表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』劉盆子を抄訳、青州黄巾の性質がわかる列伝

01) 旧斉の文化圏で叛乱

『後漢書』列伝第一、劉盆子伝をやります。
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

前漢の璽綬は、王莽-劉玄-劉盆子-光武帝の順でわたった。

劉盆子は、青州の民衆がいただいた皇帝。
後漢末の青州黄巾が、もし群雄らしき組織をつくったら、
こんな動きをするだろうなあ、という思考実験ができます。

城陽景王・劉章の子孫

劉盆子者,太山式人,城陽景王章之後也。祖父憲,元帝時封為式侯,父萌嗣。王莽篡位,國除,因為式人焉。

劉盆子は、泰山郡の式県の人。城陽景王・劉章の子孫である。

劉章の信仰が、山東にある。だから劉盆子は、皇帝にかつがれた。
曹操が弾圧した、済南国の「邪教」も、おなじ劉章の信仰だった。

祖父の劉憲は、前漢の元帝のとき、式侯になった。父の劉萌が、式侯をついだ。王莽が簒奪すると、式侯はのぞかれた。劉萌は、式県の庶民となった。

呂母の乱を樊崇がつぎ、赤眉が河南をまわる

天鳳元年,琅邪海曲有呂母者,子為縣吏,犯小罪,宰論殺之。呂母怨宰,密聚客,規以報仇。母家素豐,資產數百萬,乃益釀醇酒,買刀劍衣服。少年來酤者,皆賒與之,視其乏者,輒假衣裳,不問多少。數年,財用稍盡,少年欲相與償之。呂母垂泣曰:「所以厚諸君者,非欲求利,徒以縣宰不道,枉殺吾子,欲為報怨耳。諸君寧肯哀之乎!」少年壯其意,又素受恩,皆許諾。其中勇士自號猛虎,遂相聚得數十百人,因與呂母入海中,招合亡命,眾至數千。呂母自稱將軍,引兵還攻破海曲,執縣宰。諸吏叩頭為宰請。母曰:「吾子犯小罪,不當死,而為宰所殺。殺人當死,又何請乎?」遂斬之,以其首祭子塚,複還海中。

天鳳元年(14年)琅邪郡の海曲県に、呂母がいた。
海曲の県吏は、小さな罪で、呂母の子を殺した。呂母は、少年らに資産をばらまき、味方につけた。呂母は、少年らに県吏を殺させ、子のカタキをとった。命乞いする県吏に、呂母はいう。
「県吏は、息子を殺した。殺人には、殺人で報いるのだ」

王莽の役人は、法律の執行がきびしかった。呂母は、それを怨んだ。
あとで呂母の赤眉集団は、カンタンな法律をさだめる。山東の民は、猛政でなく、寛治をほしがった。

呂母たちは、海中に立てこもった。

後數歲,琅邪人樊崇起兵於莒,眾百餘人,轉入太山,自號三老。時青、徐大饑,寇賊蜂起,眾盜以崇勇猛,皆附之,一歲間至萬餘人。崇同郡人逄安,東海人徐宣、謝祿、楊音,各起兵,合數萬人,複引從崇。共還攻莒,不能下,轉掠至姑幕,因擊王莽探湯侯田況,大破之,殺萬餘人,遂北入青州,所過虜掠。還至太山,留屯南城。初,崇等以困窮為冠,無攻城徇地之計。眾既浸盛,乃相與為約:殺人者死,傷人者償創。以言辭為約束,無文書、旌旗、部曲、號令。其中最尊者號三老,次從事,次卒史,泛相稱曰巨人。

数年のち、琅邪郡の樊崇が、莒県で挙兵した。このとき青州と徐州は、おおいに飢えた。1年で、樊崇は1万人を越えた。東海郡の徐宣らが合わさり、数万人にふくれた。
王莽は、探湯侯の田況に、樊崇らを討伐させた。樊崇は、田況軍を万余人も殺した。

田況は、『漢書』王莽伝で出てくる。田況は主張した。
「山東で叛乱が起きるのは、新室への謀反ではない。ただ飢えがツライからだ。軍隊で攻めても、鎮まらない。統治を私に任せてください」
しかし王莽は、田況に任せない。あくまで討伐させた。田況が負け、徐州と青州は、新室の支配から、脱落した。王莽のバカ野郎!

