姓は郭だが、前漢の皇族の孫です
『後漢書』皇后本紀、郭皇后紀。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。
光武帝は、兄を更始帝に殺された。南陽を乾されて、河北にいった。
光武帝が、河北の真定王家と同化して、再出発したことを云います。
景帝の子孫・真定王が、在地の有力豪族と通婚する
光武郭皇后諱聖通,真定槀人也。為郡著姓。父昌,讓田宅財產數百萬與異母弟,國人義之。仕郡功曹。娶真定恭王女,號郭主,生後及子況。
光武の郭皇后は、いみなを聖通という。真定国の槀県の人だ。
郭氏は、郡で名のとおった一族だ。
父の郭昌は、田宅と財産の数百万を、異母弟に与えた。真定国の人は、この行いを「義」と評価した。
郭昌は、郡につかえて功曹になった。
郭昌は、真定恭王のむすめを、めとった。郭主とよばれた。
光武帝も、景帝から7代の孫だ。血筋の貴さが、おなじ。
代数を数えるとき、注意が必要だ。『後漢書』本紀はいう。光武帝は、劉邦から9世の孫だと。
景帝は劉邦の孫だ。だから光武帝は7代の孫だ。景帝から7代でいい。景帝を「1」、景帝の子を「2」と数えないと、ちゃんと7代にならない。
真定王のむすめは、郭皇后と郭況を産んだ。
昌早卒。郭主雖王家女,而好禮節儉,有母儀之德。
郭昌は早死にした。
真定王のむすめは、王家に生まれたが、礼を好み、倹約した。母の徳をそなえた。
光武帝が皇帝をねらう前、家が、どの氏と通婚してたか気になる。
真定王の血をひく皇太子
更始二年春,光武擊王郎,至真定,因納後,有寵。及即位,以為貴人。
更始二年(24年)春、光武帝は、王郎を撃った。真定にきて、郭皇后をおさめた。
光武帝は、郭皇后を寵愛した。
光武帝が即位すると、貴人の位になった。
便宜的にずっと「郭皇后」と呼んでます。でも、彼女が皇后になるのは、したの段です。分かりにくくて、すみません。
建武元年,生皇子彊。帝善況小心謹慎,年始十六,拜黃門侍郎。二年,貴人立為皇后,彊為皇太子,封況綿蠻侯。以後弟貴重,賓客輻湊。況恭謙下士,頗得聲譽。十四年,遷城門校尉。
建武元年、皇子・劉彊を産んだ。
郭皇后の弟の郭況は、つつしみぶかい。16歳で黄門侍郎になった。
建武二年、郭貴人は皇后になった。
南陽の劉氏の地盤は、更始帝がひとり占めしてしまった。兄の劉縯は、更始帝と南陽を奪いあって、殺された。南陽の地縁は、光武帝に味方しない。仕方ないから、新しい地盤を探した。
光武帝は、河北に目をつけた。河北には、おなじ光武帝の子孫・真定王が築いた、地盤がある。これをゆずり受けようと(もしくは盗もうと)した。郭皇后をめとったのは、真定王の地盤を、自分のものにするため。さすがに同姓とは結婚できない。あいだに郭氏の血をはさんだ。
(郭皇后の母は、真定王の劉氏です)
郭皇后をめとった3年後、26年に真定王・劉揚が、光武帝に敵対した。劉揚は、郭皇后のおじだ。劉揚の気持ちは、おそらく、
「劉秀さん。河北の地盤を、真定王の家に、返しなさい」だ。
歴史書では「叛乱」と描かれるが、じつは劉揚の要求のほうが正当かも知れない。劉揚は、怪しげな予言書をデッチあげたと記される。予言書は、光武帝だってやっている。予言書=邪悪ではない。
光武帝は「寛大にも」、劉揚の子をふたたび真定王にした。真定王の家が、河北の地盤のもとの持ち主だからだ。それに、真定王を徹底的につぶせば、真定王の子弟に独立or復讐される。光武帝じしんが、更始帝に対して、同じことをした。笑
劉彊は、皇太子になった。
渡邉義浩氏は、王郎を倒し、河北を平定する手段として、郭皇后を入れたとする。おおむね賛成です。ただ、ぼくは、もっと真定王との結びつきを、大きく捉えたい。
