表紙 > ~後漢 > 主要な論文を抜粋し、光武帝・劉秀の天下統一をまとめる

02) 関中、隴西、巴蜀の情況

光武帝が天下統一する過程を、まとめる!史料読解の導入とする!

更始時代の関中

◆入関以前
王莽、更始帝、赤眉の劉盆子は、長安で自滅した。
23年2月、更始帝が即位。6月、宛県に都した。劉縯を殺す。8月、王匡に洛陽を攻めさせた。申屠建、李松(李通の従弟)に、西して武関を攻めさせた。武関は、長安8関の1つ。9月、王莽は殺され、宛県でさらす。おなじ9月、王匡は洛陽で、王匡と哀章をとらえた。10月、更始帝は洛陽に都した。

ぼくは思う。更始帝は、即位してから7ヶ月で、王莽を殺した。8ヶ月で、洛陽に都した。ふつうに成功している。


◆更始帝の入関
『左伝』学者の鄭興が「劉玄は洛陽から、長安にゆけ」と言い、24年2月、長安に都した。李松、趙萌の意見をもちい、異姓を封王した。

王のリストは、上の『後漢書』劉玄伝にある。

新市、下江、平林の封王がおおい。南陽の豪族は、李通と李軼のみ。はじめ李軼は、劉縯を起兵させたが、のちに劉玄に劉縯を殺せと言った(劉縯伝)。

小嶋氏はいう。李通、李軼、鄧晨が、起兵をうながした。彼らは、劉玄の「純然たる構成員」に添加した。劉秀も、劉玄の「純然たる構成員」にすぎない。劉玄が死んだのち、南陽は劉秀に従順でない。岑彭伝に、不服従な勢力がいた。劉秀と南陽は、親和性がない。宇都宮氏の説は、ちがう。
ぼくは補う。荊州に割拠した秦豊を、岑彭がうった。後述あり。

丞相の李松と、右大司馬の趙萌が、2人で実権をもつ。劉賜、朱鮪、李鉄、李通、王常の5人が、関東の鎮撫にゆく。この5人は、李松に敬遠されたか。さきに劉秀は、関東にいる。
漢中王の劉嘉だけ、国にゆく。同行したのは、新野の來歙(妹が劉嘉の妻)、南陽の賈復、南陽の陳俊。劉嘉は、劉秀が河北で苦戦すると、賈復と陳俊をおくった。南陽劉氏が、劉玄と劉秀のあいだで、亀裂するきざし。
來歙の来氏は、6世祖・来漢が、武帝のとき、南越や朝鮮をうった。來歙の父・来仲は、劉秀の祖姑をめとる。來歙は、劉玄におもんじられず、漢中にいった。

◆更始帝と関中豪族
劉玄は、三輔の豪族に、協力をもとめた。豪族は、自衛した。列伝21・郭伋伝にある。京兆の第五倫もおなじ。劉玄は、扶風の郭氏を味方につけ、左馮翊にした。

狩野直禎「第五倫考」、おなじ本。コピー入手済。

郭伋とおなじころ、安定の盧芳、天水の隗囂が、劉玄にめされた。盧芳と隗囂は、後述あり。

◆更始帝の死;赤眉が長安にはいる
劉玄は、趙萌の娘をめとる。趙萌が横暴した。軍帥将軍の李淑が、劉玄に「制度を整備し、身内のほかも高位につけろ」と言った。24年12月、赤眉が関中にはいる。25年正月、方望が、劉嬰を天子にした。方望は、隗囂とむすぶ。10月、劉玄は劉盆子に、璽綬をわたす。

