廬江の舒城で、足かけ4年、天子を名のる
『後漢書』列伝二、李憲伝。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。
新末の群雄で、光武帝のライバルのうち、
長江ぞいで天子を名のった人がいました。ご紹介。
王莽のとき、廬江太守となり、長江の賊を討つ
李憲者,潁川許昌人也。王莽時為廬江屬令。
李憲という人は、潁川郡の許昌の人だ。
県名は「許」一文字が正解。ごもっとも。
王莽のとき、廬江郡の屬令となった。
廬江郡の郡治は、舒県です。周瑜のふるさとです。
莽末,江賊王州公等起眾十余萬,攻掠郡縣,莽以憲為偏將軍、廬江連率,擊破州公。莽敗,憲據郡自守。
莽新の末、長江の賊・王州公らが、10余万で起兵した。
長江の賊は、郡県を攻め掠んだ。
王莽は、李憲を新の偏将軍にした。李憲は、廬江の連率になった。
首都は長安だ。首都が洛陽のときと違い、潁川郡は首都のお膝元ではない。とりあえず関東出身ということで、南方を任されたのかな。李憲が、わざわざ廬江郡にいった、理由は記されない。
莽新がほろびると、李憲は廬江郡で自立した。
淮南王から、廬江の天子となる
更始元年,自稱淮南王。建武三年,遂自立為天子,置公卿百官,擁九城,眾十余萬。
更始元年(23年)李憲は、淮南王をみずから称した。
建武三年(27年)李憲は、ついにみずから天子を称した。
李憲は、公卿と百官をおいた。九城からなる首都圏をととのえた。李憲の軍勢は、10余万である。
新末の揚州は、寿春や廬江あたりが「南端」か
四年秋,光武幸壽春,遣揚武將軍馬成等擊憲,圍舒。至六年正月,拔之。憲亡走,其軍士帛意,追斬憲而降,憲妻子皆伏誅。封帛意漁侯。
建武四年(28年)光武帝は、寿春にきた。
光武帝は、揚武將軍の馬成らに、李憲を討たせた。後漢軍は、舒城をかこんだ。
建武六年(30年)正月、舒城をぬいた。
李憲をたおした馬成は『後漢書』列伝十一。そのうち。
李憲はにげたが、部下に殺された。部下は、光武帝に降伏した。李憲の妻子は、みな殺された。
李憲をころした部下は、漁浦侯に封じられた。
後憲餘黨淳於臨等猶聚眾數千人,屯EF69山,攻殺安風令。楊州牧歐陽歙遣兵不能克,帝議欲討之。廬江人陳眾為從事,白歙請得喻降臨;於是乘單車,駕白馬,往說而降之。EF69山人共生為立祠,號「白馬陳從事」雲。
のちに李憲の残党である淳於臨らが、数千人をあつめて、潜山にこもった。安風の県令が殺された。
後漢の揚州牧・歐陽歙は、勝てない。
長江ぞいは「後進」地区だ。割拠はしても、天子を育てる土壌はない。新末では、廬江が、精一杯の最南端かな。呉郡や会稽郡は遠すぎる。
廬江の人・陳衆が、ただひとりで白馬にひかれ、説得をした。李憲の残党は、降伏した。潜山の人は、「白馬陳従事」のほこらをたてた。
おわりに
あまりに、あっけない列伝でした。
長江ぞいに、天子を名のる群雄がいて、光武帝が寿春から軍をおくった。王を自称してから、7年も持ちこたえた。
これが確認できれば、充分なのです。おしまい。100812