真定王は光武帝にとって、手を結んでおきたい「数ある在地勢力のひとつ」ではない。真定王の血筋を皇太子にするほど、光武帝にとって「唯一の」基盤となる勢力です。1人しか立てられない皇太子に、劉彊を選んだのだから「唯一」と云えると思います。
渡邉氏は、劉揚が「反乱」したとき、「すでに河北を安定的に支配していた」ので「劉揚を誅殺し」たとする。
真定王の家は、用済みの道具、というニュアンスかな。
ぼくは違うと思う。渡邉氏の書くとおりならば、劉揚の子を、真定王にした説明がつかない。劉揚の死後、20年弱も、郭皇后が立っていた説明がつかない。つぶしちゃえばいい。
っていうか、一般向けの読み物用の原稿に、細かく噛みつくのは、よくないですね。でも渡邉氏の、光武帝に関する論文を知りません、、
郭皇后の弟・郭況は、よくへりくだった。声望があった。
弟の郭況は、建武十四年、城門校尉になった。
郭皇后が廃され、劉彊が皇太子から降ろされる
其後,後以寵稍衰,數懷怨懟。十七年,遂廢為中山王太后,進後中子右翊公輔為中山王,以常山郡益中山國。徙封況大國,為陽安侯。後從兄竟,以騎都尉從征伐有功,封為新C745侯,官至東海相。竟弟匡為發幹侯,官至太中大夫。後叔父梁,早終,無子。其婿南陽陳茂,以恩澤封南B171侯。
のちに光武帝の寵愛は、おとろえた。しばしば郭皇后は、恨みを口にした。建武十七年(41年)、郭皇后は、皇后を降ろされた。
郭皇后の廃位を、感情の問題で片付けようとしている。感情の対立は、そりゃあっただろうが、これは意図的に問題をすり代えていると思う。光武帝は、真定王の重要性が落ちてきたので、除いた。万人が見抜くところ。
時期について。
紙屋正和「王莽期の地方財政」福岡大学人文論叢38(4)はいう。
西暦39年、光武帝は、いちど王を全廃した。すべての王が、公に降ろされた。41年に、光武帝の子の系統にしぼって、王が立てられた。
これは、
後漢が、南陽の劉秀の家の王朝だと、宣言されたタイミングだ。真定王をはじめとして「前漢の皇族の皆さん」は、排斥されないまでも、蚊帳の外になった。このとき初めて、真定王の家は、皇帝の家でなくなった。劉彊は、皇太子としての資格をうしないました。
二十年,中山王輔複徙封沛王,後為沛太后。況遷大鴻臚。帝數幸其第,會公卿諸侯親家飲燕,賞賜金錢縑帛,豐盛莫比,京師號況家為金穴。二十六年,後母郭主薨,帝親臨喪送葬,百官大會,遣使者迎昌喪柩,與主合葬,追贈昌陽安侯印綬,諡曰思侯,二十八年,後薨,葬於北芒。(後略)
光武帝は、郭皇后の一族を、大切にした。
建武二十八年(52年)郭皇后は、死んだ。
おわりに:真定王がからむと、光武帝は煮え切らない
王郎伝と耿純伝で、もちこした宿題が解けました。
劉秀は河北に拠点を得るため、真定王の家と、同化しようとしている。だから、真定王がからむと、言動が怪しくなる。冷静でなくなる。
真定王が臣従した王郎に対し、その正統性をムキになって否定。
(王郎に関する記録を、ガサッと抹殺したから、列伝がみじかい?)
真定王のおい・耿純は、とくべつ大切にして、たらしこむ。意気投合。
真定王の劉揚が「反乱」しても、叩きつぶせない。むしろ子を王に。
本命の陰氏をさしおき、真定王の孫・郭皇后を寵愛、皇太子も。
あまり逸話のない平凡な郭皇后の親族を、鄭重にあつかう。
つぎは、劉揚が王郎のもと部下だと記す、劉植伝をやろう。
余談ですが、郭皇后と劉彊の家から、後漢末に劉虞がでます。
劉虞は、真定王家があった、北方で活躍。劉虞は、皇族として扱われるのを、イヤがった。関係あるのかなあ。ないだろうな。100811