表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』劉植伝を抄訳、光武帝に真定国を乗っ取らせたプロデューサー

王郎の配下・真定王の劉揚をくだす

『後漢書』列伝十一、劉植伝。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。

王郎の配下である劉揚を説得し、光武帝に味方させた。
なかば略奪ぎみ?に、劉揚のめい・郭皇后を、光武帝にめとらせた。
光武帝に、真定国の経営資源を乗っ取らせた功労者?かも知れない。
王郎伝、耿純伝、郭皇后紀でうずまいてた疑問の、解決編です!

王郎に加担せず、故郷の城で数千人と立てこもる

劉植字伯先,巨鹿昌城人也。王郎起,植與弟喜、從兄歆率宗族賓客,聚兵數千人據昌城。

劉植は、あざなを伯先という。巨鹿郡の昌城県の人だ。
王郎が起った。劉植と弟の劉喜は、従兄の劉歆ともに、宗族と賓客をひきいた。

『東観漢記』は、劉喜を、劉嘉とする。劉歆のあざなを、細君とする。
王莽のブレーンとなった劉歆は、あざなを子駿という。もちろん、いま出てきた劉歆とは、別人。いま列伝を読んでいる劉植は、子を劉向という。つくづく、王莽のブレーンの劉歆と、名前をかぶらせる。
(王莽のブレーンの劉歆は、父を劉向という)
劉植の家は、前漢の皇帝との関係性が、書かれていない。傍流? しかし、宗族や賓客がたくさんいるので、末端ではなさそうだ。『後漢書』がわざとウヤムヤにした? 宿題。

劉植らは、数千人の兵をひきいて、昌城によった。

王郎に味方したとも、敵対したとも、書いてない。あとの動きを見れば、王郎とは距離をおいて、籠城したのだと推測できる。


聞世祖從薊還,乃開門迎世祖,以植為驍騎將軍,喜、歆偏將軍,皆為列侯。

光武帝が薊城からかえったと聞き、城門を開いて、迎えいれた。
光武帝は、劉植を驍騎將軍とした。劉喜と劉歆を、偏將軍とした。3人とも列侯になった。

光武帝の足どりを、まだ整理できていないが。光武帝が河北にいったとき、かなり初期に、劉植に助けられた。
劉植は、光武帝の28将のうち、28番目らしい。最下位!


光武帝に郭皇后をめとらせ、真定国の兵をあたえる

時真定王劉揚起兵以附王郎,眾十余萬,世祖遣植說揚,揚乃降。

ときに真定王の劉揚は、兵を起こして、王郎についた。

この1文を確認したいがために、劉植伝にたどりつきました。

劉揚の兵は、10余万いる。光武帝は劉植をおくり、劉揚を説得させた。劉揚は、光武帝にくだった。

2つ不可解だ。9千の劉植が、10余万の劉揚を説得できたのは、なぜか。また、明らかに強い王郎を裏切り、明らかに弱い光武帝に、味方させることができたのは、なぜか。
劉植に名声があったとは、書いてない。となれば、劉植は、かなり貴い血筋だったということだろうか。景帝の子孫である、光武帝や真定王・劉揚が足元にもおよばないほど、貴かったのだろうか。
『漢書』の表を見ても、劉植は出てこない。っていうか、劉植の父の名前すら分からない。不自然だよなあ。
さて、
ぼくが郭皇后の本紀で推測したように、光武帝は、河北の真定王家を乗っとって、再スタートを切ろうとしていた。この作戦を考えて、お膳立てしたのが、いま列伝を読んでいる劉植だったとか?
ぼくは思う。真定王家と「同化」する作戦は、後漢が抹殺したクロ歴史だ。郭皇后を廃したとき、ナカッタコトにされた。だから劉植の出自は記されず、活躍もこまかく記されず、列伝が極端に短いとか?


世祖因留真定,納郭後,後即揚之甥也,故以此結之。乃與揚及諸將置酒郭氏漆裏舍,揚擊築為歡,因得進兵拔邯鄲,從平河北。

光武帝は、真定国にとどまった。郭皇后と結婚した。郭皇后は、劉揚のめいだから、光武帝は結婚したのだ。
劉揚と諸将は、酒の席をもうけた。劉揚は、竹でできた琴を演奏して、結婚を歓んだ。

ほんとうに祝福したのか? だって劉揚は、たった3年後に、光武帝に敵対します。心のそこから納得し、祝福した結婚ではなかろう。
劉植がウラで動き、なかば略奪婚をさせたのかも。光武帝に、真定国の経営資源をうばわせるためだ。
『後漢書』の文書も、略奪婚を想定しているかも知れない。結婚の理由を「劉揚のめいだから」と、ロコツに書いている。いちおう郭皇后本紀では、大人の配慮により「寵愛された」とあるが、あやしい。笑

光武帝は、真定国の兵をえて、邯鄲を抜いた。
劉植は、光武帝にしたがい、河北を平定した。

劉植はあっさり戦死、弟もあっさり戦死

建武二年,更封植為昌城侯。討密縣賊,戰歿。子向嗣。帝使喜代將植營,複為驍騎將軍,封觀津侯。喜卒,複以歆為驍騎將軍,封浮陽侯。喜、歆從征伐,皆傳國於後。向徙封東武陽侯,卒,子述嗣,永平十五年,坐與楚王英謀反,國除。

建武二年(26年)劉植は、昌城侯となった。密縣の賊を討ちにゆき、戦没した。

劉揚を説得したほどの腕前がありつつ、アッサリ死んでしまった。県レベルの賊に負けるとは。劉植は、けっこう弱いのか?
あまり戦さがうまくないなら、劉揚を説得できた理由について、ますます説明がほしくなるところ。

劉植のあとを、子の劉向がついだ。光武帝は、弟の劉喜に、劉植の軍を任せた。劉喜を、驍騎將軍とした。劉喜を、觀津侯に封じた。劉喜が死ぬと、従兄の劉歆を驍騎將軍とした。劉歆を、浮陽侯に封じた。

劉植の兵を、とにかく解散させずに温存した。光武帝の配慮を、ここから読み取ればよいのでしょうか。劉植が、光武帝の河北平定のために、大きく尽くしたと分かる。
また、劉植と劉喜が連続して死んだことから、光武帝が、よほど危ない橋を渡って勝ち抜いたことが推測できる。耿純伝にも、夜襲を受けて、かろうじて生き延びるシーンがあった。

劉喜らの子孫は、楚王の劉英に連座して、国を除かれた。

おわりに

真定王・劉揚についての史料は、これで打ち止め。
最後の疑問は、なぜ劉植が光武帝を支持したか
列伝に書いてない。
答えになっていないが、「個人的にほれこんだ」んだろうなあ。
なぜ、ほれこんだか。まだ妄想が追いつかない。。
ぼくは『後漢書』の脚色を剥がしたいが、
光武帝に魅力があるのは、揺るがないでしょう。天下統一したし。

つぎは、いよいよ光武帝紀でも読み、
河北平定の足どりを詳細に追いましょうか。100812