『後漢書』劉盆子を抄訳、青州黄巾の性質がわかる列伝
土屋氏はいう。王莽政権は、赤眉の平定をあきらめたので、豪族たちは自衛して対抗した。赤眉は「農民叛乱」と木村氏の捉えられたが、ちがう。
『漢書』王莽伝は、呂母と赤眉をむすばないが、『後漢書』はむすぶ。呂母は、国家の専売品・酒を製造した。呂母の息子は、酒造の罪で殺されたのだ。呂母が酒造でつくった金銭で「亡命」少年をやとう。「亡命」とは、五井直弘氏がいうように「本貫をはなれた農民」でない。『漢書』朱雲伝、王莽伝下、『後漢書』明帝紀、章帝紀、和帝紀、安帝紀、劉玄伝、劉賜伝、馬援伝、劉陶伝によると、犯罪者である。王莽の法律がうるさい人が、呂母につどった。
呂母は「海中」にゆく。どこか。『後漢書』董宣伝、法雄伝によると、遼東までわたるとわかる。『太平御覧』にひく謝承『後漢書』、『北堂書鈔』にひく謝承『後漢書』にもある。商人である。商人は、宗教行為になじむ(虞詡伝)。呂母の城陽景王にちかい。
建武九年の本紀に「郡国の大姓および兵長の群盗は、長吏を殺す」とある。呂母の叛乱は、これとおなじ性質であろう。
土屋氏はいう。赤眉は、農民的要素がよわい。上述のように、犯罪者の海賊である。赤眉は劉盆子伝で、県城を攻撃するのに、「徇地」「略有」しない。「徇地」「略有」は、数県や郡国、州のレベルを支配し、官僚を任命する用法である。『後漢書』のほかの列伝から明らか。赤眉は、支配をする気がない。
だが赤眉は、烏合の衆でもない。王望伝には、無秩序な5百人が出てくるが、赤眉はちがう。王莽の正規軍をやぶった。虞詡伝によると「流亡(した豪族)が率いなければ、賊はこわくない」と。赤眉の賊を率いたのは、城陽景王の信仰だった。
ぼくは思う。土屋氏は「亡命」「海中」「徇地」「略有」などの、言葉の定義は、勉強になった。『漢書』『後漢書』の用例を、いっぱい引いてる。しかし、トータルの理解には、つながらなかった。

26年12月、劉盆子は、長安から東して、赤眉に殺された。

志田不動磨「赤眉の賊と城陽景王祠との関係」(『歴史教育』5巻6号、1930)はいう。赤眉は、古来の父老共同体としての構造をたもち、しかも信仰でつながった。
木村氏はいう。信仰だけでは、説明が不充分だ。赤眉がいた、青州や徐州の平野部や周辺、北方の屯田地区は、第二次農地だ。第二次農地では、農民叛乱がおきる。漢室劉氏が復興して、統治を回復してもらいたい。これが「漢を思う」「真主に出現をまつ」と、史料にあらわれる。
はじめの農民叛乱は、天鳳四年(17)、瑯邪の呂母。臨淮の瓜田儀(王莽伝下)。農民叛乱は、「盗賊」と称される。天鳳五年(18)、樊崇や力士都(任光伝)がそむくが、おなじく農民叛乱。王莽末期、治水がこわれて、生産力が低下した。青州、兗州には、叛乱しそうな流亡の農民がいた。
赤眉は、豫州をこえて劉玄の集団に接触すると、すぐにくだった。6年にわたり、王莽の地方官と戦ったのに、なぜ劉玄にくだったか。赤眉は、王莽にかわる、強力な統一権力(劉氏)を待ったからだ。だが劉玄は、河南、頴川、南陽を治めるのみ。樊崇らを州牧や太守に任命するが、生産組織は回復しない。だから赤眉は、劉玄をあきらめた。
仕方ないから赤眉は、みずから政権樹立を決意した。集団を2つにわけた。瑯邪の樊崇らは、頴川の長社、南陽の宛県をぬく。東海の徐宣らは、頴川の陽翟、河南の梁県をぬく。河南太守を殺した。農民叛乱は、わざと郡県の長官を殺さない。だが政権を決意した赤眉は、豪族叛乱の性質をもち、郡県の長官をねらい始めた。郡県の統治機構をのっとるためだ。赤眉はトップに、農民叛乱の指導者・樊崇でなく、豪族叛乱の指導者になれる、劉氏の劉盆子をいただいた。
だが赤眉は、三輔で郡県支配をきちんとやらない。それどころか、三輔の生産組織をこわした。三輔の豪族は「第一次農地」をまもるため、赤眉をふせいで、自守した。
赤眉は、農民叛乱に逆もどりし、「真主」劉秀にくだった。木村氏、おわり。

