表紙 > ~後漢 > 主要な論文を抜粋し、光武帝・劉秀の天下統一をまとめる

05) 彭寵の乱、隗囂と公孫述

光武帝が天下統一する過程を、まとめる!史料読解の導入とする!

関中、南陽の情況

◆関中
関中に鄧禹をおくる。三輔の北にいて、南下しない。劉秀が催促するが、鄧禹は長安にむかわず。ぎゃくに鄧禹は、上郡に出兵した。赤眉が扶風にゆくので、鄧禹は11帝の神主を洛陽にとどけた。
鄧禹は、藍田の延岑をせめたが、やぶれた。劉玄の漢中王・劉嘉が、妻の兄・來歙にすすめられ、鄧禹に降伏した。

土屋氏はいう。鄧禹伝は、関中の混乱をよくつたえる。関中には、4つ集団がいる。赤眉、延岑、郡県の大姓、鄧禹と馮異。延岑は「王をとなえ、牧守をおき、関中による」から、劉秀と同質の集団。大姓とは、王歆や芳丹たち「豪傑」のこと。彼らは「営保」して、馮異をこばむ。
「営保」とは、四方を城壁でかこみ、安全を保障した軍事施設。劉盆子伝、儒林の周堪伝、第五倫伝にある。なかで農業した。馬成伝、郭伋伝、鄧禹伝にもある。三輔の豪族は、赤眉から自衛した。「豪傑」は、馮異(劉秀の部将)でも、延岑でもいいから、赤眉をやぶれるほうと、手をむすびたい。張宗は馮異とともに、延岑にむすんだ豪傑の「営保」をこわした(張宗伝)。

鄧禹は、食料がつきた。赤眉に長安をとられた。

◆南陽
秦豊が楚黎王となり、新野、湖陽、蔡陽をふくむ12県をおさえる。建武元年11月、岑彭を南陽におくる。岑彭伝にひく『続漢書』によれば、南陽の東西を、秦豊と岑彭がわけあう。建武二年秋、呉漢が荊州にきた。鄴県にいた呉漢は、朱祐と賈復だけつれ、新野で秦豊をやぶる。呉漢は、新野で略奪した。
破虜将軍の鄧奉(鄧晨の兄子)は、呉漢にいかり、豪族として自衛した。この事件は、呉漢伝には記されない。
建武二年、許邯が呉漢にくだる。だが、夷陵の田戎、漢中の延岑が、秦豊にあわさる。劉秀がでるが、建武五年まで、荊州がたいらがず。本紀は、建武五年3月の津郷、同年6月の黎丘のたたかいを載せる。長江の中流での戦闘をさす。『後漢書』岑彭伝、朱祐伝にくわしい。

ぼくは思う。荊州(長江の中流)は、劉秀の故郷なのに、平定に時間がかかる。親征までして足かけ4年。荊州の抵抗は、赤壁を連想させる。自守した在地豪族がつよい地域。入りこまれると、統一権力が浸透しにくい。南陽が、漢中や夷陵と連携したという記事も、おもしろい。


本紀の建武五年12月、交趾牧の鄧譲が、7郡太守をひきいて奉賀した。江陵を征圧したので、長沙から交趾へのルートを確保した。岑彭伝にある。7郡とは、江夏より以下をさす。李賢が「交州の7郡」とするのは、誤り。

河北、山東の情況;彭寵の反乱

◆河北、劉揚と彭寵の乱
建武二年、河北で2つの反乱。真定王の劉揚と、漁陽太守の彭寵だ。
劉揚(前述)は、すぐ耿純が平定した。建武三年正月に平定し、6月に郭皇后がたつ。劉彊が皇太子となるのは、河北を平定するため。

彭寵は、王郎平定に功績あり。彭寵の長史だった呉漢、狐奴令だった王梁が三公になったのに、劉秀の恩賞がない。漁陽は太守の彭寵が安定させ、塩鉄官があって富強。薊県に幽州牧の朱浮がいるが、彭寵と不仲。建武二年2月(本紀)、彭寵は洛陽によばれたが、こばむ。彭寵は、広陽、上谷、右北平をとなえてた。耿況も恩賞がうすかったが、彭寵をことわった。

