表紙 > ~後漢 > 主要な論文を抜粋し、光武帝・劉秀の天下統一をまとめる

03) 山東、河北、江南の情勢

光武帝が天下統一する過程を、まとめる!史料読解の導入とする!

山東、梁国

◆張歩
張歩は、列伝2。瑯邪による。劉玄の瑯邪太守・王閎をやぶる。梁王の劉永から、輔漢大将軍にしてもらう。青徐州を全任された。泰山、東莱、城陽、コウ東、北海、済南をとなえた。
ふたたび王閎に攻められた。王閎は「劉玄が、漢室の復興する。張歩は、劉永でなく劉玄にしたがえ」と言いたい。張歩は、王閎に妥協した(張歩伝)。
張歩が、勢力をひろげた理由。列伝16・伏隆伝はいう。張歩は、魚塩でもうけたと。商業して、少年をあつめていた。

土屋氏はいう。張歩伝は、起兵の動機、民衆叛乱との関係がわからない。ただし数千人をあつめたのは、武装の必要性があったから。故郷である瑯邪の不其や、となりの泰山では、赤眉が活動した(陳俊伝)。「豪傑」が赤眉と対抗した。赤眉から自衛するために、組織したのだ。劉秀が張歩に外交手段をとったように、組織力があった。
耿弇伝で張歩は「ユウ来や大ユウをやぶった」と言った。民衆叛乱と戦った。張歩と民衆の戦いは、方術伝下にある。


◆伏湛
張歩のいた東北や平原には、劉玄の平原太守・伏湛がいた。列伝16。伏湛の父は、『漢書』88、儒林伝。平原を安定させた。

ぼくは補う。この伏氏が、後漢末に伏完をだす。すごいなあ。

◆劉永
列伝2・劉永伝。景帝のとき、呉楚をとめた梁王の子孫。28城を得た。

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土屋氏はいう。睢陽に都したのだから、武力をひきいたはず。儒林伝の夏恭伝に「王莽末、梁国に盗賊あり」とある。また沛県の周建が「豪族」をひきいて、劉永に合流した。沛国、楚国、汝南でも、豪傑が民衆から、自衛するニーズがあった。汝南の「群賊」が、独行の周嘉伝にある。いずれも劉永の勢力範囲。
劉永伝にある、東海の董憲も、赤眉に対抗した。儒林の包咸伝に、東海の境界で、赤眉にとらわれたとある。また更始元年、劉望が汝南で起兵した(劉玄伝)。劉望は劉玄に滅ぼされたが、劉玄の死後は、汝南を劉永がカバーしたのだろう。

更始帝がやぶれると、劉永は皇帝を称した。

木村氏はいう。劉永の特徴は、梁王の直系で、劉秀よりも地位がたかいこと。梁国が、第一次農地と、第二次農地がまざりあい、あつまる農民叛乱軍への対処が必要だったこと。結論をいそぐと。劉永は、地位のたかさは有利だったが、対処にミスったので、劉秀に負けてしまった。
東方の郡国は、西方(関中や益州)とちがい、第二次農地がまざる。劉永は「賊」や赤眉をおさめた。董憲や張歩とむすんだ。劉秀の部将・蓋延とぶつかる。蘇茂がうらぎって、劉秀にぞくす淮陽国を、劉永にくれた。劉永のほうが、地位がたかいからだ。
劉永は、豪族叛乱の集団。豪族叛乱になるためには、在地性がカギ。はじめから劉永は、梁国8県を郡県支配できている。ちっぽけな舂陵しかない、劉玄や劉秀より、はるかに有利。
だが劉永は、梁国にこもってしまい、中央政権に拡大しなかった。梁国のそとで、農民叛乱とむすび、東海の董憲、斉国の張歩、東平の龐萌を封王しても、名目だけの封王で、郡県支配を浸透させなかった。獲得した28県も、一円支配でなかった。農民叛乱を、郡県支配にとりこまなかった。淮陽をとった蘇茂を、活かしきらなかった。
梁国のまわりは、呂母や赤眉に破壊された、第二次農地があった。第二次農地から、農民叛乱ないし「賊」が流れこみ、第一次農地も分断された。劉永は、農民叛乱に対処して、第二次農地の生産を、なおす必要があった。やらなかった。これが、劉秀とちがう点。劉永がやぶれた理由である。


河北

成帝の子・劉子輿を称した、王郎。『漢書』王莽伝中には、ほかに劉子輿を称した人をのせる。23年12月、邯鄲にはいる。趙国より北、遼東より西は、みな王郎になびく。しかし、ほかの列伝では、河北がすべて王郎になびかない。