このとき、天子が5人。更始三年(26)6月、劉秀は天子となる。公孫述、梁王の劉永、劉玄、劉盆子。

隴西

◆竇融集団
涼州は、隴西、天水、安定、金城と、いわゆる河西四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)からなる。後漢になり、武都が益州に、北地が并州にあわさる。天水が、漢陽都尉となる。
列伝13・竇融伝によると、竇融は張掖の属国都尉。梁統(列伝24)は酒泉太守で、ここ安定の人。張掖太守の任仲、武威太守の馬期は、他州の人。任仲と馬期は、竇融が、金城と河西四郡をまとめると、涼州を去る。

竇融は、扶風の人で、張掖太守、護羌校尉、武威太守をだした家。居摂二年、竇融は、東郡太守の翟義をうった。王莽の大司空・王邑にしたがい、昆陽で劉秀とたたかう。
劉玄が長安にくると、劉玄の大司馬・趙萌にくだる。趙萌は、劉玄のもとで横暴した人(前述)。趙萌は、竇融を河北にやりたいが、竇融は「遺種」できる河西にゆきたい。豪族の行動パタンだ。

ぼくは思う。全土の統一よりも、地盤をかためて、ぬくぬく。竇融は、公孫述とならぶ、光武帝のライバル。三輔は、ややこしい地域。

竇融は、張掖の属国都尉となる。

劉玄がやぶれると、梁統と討議して、行河西五郡大将軍となる。武威太守に、酒泉太守の梁統。張掖太守に、張掖都尉の史苞。酒泉太守に、酒泉都尉の竺曾。敦煌太守に、敦煌都尉の辛彤。都尉から太守にあげた。
梁統は、更始二年(24)に酒泉太守となる。高祖父が、河東から北地にうつる。祖父が茂陵にうつる。

ぼくは思う。梁統伝は、順帝の梁冀へとつづく!


◆盧芳集団
安定の盧芳が、郡をおさえる。盧芳は「わたしの曾祖父は武帝、曾祖母は匈奴王の姉」と言った。三水属国の羌胡と、起兵した。劉玄がやぶれると、上将軍西平王となる。羌族、匈奴から、漢帝とみとめらる。
五原、朔方、代郡らも、自立して将軍を称した。

◆隗囂集団
天水の隗囂が、郡をおさえる。王莽の国師・劉歆に召された。

木村氏はいう。劉氏でない叛乱は、隗囂と公孫述が典型的。隗囂は、第一次農地の天水を本拠とした。豪族の叛乱。関中の豪族をあつめた。劉氏の復興を、至上としない。秦漢の統治機構がなくても、生産できるから。

王莽がやぶれると、季父の隗崔が起兵した。隗囂のほうが名声があり、隗囂がかつがれた。隗崔と隗囂は、劉縯と劉秀の関係ににている。隗囂は、軍師に方望をまねいた。高帝、文帝、武帝をまつった。だが隗囂は、劉玄につかえず「真主をまつ」という姿勢。王莽の雍州牧、安定太守、隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌をとなえた。ただし、金城より西は、竇融がつよい。
方望がとめたが、隗囂は、長安の劉玄にゆく。方望は隗囂をはなれ、劉嬰をたてた。隗囂は、劉玄の右将軍となる。隗崔が「劉玄にそむき、天水に帰ろう」と言ったから、隗囂は隗崔を犠牲にした。

