028年冬、劉秀が馬援をもてなす
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
028年10月、馬援が劉秀に心服する
隗囂使馬援往觀公孫述。援素與述同裡□,相善,以為既至,當握手歡如平生;而述盛陳陛衛以延援入,交拜禮畢,使出就館。更為援制都布單衣、交讓冠,會百官於宗廟中,立舊交之位,述鸞旗、旄騎,警蹕就車,磬折而入,禮饗官屬甚盛,欲授援以封侯大將軍位。
028年冬10月甲寅、劉秀の車駕は、寿春から還宮した。
隗囂は、馬援を公孫述に会いにゆかせた。馬援は、もとより公孫述と同郷(ともに茂陵)だ。平生のように、馬援と公孫述は、手をにぎった。公孫述は、宗廟に百官をあつめ、天子のスタイルをととのえた。公孫述は、馬援をもてなした。封侯して、大將軍の官位をあたえたい。
賓客は、みな樂留する。馬援は、曉して言った。「天下は定まらないのに、公孫述は周公のように人材をあつめない。天子のスタイルをかざる。木偶の人形のようだ。どうして公孫述が、ひさしく天下の人材をつかえるか」と。馬援は、公孫述をさった。
馬援は隗囂に言った。「公孫述は、井の底にいる蛙だ。東方の劉秀につけ」と。
隗囂は、馬援に奉書させ、洛陽にいかせた。
馬援は洛陽にくると、中黃門(宦者、少府にぞくす)がひきいれた。劉秀は、宣德殿の南廡下で、幘だけつけて、坐して迎笑した。劉秀は、馬援に言った。「きみ・馬援は、二帝のあいだ(公孫述と劉秀)を、遨遊した。いま私・劉秀は、馬援にあって、おおいに慚ずかしい」と。
馬援は頓首して、劉秀にあやまった。「いま君主が臣下をえらぶだけでなく、臣下も君主をえらぶ。私は公孫述と同県だが、公孫述は私を警戒して、武装して面会した。なぜ劉秀は、私を警戒せず、フランクに面会してくれるのか」と。
劉秀はわらい「きみは刺客でない。說客をみるだけだ」と言った。馬援は「劉秀は、劉邦とおなじだ。帝王の資質がある」と言った。
028年冬、馮異と隗囂が、陳倉で公孫述軍をやぶる
岑彭攻秦豐三歲,斬首九萬餘級;豐餘兵裁千人,食且盡。十二月,丙寅,帝幸黎丘,遣使招豐,豐不肯降;乃使硃祜等代岑彭圍黎丘,使岑彭、傅俊南擊田戎。
10月、太傅の卓茂が薨じた。
11月丙申、劉秀は宛県にゆく。 岑彭は、秦豐をせめること3年。斬首すること9萬餘級。秦豊は、兵1千をのこし、食料がつきた。12月丙寅、袁紹は黎丘にゆく。秦豊をまねくが、秦豊はくだらず。
劉秀は、岑彭をやめさせて、かわりに朱祜に黎丘の秦豊をかこませた。岑彭、傅俊を南させ、田戎をうった。
公孫述は、10萬人をあつめ、漢中に食糧をつむ。10層の樓船をつくり、おおく天下へ牧守の印章をきざむ。
公孫述は、將軍の李育と程烏に、数万をつけて、陳倉におく。呂鮪をつけて、三輔をとなえたい。馮異は、公孫述軍をやぶる。李育と程烏は、漢中にはしる。
馮異はもどり、呂鮪をやぶった。馮異にくだった営保は、とてもおおい。
このとき隗囂は、馮異をたすけた。劉秀は手ずから文書した。「隗囂は、南に公孫述をふせぎ、北に羌胡をふせいだ。馮異は、征西ができた。隗囂のたすけがなければ、咸陽を公孫述にとられただろう。もし公孫述が漢中にきたら、隗囂は三輔でふせいでくれ。隗囂は私と、管鮑のまじわりを、やろう」と。
のちに公孫述は、たびたび北伐した。隗囂は馮異とむすび、公孫述をふせいだ。公孫述は隗囂に、大司空、扶安王の印綬授をよこした。隗囂は、公孫述の使者を斬った。蜀兵は、ふたたび北出しない。
泰山の豪傑は、おおく張歩とつらなる。吳漢は、強駑大將軍の陳俊を泰山太守にすすめて、張歩をうった。ついに泰山をさだめた。
つぎは029年。馬援が、隗囂のもとにかえります。つづく。