赤眉は、文書も軍令も旗印もない。前漢の、末端の役人の呼称を、リーダーの肩書につかった。

『東漢書刊誤』はいう。民衆は、聞き覚えのある役職名とを、肩書につかった。前漢のしたっぱの役職名しか、しらなかった。


莽遣平均公廉丹、太師王匡擊之。崇等欲戰,恐其眾與莽兵亂,乃皆朱其眉以相識別,由是號曰赤眉。赤眉遂大破丹、匡軍,殺萬餘人,追至無鹽,廉丹戰死,王匡走。崇又引其兵十余萬,複還圍莒,數月。或說崇曰:「莒,父母之國,奈何攻之?」乃解去。時呂母病死,其眾分入赤眉、青犢、銅馬中。赤眉遂寇東海,與王莽沂平大尹戰,敗,死者數千人,乃引去,掠楚、沛、汝南、潁川,還人陳留,攻拔魯城,轉至濮陽。

王莽は、平均公の廉丹と、太師の王匡に、樊崇を討たせた。

廉丹と王匡も、王莽伝に出てくる。廉丹は、人望ある名将。

樊崇は、新室の軍と、区別がつかなくなるのを恐れた。樊崇たちは、眉毛をあかく染めた。赤眉とよばれた。

黄色いターバンとの共通性が、よく言われます。
漢室は火徳で、火徳はイメージカラーが赤である。しかし、赤眉の赤は、漢室の火徳とは、関係があるのか怪しい。らしい。

廉丹は戦死し、王匡は敗走した。樊崇は10余万に。
呂母が死んだ。樊崇の軍は分裂し、赤眉、青犢、銅馬となった

銅馬は、あとで光武帝に、編入された。山東の民衆を手にいれ、天下をとる。曹操は、光武帝と同じことをやったのだ。

赤眉は、東海郡に入った。赤眉は、楚、沛、汝南、潁川をかすめた。陳留にもどり、魯城を攻めた。濮陽に転じた。

地図を書いてみるべきだ。河南をウロウロしてる。


権威がほしい樊崇は、更始帝に従いつつ、長安を攻撃

會更始都洛陽,遣使降崇。崇等聞漢室復興,即留其兵,自將渠帥二十餘人,隨使者至洛陽降更始,皆封為列侯。崇等既未有國邑,而留眾稍有離叛,乃遂亡歸其營,將兵入潁川,分其眾為二部,崇與逄安為一部,徐宣、謝祿、楊音為一部。崇、安攻拔長社,南擊宛,斬縣令;而宣、祿等亦拔陽翟,引之梁,擊殺河南太守。赤眉眾雖數戰勝,而疲敝厭兵,皆日夜愁泣,思欲東歸。崇等計議,慮眾東向必散,不如西攻長安。

更始帝(劉玄)が、洛陽に都した。樊崇は、漢室が復興したと聞き、20余人で更始帝を詣でた。更始帝は、樊崇らを列侯にした。樊崇が、封国をもらえる前に、樊崇の手兵が叛いた。

赤眉のリーダー・樊崇は、集権の志向がつよい。だから、漢室の正統に敏感である。漢室から、官位をもらうことに執心した。
だが赤眉は、権威なんてほしくない。食いたいだけ。樊崇は、食糧を確保しつづけねば、地位をたもてない。官位をあきらめ、転戦にもどった。

樊崇は、潁川に入った。赤眉は、長社、宛城、陽翟、梁国を攻めた。河南太守を殺した。赤眉は、洛陽のあたりで連勝したが、故郷の山東に帰りたいと、夜泣きした。樊崇は、求心力をたもつため、長安を攻めることにした。

青州黄巾に、樊崇のようなリーダーがいれば、もっと厄介だったに違いない。行動に理念を注入して、天下を荒らしたに違いない。
赤眉の転戦は、青州黄巾に似ている。黄巾は、青州から冀州に出て、兗州に入りこんだように。赤眉も青州黄巾も、故郷を離れたくない民の群れだ。樊崇は、赤眉をつれまわした。曹操は、黄巾を青州にとどめた。曹操のやり方が、きっと正解。


更始二年冬,崇、安自武關,宣等從陸渾關,兩道俱入。三年正月,俱至弘農,與更始諸將連戰克勝,眾遂大集。乃分萬人為一營,凡三十營,營置三老、從事各一人。進至華陰。

更始二年(24年)赤眉は、関中に入った。

更始帝の軍も、赤眉・樊崇の軍も、武関から入った。鉄壁の防御をほこる関中・長安ですが、武関が弱点だと分かる。補強されたし。

更始三年(25年)弘農郡にきた。赤眉は30万。華陰にきた。

次回、劉盆子が皇帝になります。樊崇が中心をほしがった。