赤眉が関中にはいり、劉秀が即位した。隗囂は、天水で西州大将軍を自称した。劉玄をすてた。天水と三輔の出身者で、かためた。天水は、隴西と安定とともに、涼州の東をかたちづくる。天水は、三輔にいちばん近い。

◆馬援のこと
扶風の人。武帝のとき、邯鄲から長安付近に、うつされてきた豪族。うつされたのは、竇融や梁統とおなじ。 馬援は、囚人をにがして、北地に亡命した。北地で人望をあつめ、隴漢のあいだにあそぶ。王莽の従弟・衛将軍の王林に辟され、漢中太守となる。顕著な活動なし。

別件ですが。なぜ後漢初の群雄は、たった1代で、腰がくだけるのか。後漢末は、3世代くらいは割拠した。「勢力の自立に必要な単位の大きさ」が、関係するかも。経済や交通が発展すると、自立に必要な単位が、大きくなっていく傾向がある。
前漢初は、県レベルの争奪をしたらしい。点のとりあい。後漢初は、郡レベルをたもたねば、勢力として自立できない。これは小嶋茂稔氏が論じたこと。線のひきあい。後漢末は、州レベルをたもたねば、勢力として自立できない。面のきりとり。
州レベルになると、自立した経済圏をつくれるか。内側で、完結できる。外側から、攻めとられにくい。よくも悪くも、膠着しちゃうから、統一に時間がかかる。
楚漢戦争は10年弱。赤眉から光武帝の統一まで、30年。後漢末は、郡レベルの闘争がおわるまで、おなじく30年。これは黄巾から、鼎立の期間。そのあと、州レベルの闘争が、60年かかった。つぎは、州をまたいで、勢力を保つ時代がくる。南北朝時代!250年つづく。そりゃ、隋唐までかかるわけです。
T_Sさん(@Golden_hamster)はいう。楚漢の頃は県(城塞都市)がデカく、後漢初や三国頃は豪族のいる郊外がデカくなってきたということを示しているというのもあるのでは。全体として大きくなっていると思われるので、相対的には県(城塞都市)が小さくなったでしょうが、絶対では小さくなったかどうかは断言できません、後漢初については。三国時代は後漢末の戦乱飢餓その他があり絶対で小さくなったと思いますが。


巴蜀

建武元年(25)、公孫述が「成」を建国。扶風の人。列伝3にひく『東観記』によると、三輔にうつされた豪族。天鳳のとき、蜀郡太守となる。巴蜀との関係は、進駐による。公孫述は「真主をまつ」とし、現地の豪族を味方につけた。輔漢将軍、蜀郡太守、益州牧の印綬をもらったと、宣伝した。

木村氏の議論は、小嶋氏に前提になってる。印綬により、前漢の統治機構を、公孫述がそのまま流用したのだと。

建武元年(25)4月、劉玄をこばみ、天子となる。

先日ツイートした。劉備ファンに嬉しい史料?「天下は乱れ、匹夫がのさばる。あなたは、武力がある。威徳をふるえば、覇王の業がなる。蜀地は肥沃で、産業が盛んだ。四方は防御にすぐれ、戦士はつよい。漢水から、秦地をとれ。長江から、荊州や揚州をとれ。皇帝に即位せよ。天命がある」と。公孫述への進言というオチ。益部功曹の李熊が言ったこと。諸葛亮でない。
狩野氏はいう。公孫述をのぞき、反王莽=劉氏がおなじ。公孫述のみ、一姓の再受命を否定した。

そのころ、漢中の延津が、郡をおさえる。

狩野氏はいう。割拠の主体をなしたのは、地域の豪族。豪族が中心になり、もしくは地方官として赴任した人が中心となる。形式はちがうが、豪族が中核にすわるのは共通する。後漢が、豪族の連合体といわれるのは、この点から考えるべき。


つぎは、山東、河北、江南の情況など。つづく。