表紙 > ~後漢 > 主要な論文を抜粋し、光武帝・劉秀の天下統一をまとめる

04) 河北平定、光武帝即位

光武帝が天下統一する過程を、まとめる!史料読解の導入とする!

昆陽の戦い前後

雲台28将のうち、最初から劉秀にしたがうのは、鄧晨のみ。劉秀の姉を妻とするが、姉は小長安で殺された。劉玄の偏将軍となる。
劉秀は、頴川の昆陽で王莽に勝ち、頴陽にすすむ。いっぽう鄧晨は、陽翟より東をとなえた。京県や密県にくる。『後漢書』には、頴川で劉秀にしたがった人がおおい。いま昆陽の戦後に、合流したのだ。

小嶋氏はいう。『後漢紀』がいう、劉秀が河北に連れていくメンバーは、馬成をのぞいて、すべて頴川の人。劉氏に関係する人は、1人もいない。河北にゆくのは、頴川を平定する過程で、劉秀に従属した人である。劉縯が殺されたので、劉秀の政治的位置は、安定しない。劉氏を、つれてゆけない。
劉賜(列伝4)は、劉秀を河北にゆかせた。劉良(列伝4)は、河北にゆかせたくない。劉玄の政権は、一本化されていない。

合流したのは、列伝7・馮異。馮異は、頴川の父城の人。馮異は、父城長の苗萌を説得して、劉秀をむかえた。劉秀は、馮異を主簿、苗萌を従事とした。馮異は、銚期ら4名を推薦した。劉秀は、銚期らを掾史とした。
銚期は、列伝10。頴川の人。父は桂陽太守。

頴川の王覇(列伝10)も、くわわる。おなじく祭遵(列伝10)もくわわる。おなじく傅俊(列伝10)もくわわる。
馮異を劉秀にすすめたのが、丁綝(列伝27)。劉玄の偏将軍となり、河南、陳留、頴川で21郡をおとす。言いかえれば、東の臨淮にいる侯覇、西の襄陽にいる秦豊のあいだに、劉秀がクサビとなり食いこんだ。頴川で、地方豪族とむすんだ。豪族は、家族を皆殺しにされることもある。ときに劉縯が殺され、劉秀があやまり、破虜大将軍となった。
9月、劉玄の司隷校尉となる。洛陽を整備した。馮異は劉秀にすすめた。「左丞相の曹竟、その子・尚書する曹詡とむすべ」と。曹氏は、山陽の人で、劉秀に河北ゆきを主張した。

ぼくは思う。狩野氏は「この曹氏と関係をむすんだことは、劉秀に有利にはたらく」と、伏線をはる。劉秀の河北ゆきは、劉玄政権のなかで、役割が不明。曹氏を知ることで、なにか分かるかも。列伝を読もう。


邯鄲の王郎に、まける

◆河北にゆくときの劉秀集団
10月、河北にゆく。同行するのは、ほぼ頴川の人のみ。馮異、銚期、丁綝、王覇、祭遵、堅鐔。下江だった臧宮も、頴川の人。傅俊は、追いついた。
頴川のほかに、朱浮(列伝23)がくわわる。沛国の人。大司馬主簿から、偏将軍となった。河北では、馮異と銚期が、中心に活躍した。

◆南陽の人たちの動向と、鄧禹
起兵にしたがったのは、李通、陰識、鄧晨らだ。李氏は劉玄政権の中心にいる。陰識は、長安にいる。鄧晨は、劉玄の常山太守となる。以上、劉秀の河北ゆきに、南陽の有力者は、だれもいない。
鄧禹(列伝6)が、途中から参加した。鄧禹は、劉玄につかえず、鄴県でおいついた。 邯鄲で、豪族が2人ついた。趙国の張況と、耿純(前述)だ。

◆薊県における劉秀と王郎
邯鄲は王郎がつよいので、劉秀は、薊県にゆく。上谷太守の耿況の子・耿弇におとなわれた。耿況は、王莽に任命された太守だから、劉秀につながりたい。耿弇は、王郎の自立を聞いて「私は長安の劉玄のため、漁陽、上谷の兵馬をつかう。王郎のために、はたらかない」と言った。
耿弇は劉秀に「漁陽太守の彭寵は、劉秀の同郷だ。上谷太守は、私の父・耿況だ。劉秀は、王郎をやぶれ」と言った。ついに劉秀は、王郎とたたかう。

小嶋氏はいう。はじめ王郎は、趙国の豪族にかつがれただけ。だが武官をおくり「幽州、冀州をとなえる」にいたり、統治機構をえた。任光伝に「郡国、みなくだる」とあるから。王郎の郡県制的支配は、史料にない。しかし、劉玄におかれた地方官を指揮したので、支配が有効だったと推測できる。
ぼくは思う。「郡国」の一語って、そこまで深読みできたんだ!

