。大耿(耿況の長子・耿弇)は、兵がすくなく、つかれている。こわくない」と。
張歩は、弟の張藍ら20万をつれ、臨菑に耿弇を攻めた。耿弇は劉秀に、上書した。「私は臨菑をエサにして、劇県から、張歩を釣りだしました。張歩のクビをとどけます」と。

ぼくは思う。耿弇は、いつも捨て身だなあ。だが、青州の特徴がわかる。敵軍に籠もられてしまうと、手出しができない。面積がひろく、逃げられる余地がおおきい。

耿弇は、菑水をさかのぼった。張歩軍とぶつかる。耿弇は、小城ににげこんだ。都尉の劉歆、泰山太守の陳俊を、城下においた。耿弇は、斉王の王宮にのぼり、台望をこわして、戦闘を見た。飛矢が、耿弇の股にあたった。耿弇は、佩刀で矢を切って、キズをかくした。耿弇は夜にひっこみ、翌日から戦闘を再開した。

029年秋、耿弇が張歩をくだし、斉地12郡をえる

是時帝在魯,聞弇為步所攻,自往救之。未至,陳俊謂弇曰:「劇虜兵盛,可且閉 營休士,以須上來。」弇曰:「乘輿且到,臣子當擊牛、釃酒以待百官,反欲以賊虜遺 君父邪?」乃出兵大戰。自旦及昏,復大破之;殺傷無數,溝塹皆滿。弇知步困將退, 豫置左右翼為伏以待之。人定時,步果引去,伏兵起縱擊,追至臣昧水上,八九十裡, 殭屍相屬,收得輜重二千餘兩。步還劇,兄弟各分兵散去。

ときに劉秀は、魯国にいた。耿弇が張歩に攻められたと聞いて、みずから救う。劉秀がつく前、泰山太守の陳俊は、耿弇に言った。「劇県からきた張歩は、つよい。劉秀の到着を待とう」と。耿弇は言った。「牛肉と釃酒を準備して、劉秀をむかえたい。劉秀の手を、わずらわすな」と。
張歩は、左右に伏兵して、張歩と戦った。90里に死体がならび、輜重2千がころがる。張歩は、劇県にかえった。

後數日,車駕至臨菑,自勞 軍,群臣大會。帝謂弇曰:「昔韓信破歷下以開基,今將軍攻祝阿以發跡,此皆齊之西 界,功足相方。而韓信襲擊已降,將軍獨拔勍敵,其功又難於信也。又,田橫亨酈生, 及田橫降,高帝詔衛尉不聽為仇;張步前亦殺伏隆,若步來歸命,吾當詔大司徒釋其怨, 又事尤相類也。

数日後、劉秀が臨菑にきた。劉秀は、楚漢戦争にたとえて、耿弇をねぎらった。「むかし韓信は、歴下で勝った(高祖四年)。耿弇は、祝阿をやぶり、斉郡の西界をさだめた。韓信とおなじ功績だ。ただし韓信は、敵をくだした。耿弇は、張歩を追いかえしただけだ。ここは韓信におとる」と。さらに劉秀は言った。「田横は、レキ生を煮ころした。田横がくだったとき、高帝は、田横に仇討することを禁じた(高帝五年)。さきに張歩は、伏隆を殺した(建武三年)。もし張歩がくだっていれば、私は大司徒の伏湛(伏隆の父)に、仇討をゆるしただろう。情況がにている」と。

將軍前在南陽,建此大策,常以為落落難合,有志者事竟成也!」帝進 幸劇。

さらに劉秀は言う。「耿弇は、南陽にいて、大策をたてた(建武三年)。言ったとおりの成果はないが、志があれば、やりとげるだろう」と。

胡三省はいう。建武三年、劉秀が舂陵にいるとき、耿弇は言った。「私を北して、上谷に出兵させてくれ。漁陽で彭寵をさだめ、涿郡で張豊をとりたい。富平、獲索をうちたい。東して、張歩をせめて、齊地をたいらげたい」と。
ぼくは思う。劉秀は、高帝を手本にして、統一戦争をしていたんだなあ。

劉秀は、張歩のいる劇県にすすんだ。

耿弇復追張步,步奔平壽,蘇茂將萬餘人來救之。茂讓步曰:「以南陽兵精,延岑 善戰,而耿弇走之,大王奈何就攻其營?既呼茂,不能待邪?」步曰:「負負,無可言 者!」帝遣使告步、茂,能相斬降者,封為列侯。步遂斬茂,詣耿弇軍門肉袒降。弇傳 詣行在所,而勒兵入據其城,樹十二郡旗鼓,令步兵各以郡人詣旗下,眾尚十餘萬,輜 重七千餘兩,皆罷遣歸鄉里。

耿弇は、張歩をおう。張歩は、平壽(北海)にゆく。蘇茂が、1万余人で、蘇茂をすくう。蘇茂は、張歩をせめた。「劉秀の南陽兵は、つよい。延岑は、耿弇にまけた。私・蘇茂は、劉秀をおむかえするしかない」と。張歩は言った。「くそぉ、もう言うな」と。
劉秀は、張歩と蘇茂に使者した。「張歩と蘇茂は、相手を斬ってくだれば、列侯にする」と。張歩は蘇茂をきって、耿弇にくだった。耿弇は、12郡に劉秀の旗をたてた。張歩の兵は10余万あり、輜重は7千余両あった。張歩の兵は、郷里にかえった。

張步三弟各自系所在獄,詔皆赦之,封步為安丘侯,與妻 子居雒陽。於是琅邪未平,上徙陳俊為琅邪太守;始入境,盜賊皆散。耿弇復引兵至城 陽,降五校餘黨,齊地悉平,振旅還京師。弇為將,凡所平郡四十六,屠城三百,未嘗 挫折焉。

張歩はみずから監獄につながる。赦された。張歩は、安丘侯(瑯邪または北海)となる。妻子は、洛陽にすむ。ここにおいて、瑯邪がたいらがないので、陳俊を琅邪太守とした。郡境にはいると、盜賊がちった。
耿弇は、城 陽(都はリョ)にもどる。五校の余党をくだす。すべて齊地がたいらぐ。軍隊を、京師にもどす。耿弇がたいらげたのは、46郡、300城。いまだ挫折なし。

初起太學。車駕還宮,幸太學,稽式古典,修明禮樂,煥然文物可觀矣。

はじめて太学をつくる。劉秀の車駕は、還宮した。太學にゆく。古典を稽式した。禮樂を修明した。文物を煥然とした。見るべきである。

つぎは029年冬。隗囂があやしい動きをします。