小嶋氏はいう。彭寵は、後漢の漁陽太守が、そのまま自立した。郡県制的な支配を、すすめていたと思われる。

秋8月、遊撃将軍の鄧隆が、劉揚をたいらげ、朱浮をたすける。鄧隆は、やぶれた。建武三年3月、涿郡太守の張豊が劉秀にそむく。彭寵は、薊県をおとし、燕王となる。匈奴とむすぶ。
幽州牧の朱浮は、劉秀の親征をもとめた。だが劉秀はことわった。「親征しない。彭寵に内乱があるはず。軍資がたりない」と。なぜことわったか。列伝16・伏湛伝で、伏湛が「軍資を現地調達できない。漁陽より東を斬りすてよう」と言ったから。財政はわるい。兗州、豫州、青州、冀州ら、経済の中心を支配しないから。伏湛は平原太守だったから、この地域の重要性を知る。

小嶋氏は、後漢が封王する地域が、ここに集まるという。

朱浮は飢えた。劉秀は中山にきて、張豊をうつ。本紀によると、建武五年2月に、彭寵が死んだ。つづいて呉漢と耿弇が、平原をたいらぐ。河北が平定された。

◆梁国と瑯邪、劉永と張歩の平定
建武二年3月、蓋延が、梁国の劉永をうつ。とちゅう、劉秀や呉漢がくわわる。建武三年7月まで、3年かかった。劉永伝、龐萌伝、張歩伝、李憲伝(以上、列伝2)、蓋延伝(列伝8)、伏隆伝(列伝16)にくわしい。龐萌は、劉永にねがえる。
伏湛の子・伏隆が、持節して、青州と徐州を安集した。張歩を説得できたが、張歩に殺された。劉秀は張歩を東莱太守とし、劉永は張歩を斉王にすると言った。張歩は、劉永になびいた。
狩野氏は、本紀から、建武六年正月、馬成が李憲をえて、2月、呉漢が董憲と龐萌をえるまでをひく。混乱が4年つづいたのは、劉秀に反対する勢力が、土着する豪族に推されたから。

ふたたび三輔、関中の情況

赤眉は建武三年閏正月、劉秀にくだり、高帝の璽綬をわたす。赤眉がさった関中で、雨後のタケノコで、小集団がうまれる(馮異伝)。藍田の延岑など。いくらか公孫述にくだり、延岑をのぞきて、馮異が解散させた。

小嶋氏はいう。馮異伝によると、県城を単位として、諸勢力が自立したとわかる。県単位の自立では、充分に統治が安定しないことがわかる。郡単位で掌握しないと、有効に機能しない。秦豊、田戎、延岑ら、数県の統治では、短期でおわった。河北で劉秀をささえたのは、郡単位の地方官だった。郡単位は、重要なのだ。彭寵は、漁陽や広陽をおさえ、短期で安定できた。
小嶋氏はいう。郡単位でまとまれないと、木村氏がいうように、豪族は「自守」するしかない。郡単位でまとまって初めて、土屋氏がいう「豪族叛乱」ができる。郡県制的支配の成熟は、小嶋氏の本の、つぎの論文につづく。このページでは、とりあえず、はぶく。
ぼくは思う。さっき脈絡なく、馬援のところで書いた話につづく。

建武五年をくぎり、関中と関東は、ほぼ劉秀にくだる。ただし、同年12月、盧芳が九原で天子を称す。隴右には隗囂、巴蜀には公孫述がのこる。

後漢初期の内政

建武五年10月、魯国で、大司空に孔子をまつらせた。洛陽で、太学をつくる。本紀は「この歳、人手のはいらない農地が、減ってきた」とする。王莽の飢饉から、ようやく生産力が回復した。