劉秀の部下は、王郎をおそれ、南にかえりたい。王郎は、成帝の子・劉子輿を名のる。劉秀より、血筋がとうとい。 薊県にいる広陽王の劉接が、24年正月、王郎に応じた。劉秀は南下をきめ、耿弇は上谷にかえる。

『後漢書』王郎伝を抄訳、光武帝の河北デビュー戦の強敵
ぼくは思う。劉秀が、極寒のなかを逃げはじめたトリガーは、劉接だった!

信都太守する南陽の任光が、劉秀をむかえた。劉秀は、鉅鹿の西方に勢力をひろげた。このとき任光が、堂陽や貰県をとった策戦が、両漢交代期の性質をしめす。任光は、南陽の宋広に信都太守をゆだね、「城頭子路、力子都をつれてきた」と宣伝した。赤眉の集団ににている。劉玄の官位をうける。

王郎が信都をせめ、大姓の馬寵が、開城した。任光にかわる宋広と、信都都尉の李忠の母妻をとらえた。劉秀は、李忠を行信都太守事とした。大姓は、王郎と劉秀をえらぶことは、興亡をかけた戦い。郡内の大姓と、赴任した官吏が対立することが、この時代の特徴。

信都の任光につづき、和成の邳肜がくだる。昌城の劉植、宋子の耿純がくだる。劉秀は数万となる。つぎに劉秀が中山をせめるとき、耿純は、自族の廬舎を焼いた。信都とおなじく、大姓が劉秀をすて、王郎につくことを防いだ。

◆鄧禹がやぶれ、劉嘉にたすけられる
劉秀は、廬奴から、中山、新市、常山、防子をくだし、趙郡の境界にゆく。郭皇后をめとる。常山太守の鄧晨に、守りをゆだねる。途中、コウの大姓の蘇公がそむき、耿純がおさえた。占領した郡県でも、すぐ王郎につくリスクがある。
趙国の柏人にきて、朱浮と鄧禹が、王郎の将軍・李育をやぶれた。賈復(列伝7)が、漢中王・劉嘉の文書をもって、劉秀をたすけにきた。おなじく陳俊(列伝8)も、劉嘉の文書をおち、劉秀をたすけにきた。南陽の杜茂(列伝12)、頴川の堅鐔(列伝12)も、劉秀をたすけにきた。
邯鄲から薊県で、劉秀は壊滅した。だが、信都太守の任光にたすけられた。南陽と頴川の豪族をあつめ、河北の豪族をくわえた。

王郎の血筋をあばき、やぶる

河北の北部にいる、漁陽太守の彭寵、上谷太守の耿況は、いかにあるか。漁陽で呉漢、上谷で耿弇が、劉秀をたすけよと運動した。呉漢は、王郎が劉子輿でないと聞いた。漁陽と上谷で、劉秀のために連合ができた。彭寵、耿況、呉漢、厳宣、蓋延、王梁、耿弇、寇恂らが、涿郡、中山、鉅鹿、清河、河間の22県をたいらげ、広阿で劉秀とあわさる。耿弇を偏将軍、耿況を大将軍とした。したに偏将軍と裨将軍をおくことをゆるす。5月、邯鄲の王郎をころす。

◆河北の統合
邯鄲にはいり、文書を焼く。劉玄が、代郡太守の趙永を徴す。耿況は趙永に「劉玄でなく、劉秀につけ」と説いた。劉秀は趙永を代郡太守に、あらためて任じた。趙永が出ているうち、代県令の張畢が、趙永をこばむ。耿弇の弟がたすけ、趙永は代郡にはいった。劉玄と劉秀が、対立した。

小嶋氏はいう。任光、耿況、彭寵がもつ統治機構を手にいれたので、劉秀は劉玄にそむいた。25年、銅馬らをくだした。郡県制的統治機構を、局所でなく、河北一円で手中したので、自立を可能にした。豪族の糾合でなく、統治機構が重要である。1世紀前半の中国社会では、在地社会の有力層を糾合するだけでは、公権に転化するには不充分だった。
ぼくは思う。どう不充分なのか、論証されていない。そして、つぎの時代は、どちらに向かうのか。統治機構が重くなるのか、在地の豪族が重くなるのか。小嶋氏の読み方をスライドすると、後漢末は、どうなるのだろうか。
ぼくは思う。確認すると、頴川では人材を得たけれど、統治機構は、手に入れてなかったよね。頴川は、だれが支配してたっけ。

劉玄は、劉秀を蕭王、苗曾を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守にして、劉秀にぶつけた。22歳の耿弇が、劉秀に言った。「劉玄は、先がない。劉玄の牧守を迎撃せよ」と。耿弇を大将軍、呉漢を大将軍として、迎撃した。劉秀は、銅馬をやぶり、編入した。

木村氏はいう。銅馬は、典型的な、第二次農地の農民叛乱。ほかに、大ユウ、青トク、上江、鉄ケイ、大槍、ユウ来、五幡、高湖、重連、檀郷、五楼、五校、富平、獲索、西防なども、第二次農地の農民叛乱だとする。はぶく。
劉秀は、銅馬の食料がなくなるのを待った。生産組織がこわれているから、よわい。劉秀は、銅馬を再編して、軍隊を強力にした。銚期伝など。