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土屋氏はいう。王郎が邯鄲で起兵したのは、「趙国、魏郡が、騒動す」情況だから。


◆漁陽の、彭寵と呉漢
列伝2・彭寵伝。王莽軍にいたが、南陽の呉漢とともに亡命。かつて父が漁陽太守だったので、漁陽にくる。
劉玄は、謁者の韓鴻に、幽州と并州の太守を任命する権利をあたえた。薊県で韓鴻は、同郷(南陽)の彭寵を偏将軍、行漁陽太守事とした。同郷の呉漢(列伝8)を、安楽令とした。呉漢は、王莽末に賓客が違法したので、漁陽に亡命し、燕薊の間にいて、馬商人とまじわった。劉備とおなじ地域だ。漁陽は、『漢書』地理志で、塩鉄官がいたから、利益もあった。
彭寵は、漁陽の蓋延(列伝8)を護軍とし、王梁(列伝12)を守狐奴令とした。

小嶋氏はいう。彭寵は、南陽の人。父が漁陽太守であったこと以外、なにも地縁がない。河北の豪族でない。太守として、郡以下の統治機構をにぎって、劉秀をささえた。
後漢にとって漁陽は亡命先でしかない。彭寵の命令で、後漢ははじめて軍事力をもつ。蓋延は、地元の漁陽の人だが、彭寵の配下として、軍事力をつかった。地縁をつかっていない。
ぼくは思う。呉漢は「漁陽で豪傑とまじわる」と列伝にある。これを地縁というのだ。小嶋氏の議論は、くるしい。そりゃ郡県の機構を、つかったんだろうが。のちに袁紹が董卓と戦うとき、州牧や太守は、官軍をつれた。州牧や太守でない曹操は、兵あつめに苦労した。後漢のおわりになると、統治機構の使い勝手が、ずいぶん良くなっているのかも。勃海にゆかりのない袁紹が、短期間だけでも、大兵力を使えたのだから。


◆上谷の、耿況と耿弇の父子と、寇恂
漁陽の西に、上谷がある。上谷太守は、耿況。列伝9が、耿況の子・耿弇伝。王莽に任命された太守なので、攻撃の対象となる。耿況を助けたのが、現地(上谷)の寇恂(列伝6)、長吏する馮翊の景丹。
漁陽、上谷、涿郡にかこまれて、広陽がある。武帝の孫・劉建が封じられた。4世孫の劉接が、広陽をたもつ。

小嶋氏はいう。上谷太守の耿況は、扶風の人。父が上谷太守だっただけで、まるで上谷に地縁がない。寇恂は上谷の大姓だが、耿況の功曹として動いている。豪族出身である以上に、功曹として、郡の機構にとりこまれている。功曹としての立場を優先して、劉秀にしたがった。
景丹は、馮翊の出身。耿況の長史として、劉秀にしたがった。
ぼくは思う。つぎの耿純の話で書きますが。小嶋氏の結論は、きびしい。寇恂の影響力は、功曹じゃなくて、現地の豪族としてのもの。『後漢書』にそう書いてあるのだから、そう読めばいいと思う。ムリに重みを、操作してはくるしい。


◆信都の、任光、李忠、万修
冀州の東端に、信都がある。信都太守は、南陽の任光(列伝11)。劉氏の集団は、任光から衣服をうばおうとしたが、劉賜にすくわれた。劉玄の信都太守となる。劉秀と、河北で再会した。
都尉の李忠は、東莱の人。さきに信都にはいり、信都で任光をむかえた。

小嶋氏はいう。任光は、劉玄の信都太守。河北出身でなく、在地に立脚しない。任光の配下のうち『後漢書』に立伝されるのは、李忠と万修(ともに列伝11)。どちらも、河北や南陽に、地縁がない。劉秀にしたがったのは、もっぱら信都の吏員としての立場だ。在地豪族でなく、郡県の統治機構として、劉秀をささえた。


◆鉅鹿の、邳肜、劉植、耿純
王莽は、鉅鹿の北部をさいて、和成をつくる。和成太守が、邳肜。邳肜は、王郎に臣従せず。邳肜の父・邳吉は、遼東太守だった。
鉅鹿と信都のさかいに、昌城県がある。前漢は鉅鹿に属し、後漢は阜城と改名して、安平(信都)に属する。昌城に、豪族の劉植がいる。