ぼくは思う。建武五年が、後漢の統一が、目処づいた歳。おぼえよう。

建安二年から五年の、三公の人事(121P)。大司空の王梁は、呉漢を無視ったので、免ぜられた。宋弘は、自殺してまで赤眉を拒絶した人で、人望でかわれた。宋弘は、邯鄲を推薦した。
大司徒の鄧禹は、赤眉にやぶれたので、学者の伏湛がかわる。伏湛のつぎは、臨淮太守として自立した侯覇(前述)。建武四年、親征したときにくだり、尚書令となる。法典を整備、詔勅の原案づくりをした。『穀梁伝』をおさめた。

隴をえて、蜀をのぞむ

建武五年12月、隗囂は劉秀に、子を入侍させた。5ヶ月後、劉秀にそむき、蓋延をやぶった。隗囂は、どんな経緯があるか。
もともと隗囂は、河西回廊より東に、独立した。方望にしたがい、王を称さず。建武の年号をつかう。劉嘉とともにくだった來歙は「隗囂がしたがうから、公孫述はこわくない」と言った。鄧禹の裨将がそむいたが、隗囂がうった。劉秀は隗囂を、西州大将軍とし、涼州と朔方の専制をみとめた。建武三年、隗囂は劉秀に会見した。あざなで、よばれた。
建武四年、征西大将軍の馮異が、関中でやぶれた。隗囂にたすけられた。劉秀は隗囂に「管鮑のまじわり」と言った。

◆隗囂が、劉秀にしたがう
公孫述は隗囂を、大司空、扶風王とするが、ことわる。河西回廊の竇融は、隗囂につうじ、劉秀につうじない(竇融伝)。のちに隗囂は、劉秀から独立した。しかし竇融は、劉秀についた。
扶風の班彪「王命論」は、隗囂にこたえたもの。建武四年、班彪は「劉玄はコケたが、劉秀が王命をつぐ」と言った。隗囂は「王命は、劉氏とかぎらない」と言った。劉秀は隗囂をうたがい「公孫述をうて」と命じた。隗囂は「盧芳がいるので、公孫述をせめられない」とことわった。

ぼくは思う。隗囂は、ほぼ劉秀の天下が決まってから、はじめて、そむいた。どうして途中でそむくのか。効率がわるいなあ。まるで孫権のようだ。はじめから敵対するという点で、劉備は公孫述にちかい。


馬援は、來歙、隗囂と仲がよく、公孫述と同郷だ。馬援は、隗囂の綏徳将軍となる。隗囂は、馬援を公孫述にゆかせ、劉秀にもゆかせた(建安四年)。馬援は、劉秀に心服して、隗囂に「劉秀にしたがえ」と言った。
このころ劉秀は、梁国の劉永漁陽の彭寵をほろぼした。劉秀は、馬援に三輔の土地をあたえた。隗囂は「馬援が私をうらぎった」と感じた。
劉秀は、河西の竇融を涼州牧とした。劉秀は竇融に「隗囂や公孫述と鼎立せず、南越のように独立せず、後漢をたすけてエラい」と言った。
東の馬援、西の竇融が、劉秀につく。隗囂は孤立した。隗囂は、『古文尚書』につうじた杜林をおいた。

◆隗囂がそむく
劉秀は、東の平定で財政がわるいので、公孫述や隗囂と、話しあいで決着したい。戦端はひらかれず。來歙は隗囂に「劉秀につけ」と説得した。劉秀は隗囂に「公孫述をうて」というが、隗囂はきかず。
建武六年4月、劉秀は隴道から、蜀をうつ。5月、隗囂は劉秀にそむき、公孫述の朔寧王となる。馮異、祭遵、來歙が、隗囂とたたかい、劉秀も出陣した。
建武九年正月、隗囂は病死した。子の隗純がつぐ。呉漢、耿弇、蓋延、馬成、劉尚、馬援がたたかう。冬10月、3年半の戦闘のすえ、隴西が平定された(本紀、隗囂伝)。隗囂は、病死した。