劉秀は、赤眉の別帥を射犬(河内)でやぶった。劉玄の河内太守は、南陽の韓歆。韓歆のもとに、南陽の岑彭(列伝7)がいた。劉縯、朱鮪の部下、淮陽都尉をへて、頴川太守となり、韓歆にくる。岑彭は劉秀に「韓歆は、南陽の大人(大家豪右)だから、もちいよ」と言った。
劉隆(列伝21)、緑林の馬武も、射犬で劉秀にくわわる。

赤眉が函谷関をこえると、鄧禹にむかわせた。「赤眉と劉玄の対立につけこみ、平定せよ」と。劉玄の意識は、赤眉より劉秀と対立する。劉玄は、王匡、成丹、劉均をおくり、鄧禹をふせぐ。李軼、田立、朱鮪、陳僑を洛陽におき、劉秀をふせぐ。

劉秀が皇帝に即位する

劉秀は河北にのこり、魏郡、河内の物資をねらう(馮異伝)。寇恂、馮異に、魏郡と河内をすべさせ、朱鮪にあたる。馮異は、李軼に文書して、李軼の戦意をそいだ。岑彭が、刺姦大将軍となる。
更始三年(25)正月、劉秀は、みずから右北平の東部まで平定した。順水で、死にかけた。耿弇、呉漢、景丹、蓋延、朱祐、邳肜、耿純、劉植、岑彭、祭遵、堅鐔、王覇、陳俊、馬武ら13将軍がくわわる。馬武が劉秀に、皇帝即位をすすめた。4月、公孫述が天子となる。3たび耿純がすすめ、讖緯により即位を決意した。同月、劉盆子も天子となる。
劉玄、公孫述、劉永、劉秀、劉盆子、皇帝が5人である。劉秀は、地方政権にすぎない。ほかに、淮南の李憲、楚国の秦豊、瑯邪の淮南、東海の董憲、漢中の延岑、夷陵の田戎がいる。隴西で隗囂が独立する。
このころ鄧禹は安邑をおとしいれ、河東がたいらいだ。鄧禹は、祭酒の李文を河東太守とし、属県の令長をかえた。鄧禹は、24歳で大司徒となる。

洛陽遷都

7月、新しい人事。鄧禹を大司徒とした。王梁を、讖緯をかついで、大司徒とした。郡臣は「王梁でなく、呉漢や景丹がよい」と言った(列伝12・景丹伝)。劉秀は、呉漢を大司馬、景丹を驃騎大将軍とした。2人を同格に位置づけた。ただし呉漢は、長安で赤眉とたたかうので、邳肜を行大司馬とした。
三公以上に、南陽の人がすくない。河北平定にあたった人が、おもんじられた。

8月、懐県にゆき、呉漢らに洛陽をかこませる。同月、河陽にゆく。黄河をはさみ、洛陽の南北にいる。9月、赤眉が長安にはいる。鄧禹も夏陽にすすむ。鄧禹は「赤眉は、長安を維持できない。私は物資がほしいから、上郡、北地、安定にゆく」と言った。西河太守の宗育が、鄧禹にくだる。

9月、劉秀は卓茂(列伝15)を太傅とした。70余歳だから、実務しない。劉秀は、武人集団というイメージを変えたい。年内に、九卿や河南の長官になったのは、伏湛の行大司馬事、岑彭の行大将軍事など。大司徒の鄧禹、大将軍の杜茂が、洛陽にいないから。伏湛は、平原太守だったが、名儒である。劉秀のかわりに、内政をおさえた。27年、伏湛は、正式な大司徒となる。卓茂とちがい、実務した。
李通は、劉玄の大将軍として、荊州にいた。いま衛尉となる。『後漢紀』では光禄勲となる。劉秀の妹をめとる。
河南の長官は、列伝27・丁鴻伝に「河南太守は丁綝」とあるが、列伝69・儒林伝に「河南尹は欧陽歙」とある。ダブるから、併記する。9月、もと部下の岑彭が説いたから、朱祐がくだった。

法典、制度、教育などを振興した。守成にむかう。
建武二年正月、高廟をおこし、社稷をたて、郊兆をたてた。功臣を列侯に封じた。雲台28将に、王常、李通、竇融、卓茂をくわえた32人。これに準ずる鄧晨、來歙、馬援をおぎない、狩野氏が一覧する(104P)。鄧禹、呉漢、賈復、耿弇、銚期、任光、李忠らが、たかい待遇。
3月、大赦した。法典の編纂。5月、奴隷解放令と補完する命令。
ただし隴右の隗囂、安定の盧芳、梁国の劉永などがいて、統一にとおい。

つぎは、隗囂と公孫述を平定します。つづく。