027年秋、劉秀が南陽を手にいれる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
026年を抄訳してから、ブランクが半年。がんばります。
027年3月、燕王の彭寵が、薊県の朱浮をぬく
建武三年(027)3月壬寅、司直の伏湛を、大司徒とする。
涿郡太守の張豐が、そむいて、天上大將軍をとなえた。彭寵と、兵をつらねた。朱浮は、みずから劉秀が彭寵を征してくれないので、救いをもとめた。
劉秀は朱浮にこたえた。「赤眉が長安であばれた。穀物がなくなった。いま、そむいた彭寵は、勢力が長くつづかない。内部であらそうだろう。つぎの収穫まで、朱浮はまて」と。朱浮は、薊県にこもり、人が食べあった。
たまたま耿況が、薊県をすくった。朱浮は、徒歩で脱走した。朱浮がにげたので、薊県は、彭寵にくだった。
ぼくは思う。『通鑑考異』は、べつに『資治通鑑』の記述に、異説があることを示すのでない。関連する列伝を、教えてくれただけに見える。
彭寵は、みずから燕王をとなえた。右北平、上谷の數縣をぬいた。匈奴から、兵をかりた。彭寵は、南にいる張歩、富平、獲索らとむすぶ。
劉秀は、みずから鄧奉を、堵陽(南陽)に征した。鄧奉はにげて、淯陽にゆく。董キンが、劉秀にくだった。
027年4月、泣いて鄧奉を斬る
夏4月、劉秀は、鄧奉を小長安に追撃して、大破した。鄧奉ははだぬぎになり、朱祜にくだった。劉秀は、鄧奉がふるい功臣であることをあわれんだ。鄧奉は、呉漢を推挙してくれた。
鄧奉は、鄧晨の兄子である。呉漢のことは、前年にある。
劉秀は、鄧奉をゆるしたい。だが、岑彭と耿弇が、劉秀をいさめた。「もし鄧奉を誅さないと、悪人がこりない」と。劉秀は鄧奉を斬った。朱祜の官位をもどした。
027年夏、馮異が関中をうち、呉漢が広楽をかこむ
延岑は、赤眉をやぶり、牧守を拜置した。関中に割拠したい。
ときに関中は、眾寇が、なおつよい。延岑は藍田による。王歆は下邽(隴西)による。芳丹は新豐による。蔣震は霸陵による。張邯は長安による。公孫守は長陵による。楊周は谷口による。呂鮪は陳倉による。角閎は汧県による。駱延は盩厔による。任良は雩阜による。汝章は槐裡による。おのおの将軍をとなえた。兵数は、おおくて萬餘人、すくなくて數千人の兵。せめぎあった。
馮異は、関中の軍閥とたたかうため、上林の苑中にゆく。
延岑は、張邯、任良とともに、馮異をせめた。馮異が、延岑らを大破した。延岑についていた軍閥の營保は、みな馮異にくだった。延岑は、武関から南陽ににげた。
ときに百姓は飢えて、食料が値あがりした。関中は、道がとおい。馮異は、兵糧がつづかない。劉秀は、南陽の趙匡を右扶風として、馮異に絹や穀物をおくらせた。馮異は腹がふくれ、営保をたいらげた。営保は散って、本業にもどった。馮異の威行は、関中にとどろく。ただ呂鮪、張邯、蔣震らは、益州の公孫述をたよった。
吳漢は、驃騎大將軍の杜茂ら7将軍をひきい、廣樂で蘇茂をかこむ。周建は、10余万人をあつめ、蘇茂をすくう。呉漢は周建にやぶれた。呉漢は落馬して、ひざを傷つけた。周建は、兵をつらねて広楽にはいった。
諸将は呉漢に言った。「敵はおおく、呉漢は傷ついた。兵はおそれている」と。呉漢はおきあがり、キズをかくして、兵を鼓舞した。
翌朝、蘇茂と周建は、呉漢をかこむ。呉漢は、蘇茂らを大破した。蘇茂は、湖陵に逃げかえった。
睢陽の人が、劉秀にそむいて、城に劉永をむかえた。蓋延は、睢陽をかこんだ。呉漢は、杜茂と陳俊を広楽にとどめ、睢陽へむかった。