木村氏はいう。隗囂は、在地の行政権と関係なく、豪族をあつめて割拠した。隗囂は、列伝に兄弟がおおい。漢代は、1家5人だ。2人の男子を成人させると、分割相続せねばならないので、ふつうは不可能なはず。だが隗囂に兄弟がおおい。これは隗氏が、単家でなく豪族だった証拠だ。第一次農地の、成紀県の人。春秋時代かそれ以前から開拓され、国家権力から自立した生産関係をもった。
隗囂の部将・覇陵の王遵は、劉秀にくだった。覇陵は、第二次農地の出身だから、劉秀にくだったのだ。第二次農地の出身だと、劉秀にくだる。方望は、扶風の平陵(第二次農地)の人だから、劉氏をいただいた。方望は、隗囂が劉秀からはなれると、かわりに劉嬰をかついだ。扶風の杜林、扶風の趙秉(杜林伝)、河南の鄭興(鄭興伝)は、故郷からはなれて隗囂にしたがっただけ。第二次農地の出身だ。だから、隗囂をうらぎった。申屠剛もおなじ。
ぎゃくに天水や隴西、京兆に第一次農地をもつ人は、隗囂にしたがった。馮翊の王元、天水の王捷、隴西の牛邯など。在地勢力をひきいて、隗囂に添いとげた。
個人の心情でなく、自立的な局地の生産関係を持つかどうかで、隗囂と劉秀をえらんだ。最期に隗囂は、 天水や隴西の農業労働力がたりなくなり、病死した。第一次農地をおさえたが、軍事支配にとどまり、生産力を維持できなかった。
さらに、木村氏はいう。隗囂は、豪族叛乱だから、天水の郡県の長官を殺した。郡県の支配を、のっとろうとした。地方政権である。隗囂は王をとなえないが、「大王」とよばれ、官職を整備した。10郡を郡県的に支配した。 盧芳の「並置守令」と、おなじく。

隗囂の集団は、洛陽の東西に、移住させられた。9年後、隗純は亡命をこころみ、失敗した。 隗囂や竇融は、羌族の兵をつかった。來歙伝にある。

◆劉秀と竇融
隗囂をやぶったのは、竇融のおかげ。前漢の景帝の母は、竇氏である。劉秀の祖先は、景帝である。劉秀は竇融に、『史記』五宗世家、外戚世家、魏其侯(竇嬰)伝をおくった。竇融を「外属」として、劉秀は意識している。
竇融の部下を、太守とした。武威が梁統、張掖が史苞、金城が庫鈞、酒泉が辛ユウ。劉秀は「私と竇融は、左右の手だ」と言った。

◆公孫述をうつ
漢中の延岑、夷陵の田戎がにげこみ、公孫述はつよい。

木村氏はいう。朱祐伝はいう。延岑を攻めたとき、印綬97コを得たと。延岑が独立政権をたてて、郡県制的な支配をおこなう用意があった。百官をおいた。
田戎は「賊」と史料にある。はじめ農民叛乱だった。しかし夷陵の統治機構をうばってから、豪族支配にかわった。流寇をやめて、主従関係をつくった。

公孫述は、騎都尉する平陵の荊邯に「外征しよう」と言われた。土着の豪族は、外征をきらった。蜀漢とおなじだ。
建武八年9月、劉秀は、上邽から洛陽にもどる。天水にいる岑彭に「隴をえて、蜀をのぞむ」と文書した。岑彭は、荊州と交趾に実績があるので、巴蜀も期待した。建武十一年閏2月の荊門の戦いで、岑彭が軍功あり。建武十二年まで、呉漢が公孫述と戦った。岑彭と來歙は、暗殺された。

