029年秋、耿弇が斉地で張歩をくだす
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
029年夏、竇融が、劉秀の涼州牧となる
はじめ竇融は、劉秀の威徳をきいて、劉秀に心がむく。だが河西がとおいので、竇融は、劉秀と交通できない。隗囂は、劉秀の年号・建武をつかった。だが隗囂は、劉秀にことわらず、将軍の印綬をくばった。隗囂は、劉秀に逆らうつもりだ。
隗囂は、弁士の張玄を、竇融にやった。張玄は言った。「更始帝の劉玄が立ったが、ほろびた。もう劉姓は再興しない。いま豪傑が競合する。竇融は、隴蜀とむすべ。よければ戦国6雄になれる。わるくても尉佗になれる」と。
竇融らは、豪傑を議した。「劉秀の姓名は、図讖にあらわれた。前漢のとき、道術する谷子雲(成帝の永始元年)、夏賀良(哀帝の建元元年)は、ふたたび劉氏が受命すると考えた。だから劉歆は、劉秀と改名したのだ(成帝の綏和二年)。図讖が誤るはずはない。いま洛陽にいる劉秀は、つよい。劉秀にそむけば、竇融は、尉佗にすらなれない」と。衆議は、まとまらない。
ついに竇融は、劉秀につくと決めた。長史の劉鈞を、洛陽におくる。これより先、劉秀は、竇融に使者した。使者は、劉鈞とはち合わせした。劉秀はよろこび、竇融に璽書をたまわった。
「いま益州に公孫述、天水に隗囂がいる。蜀(公孫述)と、漢(劉秀)があらそう。カギは、竇融将軍がにぎっている。うまくバランスをとれ。いま議者は、隗囂が尉佗のように、7郡で独立するつもりだと予想する。王者は、分土しても、分民しない。私は隗囂に分民するつもりはない」と。
劉秀は竇融を、涼州牧とした。涼州牧の璽綬が河西にくると、みなおどろいた。はるかな劉秀を、あおぎ見た。
029年夏、秦豊がくだり、龐萌が董憲ににげる
朱祜は、黎丘をきびしく攻めた。029年6月、飢えて秦豊がくだった。轞車で、秦豊を洛陽におくった。呉漢は「朱祜が、詔命にそむいて、秦豊の投降をうけた」と劾めた。劉秀は秦豊を誅し、朱祜を罪せず。
董憲と劉紆、蘇茂、佼強は、下邳をさり、蘭陵にもどる。蘇茂と佼強は、龐萌をたすけて桃城をかこむ。劉秀は、蒙県(梁国)にゆき、これを聞いた。輜重をとどめ、日夜とばした。亢父(東平)で、百官が疲れたが、劉秀はとまらない。任城に入った。任城の場所は、桃城から60里。
翌朝、龐萌らが任城を攻めた。劉秀は、諸将を出撃させない。兵を休ませ、鋭気をやしない、龐萌をくじいた。ときに吳漢らは、東郡から召された。龐萌らはおどろいた。「劉秀は日夜、強行してきたわりに、任城の守備は堅い。任城を攻めるな」と。龐萌は任城をあきらめ、全兵で、桃城を攻めた。桃城は、劉秀がきたので、守備する士気がつよまった。龐萌は、桃城を20日攻めたが、くだせず。
吳漢、王常、蓋延、王梁、馬武、王霸らが、ついた。劉秀は、桃城をすくった。桃城をかこむ龐萌らは、大破された。龐萌、蘇茂、佼強は、夜に董憲へにげた。
029年秋、劉永の子・劉紆が斬られる