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小嶋氏はいう。邳肜は列伝11。河北の出身だが、出身の信都でなく、任地の和成太守として、劉秀をささえた。太守の地位に付随して、ヒトやモノの資源を供給した。耿純伝は「鉅鹿の大姓だから、劉玄の騎都尉となる」とある。大姓としてでなく、騎都尉として、劉秀をささえたのだ。
ぼくは思う。小嶋氏は、くるしい。耿純が騎都尉になったのは、鉅鹿の大姓だからだ。小嶋氏は史料を「中略」するが、そこには「現地の豪族に配慮せよ」という、耿純のセリフがある。つまり耿純は、騎都尉にちがいないが、騎都尉になった理由は、大姓だからだ。耿純につき、大姓よりも騎都尉としての性格を強調するのは、イビツだ。どれくらい、イビツか。例えば会社で「彼の命令は、社長として発せられるから絶対だ。彼は、先代の社長の息子であること以外、なにも特別な条件がない。彼の命令の強制力は、血筋でなく、社長という立場によって、裏づけられている」と言うにひとしい。

和成の西に、宋子県がある。宋子の大姓が耿純。劉玄の李軼にみとめられ、趙魏の平定をまかされた。劉秀と会談した。邯鄲の王郎におわれて、宋子県のちかくににげた。耿純の父は、耿艾。王莽の定陶相、劉玄の済南太守となる。しかし、済南が張歩にとられたので、行方しれず。


◆常山と真定の、郭況と劉揚
鉅鹿の西北に、常山と真定がある。劉玄の常山太守は、鄧晨。真定王の劉揚は、女兄弟が郭聖という女を生む。光武帝の皇后となる。郭氏は、真定の著姓。劉揚と郭氏は、独立の姿勢。


江南

◆廬江の李憲
前漢初に淮南国がおかれた。淮南王・劉長(漢書44)が事件をおこし、北の九江、西の六安、南の廬江に分割された。
王莽末、頴川の李憲が、廬江都尉となる。王莽がたおれると、更始元年(23)、李憲が淮南王を称する。建武三年(27)、天子となる。

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小嶋氏はいう。王莽の地方官だが、李憲は「自守」をつづけた。情況を静観したのだろう。王莽の地方官だから、劉玄の即位をきいて、王号を称した可能性がある。劉玄から、地方官の地位を追認されず、自立した。『漢書』地理志で、廬江郡は12県。うち9県をおさえたのだから、李憲の支配は浸透した。


◆臨淮の侯覇
王莽の臨淮太守が、侯覇(列伝16)。そのまま自守した。族父・侯淵は宦官で、大常侍と号した。侯覇は、成帝のとき、太子舎人となる。太子舎人は、『漢官儀』に「良家の子孫を選ぶ」とある。宦官の族子でも、良家と認定された。九江太守の房元から、『穀梁伝』をまなぶ。
江湖ある随県令となる。江湖があれば、寇賊がおおい。随県は、劉秀のいた蔡陽と70キロ。侯覇と劉秀は、まじわったかも。王莽の臨淮太守となる。現地で留任をもとめられたので、劉玄は侯覇を、呼びもどせず。

荊州

◆襄陽の秦豊
舂陵侯家の劉氏(劉秀や劉玄)が、長安や河北にでたのち。豪族は自守して、荊州をまとめず(前述)。南郡の秦豊は、楚黎王を名のる。秦豊伝にひく『東観記』は、支配した県名をしるす。劉秀の故郷も、ふくむ。『郡国志』新野県に「呉漢が秦豊をやぶった地」とある。新野も、秦豊が支配した証左。
ほかに董ソ、許カンが、南陽で起兵した。

◆夷陵の田戎
夷陵に、田戎が割拠した。岑彭伝にひく『東観記』にある。田戎は汝南の人で、掃地大将軍を称した。おなじくひく『襄陽記』では周成王を称した。
劉玄の死後、諸将が南陽にもどった。南陽は、かなり混乱した。

并州の鮑永

并州は、いちおう安定した。鮑永(列伝19)の父は、哀帝の司隷校尉。王莽をこばみ、殺された。劉玄に、尚書僕射、行大将軍事とされて、持節して河東を安集する。偏将軍、裨将軍をおき、并州を安定させた。
大姓の鮑氏がいた。代郡は、扶風の蘇竟(列伝20上)がおさえた。
ほかに群盗の銅馬ほかがいた。河北を中心に、河南の東部、山東の一部。

次回、劉秀がこれらの地域を統一します。つづく。