劉秀の車駕は、小長安から、洛陽にもどる。岑彭に、傅俊、臧宮、劉宏ら3万余人をひきいさせ、南して秦豐をうたせた。5月己酉、車駕は洛陽にもどる。5月乙卯みそか、日食した。6月壬戌、大赦した。
027年秋、岑彭が荊州を、蓋延が睢陽をたいらぐ
延岑は南陽をせめ、數城をえた。建威大將軍の耿弇は、延岑と穰県(南陽)でたたかい、延岑を大破した。延岑は、数騎だけで東陽ににげ、秦豊とあわさる。秦豊は、むすめを延岑の妻とした。建義大將軍の硃祜は、祭遵らをひきい、東陽で延岑をやぶった。
延岑は、秦豊をたよった。朱祜は南して、岑彭らとあわさる。
延岑の護軍する鄧仲況は、兵をつれて陰縣(南陽)にいる。劉歆の孫・劉龔を、謀主にかついだ。さきに侍中した扶風の蘇竟は、文書して鄧仲況を説得した。鄧仲況と劉龔は、劉秀にくだった。
蘇竟は、ついに功績をつかわず、在家で寿命をむかえた。
蓋延圍睢陽百日,劉永、蘇茂、周建突出,將走酇;延追擊之急,永將慶吾斬永首降。蘇茂、周建奔垂惠,共立永子紆為梁王。佼強奔保西防。
岑彭は、秦豊を鄧県(南陽)でこばんだ。
027年秋7月、岑彭は、秦豊をやぶった。秦豊を黎丘にかこんだ。べつに、積弩將軍の傅俊を江東におくり、すべて揚州をさだめた。
蓋延は、睢陽を100日かこむ。劉永、蘇茂、周建は、突出して酇県(沛郡)ににげた。蓋延は追いかけた。劉永は、部将の慶吾に斬られた。蘇茂、周建は、垂惠(沛郡の山桑県にある聚名)ににげた。ともに、劉永の子・劉紆をたてて、梁王とした。佼強はにげて、西防をたもった。
027年冬、耿弇が河北に志願し、隗囂が洛陽にくる
耿弇從容言於帝,自請北收上谷兵未發者,定彭寵於漁陽,取張豐於涿郡,還收富平、獲索,東攻張步,以平齊地。帝壯其意,許之。
027年冬10月壬申、劉秀は春陵にゆき、園廟をまつる。
ぼくは思う。南陽を平定してはじめて、劉秀は故郷を手にいれた。後漢の基盤は、南陽の豪族なんかじゃない。南陽はむしろ、討伐の対象だった。と、よくわかる史料。
耿弇は、從容として劉秀に言った。「私を北させ、上谷に出兵させてくれ。漁陽で彭寵をさだめ、涿郡で張豊をとりたい。富平、獲索をうちたい。東して、張歩をせめて、齊地をたいらげたい」と。劉秀は、耿弇をゆるした。
帝謂太中大夫來歙曰:「今西州未附,子陽稱帝,道裡阻遠,諸將方務關東,思西州方略,未知所在,奈何?」歙曰:「臣嘗與隗囂相遇長安。其人始起,以漢為名。臣願得奉威命,開以丹青之信,囂必束手自歸。則述自亡之勢,不足圖也!」帝然之,始令歙使於囂。囂既有功於漢,又受鄧禹爵署,其腹心議者多勸通使京師,囂乃奉奏詣闕。帝報以殊禮,言稱字,用敵國之儀,所以慰藉之甚厚。
027年11月乙未、劉秀は春陵からもどる。この歲、李憲が皇帝をとなえた。百官をおき、九城をもち、10余万をかかえた。
劉秀は、太中大夫の來歙に言った。「いま西州がつかない。公孫述が皇帝をとなえる。関東がいそがしくて、公孫述に手がまわらない。どうするか」と。來歙はこたえた。「私・來歙は、かつて隗囂と長安であった。隗囂は、漢室をたてまつる。隗囂を劉秀につければ、公孫述はおのずと滅亡するでしょう」と。劉秀は、来歙を隗囂にゆかせた。隗囂は、漢室に功績があり、鄧禹の爵署をうけている。
隗囂の腹心は、おおくが「劉秀とつうじろ」と言った。隗囂は、上奏をたてまつり、詣闕した。劉秀は、隗囂に殊禮して、あざなで隗囂をよび、敵國之儀(対等な国の儀礼)をもちい、あつく待遇した。
つぎは028年。ぼくも今から読むところです。つづく。