029年秋7月丁丑、劉秀は沛国にゆく。湖陵にゆく。董憲と劉紆は、全兵の数万をつれて、昌慮(東海)にいる。董憲は、五校の餘賊をさそい、ともに建陽(東海)をまもる。劉秀は、蕃県(魯国)にゆく。董憲とのあいだは、1百余里。諸将は董憲を攻めたいが、劉秀はゆるさず。劉秀は、五校の食糧が尽きて、ひくのを待った。五校がひいたので、劉秀は四面から董憲を攻めた。3日で、董憲をやぶった。
佼強がくだった。蘇茂は、張歩をたよる。董憲と龐萌は、にげて郯県をたもつ。8月己酉、劉秀は郯県にゆく。呉漢を郯県にとどめ、劉秀は彭城、下邳をとなえた。
呉漢は郯県をぬいた。董憲と龐萌は、にげて朐県(東海)をたもつ。劉紆は、軍士の高扈に斬られた。すすんで呉漢は、朐県をかこむ。
029年10月、耿弇が青州で、股に矢をうける
張步聞耿弇將至,使其大將軍費邑軍歷下,又令兵屯祝阿,別於泰山、鐘城列營數 十以待之。弇渡河,先擊祝阿,自旦攻城,日未中而拔之;故開圍一角,令其眾得奔歸 鐘城。鐘城人聞祝阿已潰,大恐懼,遂空壁亡去。費邑分遣弟敢守巨裡。弇進兵先脅巨 裡,嚴令軍中趣修攻具,宣敕諸部,後三日當悉力攻巨裡城;陰緩生口,令得亡歸,以 弇期告邑。
029年冬10月、劉秀は魯国にゆく。
張歩は、耿弇がくると聞いた。張歩の大将軍・費邑を、歷下におく。
『後漢紀』は、張歩の済南王・費邑とする。いま『後漢書』耿弇伝にしたがい、大将軍・費邑とする。
張歩の軍は、祝阿(平原)、泰山、鐘城など、数十にならび、耿弇をふせぐ。耿弇は黄河をわたり、さきに祝阿をうつ。朝から祝阿を攻め、昼前にぬく。鐘城の人は、祝阿がぬかれたので、にげた。費邑は、弟の費敢を巨裡(済南の歴城にある聚名)におく。耿弇は、3日かけて巨裡を力攻した。ひそかに、ぬけ道をつくった。耿弇は、巨裡の人がにげて、費邑に連絡できるようにした。
費邑は、みずから精兵3万をつれて、巨裡をすくう。耿弇はよろこんだ。「費邑を誘いだせた。いま野戦で、費邑をうたねばならない。城攻で、費邑をうてるものか」と。耿弇は、費邑を斬った。
巨裡に費邑のクビを見せた。費邑の弟・費敢は、張歩ににげた。40余の軍営をたいらげた。ついに、済南をさだめた。
ときに張歩は、劇県にいた。弟の張藍に2万をつけ、西安(斉郡)をまもらす。劉秀が任じた諸郡の太守は、1万余人をあわせ、臨菑をまもる。張藍とのあいだは、40里。耿弇は畫中(邑の名)にきた。張藍と太守らのあいだである。
耿弇は命じた。「西安は、小さいがかたい。張藍は精兵だ。臨菑は、有名なわりに、攻めやすい。まず西安を攻め、進路をかえて、夜半に臨菑を攻めよ。すぐに臨菑をおとせる」と。
護軍の荀梁は、耿弇に反対した。「臨菑を攻めれば、西安の兵がでてきて、臨菑をすくう。西安を攻めれば、臨菑の兵は精兵でないから、西安にでてこない。西安を攻めるほうがいい」と。耿弇は言った。「ちがう。西安は、自分を守ることに精一杯だ。臨菑なら驚かせば、1日でおとせる。臨菑をおとせば、西安は孤立する。1城をおとすだけで、自動的に、2城がおちる。かたい西城を攻めたら、犠牲がおおきい」と。
ついに耿弇は、臨菑を攻めた。
半日で、耿弇は臨菑をぬいた。張藍はこれを聞き、西安をすてて、劇県ににげた。
耿弇は臨菑で、軍中に掠奪を禁じた。耿弇は、張歩がくるのを待ってから、掠奪をはじめた。張歩を、怒らせたるためだ。張歩は、これを聞いて、大笑した。「私には、尤來や大彤の10万がいる。大耿(耿況の長子・耿弇)は、兵がすくなく、つかれている。こわくない」と。