木村氏はいう。公孫述は、扶風の茂陵(第二次農地)の人。代々の高官だが、故郷にある勢力を、益州に持ちはこべない。隗囂のように、現地の豪族の連合でない。
第二次農地は、王朝が崩壊すると、自立できない。第二次農地で発達した名家は、故郷を捨てて、第一次農地へうつる。移住した土地の豪族とむすび、活動した。竇融、杜林、申屠剛が、故郷からにげて竇融についたのは、第二次農地の故郷が、使いものにならないから。
公孫述が益州でつかったのは、蜀郡の行政的基盤だ。廬江の李憲、南郡の秦豊、漁陽の彭寵と、おなじタイプである。公孫述は、一族や門下掾などの人脈をつれて、移動した。在地勢力の李熊にすすめられて、中央政権的な国家構造をつくった。官位を整備した。
ぼくは思う。後漢末の袁氏を思いだした。王朝の秩序のおかげで、名家になった。だが、いざ戦乱がはじまると、黄巾で荒れた故郷をつかわない。たかい官位(州牧など)をもらい、豊かな土地で割拠した。冀州とか、揚州とか。


建武十八年、蜀郡守将吏の史歆が、成都でそむく。大司馬をとなえた。巴郡を中心とした反乱。呉漢、劉尚、臧宮をつかって、解散させた。渠帥らを、南郡、長沙にうつした。

後漢末は、荊州から益州に、人口がながれこむ。いまと逆!


◆盧芳
盧芳は、建武五年12月、九原で天子をとなえた。建武六年6月、代郡太守の劉興が盧芳をせめたが、戦死した。呉漢や杜茂も、勝てず。建武十二年、盧芳は部将にそむかれ、匈奴に逃亡した。

建武六~十二年の内政

隗囂と公孫述との戦いがあった。余波あり。建武八年、頴川の盗賊、河東の守兵がそむいた。9月、劉秀は上邽からもどり、10月、懐県にゆき、11月洛陽にもどる。洛陽にいた張歩が、瑯邪にもどるが、瑯邪太守の陳俊がしずめた。ほかに建武六年6月、楽浪で王調がそむいた。
建武六年6月、地方官を整理した。4百余県をあわせ、吏職を10分の1にした。145Pに、政策の一覧あり。10分の1税から、30分の1税にした。軍屯をおいたので、田租をやすくした。前漢の景帝をまねた。建武七年、元年の詔につづき、繋囚をはなした。薄葬させた。財政の健全をねらったのだ。
ヌヒを解放して、庶人とした。建武五年までに、あらたに支配した地域が対象。七年には、青州と徐州をねらった。十一年に、集中的にヌヒの保護をいった。十二年三月、統一がなったので、隴蜀のヌヒを解放した。

◆三公の人事と、3人の上疏
大司空の李通は、上党太守を免じたので、これに連座した。つぎは、名声ある郭伋がおされたが、5ヶ月きまらず。郭伋でなく、李通がつく。李通のつぎは、馬成。建武十三年4月、竇融にかわる。馬成は、揚武将軍の府にとどまった。

国家の基本方針に、具申あり。沛国の桓譚は、宋弘におされて議郎となる。桓譚は上疏した。「君主と臣下は対立するが、よく人材登用するように。復讐を禁じよ。農本して、抑商せよ。密告を昌黎せよ。法令を整備せよ」と。みられず。
沛国の朱浮は、劉秀が、劉玄の大司馬のとき、主簿となる。建武六年9月、朱浮は上疏した。「中央も地方も、官吏の任期をのばさねば、成果がでない。任期を5年とせよ。劉秀が、三公に委任せず、刺史の意見をそのまま聞くから、日食するのだ。旧制どおり、三公をはさんで、刺史の意見を聞け」と。みられず。建武七年、朱浮は「博士をえらべ」と言った。しかりとす。
京兆の馮衍は『顕志賦』をつくる。劉秀は、馮衍が劉玄にちかいので、もちいず。

狩野氏のつぎは「2章・光武帝期、2節、中国統一後の施策」です。まずはおく。


以上。つぎは『後漢書』をやるか、『資治通鑑』をやるか。まようなあ。110709