張歩は、弟の張藍ら20万をつれ、臨菑に耿弇を攻めた。耿弇は劉秀に、上書した。「私は臨菑をエサにして、劇県から、張歩を釣りだしました。張歩のクビをとどけます」と。
耿弇は、菑水をさかのぼった。張歩軍とぶつかる。耿弇は、小城ににげこんだ。都尉の劉歆、泰山太守の陳俊を、城下においた。耿弇は、斉王の王宮にのぼり、台望をこわして、戦闘を見た。飛矢が、耿弇の股にあたった。耿弇は、佩刀で矢を切って、キズをかくした。耿弇は夜にひっこみ、翌日から戦闘を再開した。
029年秋、耿弇が張歩をくだし、斉地12郡をえる
ときに劉秀は、魯国にいた。耿弇が張歩に攻められたと聞いて、みずから救う。劉秀がつく前、泰山太守の陳俊は、耿弇に言った。「劇県からきた張歩は、つよい。劉秀の到着を待とう」と。耿弇は言った。「牛肉と釃酒を準備して、劉秀をむかえたい。劉秀の手を、わずらわすな」と。
張歩は、左右に伏兵して、張歩と戦った。90里に死体がならび、輜重2千がころがる。張歩は、劇県にかえった。
数日後、劉秀が臨菑にきた。劉秀は、楚漢戦争にたとえて、耿弇をねぎらった。「むかし韓信は、歴下で勝った(高祖四年)。耿弇は、祝阿をやぶり、斉郡の西界をさだめた。韓信とおなじ功績だ。ただし韓信は、敵をくだした。耿弇は、張歩を追いかえしただけだ。ここは韓信におとる」と。さらに劉秀は言った。「田横は、レキ生を煮ころした。田横がくだったとき、高帝は、田横に仇討することを禁じた(高帝五年)。さきに張歩は、伏隆を殺した(建武三年)。もし張歩がくだっていれば、私は大司徒の伏湛(伏隆の父)に、仇討をゆるしただろう。情況がにている」と。
さらに劉秀は言う。「耿弇は、南陽にいて、大策をたてた(建武三年)。言ったとおりの成果はないが、志があれば、やりとげるだろう」と。
ぼくは思う。劉秀は、高帝を手本にして、統一戦争をしていたんだなあ。
劉秀は、張歩のいる劇県にすすんだ。
耿弇は、張歩をおう。張歩は、平壽(北海)にゆく。蘇茂が、1万余人で、蘇茂をすくう。蘇茂は、張歩をせめた。「劉秀の南陽兵は、つよい。延岑は、耿弇にまけた。私・蘇茂は、劉秀をおむかえするしかない」と。張歩は言った。「くそぉ、もう言うな」と。
劉秀は、張歩と蘇茂に使者した。「張歩と蘇茂は、相手を斬ってくだれば、列侯にする」と。張歩は蘇茂をきって、耿弇にくだった。耿弇は、12郡に劉秀の旗をたてた。張歩の兵は10余万あり、輜重は7千余両あった。張歩の兵は、郷里にかえった。
張歩はみずから監獄につながる。赦された。張歩は、安丘侯(瑯邪または北海)となる。妻子は、洛陽にすむ。ここにおいて、瑯邪がたいらがないので、陳俊を琅邪太守とした。郡境にはいると、盜賊がちった。
耿弇は、城
陽(都はリョ)にもどる。五校の余党をくだす。すべて齊地がたいらぐ。軍隊を、京師にもどす。耿弇がたいらげたのは、46郡、300城。いまだ挫折なし。
はじめて太学をつくる。劉秀の車駕は、還宮した。太學にゆく。古典を稽式した。禮樂を修明した。文物を煥然とした。見るべきである。
つぎは029年冬。隗囂があやしい動きをします。