01) 光武帝に鉅鹿を断念させる
『後漢書』列伝第二、耿純伝。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。
王郎伝の抄訳で保留した、2つのナゾを解くため、耿純伝やります。
1.なぜ耿純は光武帝に、鉅鹿をあきらめろと云ったか
2.王郎の討伐がらみで、光武帝は皇族にやましいことをした?
この耿純伝を読むと、上の2つのナゾにくわえて、
光武帝が河北にいったとき、更始帝から追放されたも同然だったことが分かります。兵力ゼロ。物資ゼロ。権限ゼロ。ぎゃくに王郎は強大!
王莽の朝廷に就職し、尚書となる
耿純字伯山,巨鹿宋子人也。父艾,為王莽濟平尹。純學于長安,因除為納言士。
耿純は、あざなを伯山という。巨鹿郡の宋子県の人だ。
耿純の父・耿艾は、莽新で済平尹となった。
王莽のときの官位は、『漢書』と『後漢書』の列伝に、散りばめられている。馬援しかり。王莽の朝廷を、間接的に再現してみるのはアリかも?
耿純は長安で学んだ。納言の士となった。
長安で学ぶのは、光武帝とおなじ。そのまま就職できたのは、光武帝とちがう。光武帝は劉氏だから、迫害されていました。父は早くに死んだし。
更始帝の将軍・李軼が、耿純に諌められる
王莽敗,更始立,使舞陰王李軼降諸郡國,純父艾降,還為濟南太守。
王莽がやぶれ、更始帝が立った。更始帝は、舞陰王の李軼に、もろもろの郡国を降伏させた。
劉玄(更始帝)伝にある。使與李軼、李通、王常等鎮撫關東。つうじる。
耿純の父・耿艾は、李軼にくだった。もとの濟南太守にもどった。
時李軼兄弟用事,專制方面,賓客遊說者甚眾。純連求謁不得通,久之乃得見,因說軼曰:「大王以龍虎之姿,遭風雲之時,奮迅拔起,期月之間兄弟稱王,而德信不聞於士民,功勞未施于百姓,寵祿暴興,此智者之所忌也。兢兢自危,猶懼不終,而況沛然自足,可以成功者乎?」
ときに李軼の兄弟は、この地方で、権力をほしいままにした。李軼のところに、賓客や遊説にくる人がおおい。耿純は、なかなか李軼に会えない。耿純は、やっと李軼に会った。
「李軼さまのご兄弟は、チャンスをつかみ、大王となりました。ですが万民に、李軼さまの徳信がとどいておりません。ご自分より、万民を優先すれば、もっと成功するでしょう」
ぼくの抄訳では落としてしまったが、『易経』や『史記』をパロッた発言。きっと李軼は、元ネタに気づかないだろう。笑
軼奇之,且以其巨鹿大姓,乃承制拜為騎都尉,授以節,令安集趙、魏。
李軼は、耿純の発言を、奇特だとした。
また、耿純が鉅鹿の大姓なので、李軼は耿純を騎都尉にした。耿純に節をさずけ、趙魏のあいだの豪族を帰順させた。
光武帝に邯鄲を任されるが、王郎に追い出されて流浪
會世祖度河至邯鄲,純即謁見,世祖深接之。純退,見官屬將兵法度不與它將同,遂求自結納,獻馬及縑帛數百匹。
たまたま光武帝が、黄河をわたり、邯鄲にきた。耿純はすぐに光武帝と会った。
耿純は、つぎからつぎへと、面会に貪欲だ。王莽がたおれ、だれが正統か分からない。だれを頼るべきか、見極めている。河北の諸勢力は、みんな同じだろう。ちょっと評判があがれば、たちまち全員が帰順するかも?
王郎が、ほぼ一瞬で、幽州と冀州を味方につけたように。
光武帝は、耿純をていねいに接待した。耿純が見たところ光武帝は、更始帝のほかの将軍とちがい、軍紀がゆき届いている。耿純は、光武帝との結合をもとめ、馬と布をプレゼントした。
世祖北至中山,留純邯鄲。會王郎反,世祖自薊東南馳,純與從昆弟、宿、植共率宗族賓客二千餘人,老病者皆載木自隨,奉迎於育。
光武帝は北の中山にいった。耿純を、邯鄲にとどめた。
王郎が、光武帝に叛いた。光武帝は、薊城から東南に馳せた。耿純は、宗族や賓客を2000余人ひきいて、光武帝と育県であわさった。
王郎伝はいう。皇族の劉林が、趙国の豪族をつれて、邯鄲に入った。王郎は、前漢の成帝の子だと名のり、支持をえた。
光武帝が邯鄲に「仮置き」した鉅鹿の耿純より、地元・趙国を味方につけた王郎のほうが有利だ。今回も、ほぼ戦ってない。なだれ式に、主導権がうつるのだろう。混沌!
耿純が邯鄲を出るとき、老人や病人を木に載せた。
ともあれ、鉅鹿の耿純とその仲間たちは、邯鄲に1ミリの居場所もなくなったことが分かる。老病でも、出ていったのだから。
拜純為前將軍,封耿鄉侯,、宿、植皆偏將軍,使與純居前,降宋子,從攻下曲陽及中山。
光武帝は、耿純を前將軍にした。耿純の従弟たちを、みな偏将軍とした。耿純は宋子をくだし、下曲陽と中山の攻撃にしたがった。
光武帝に投資して、故郷の屋敷を焼き払う
是時,郡國多降邯鄲者,純恐宗家懷異心,乃使、宿歸燒其廬舍。世祖問純故,對曰:「竊見明公單車臨河北,非有府臧之蓄,重賞甘餌,可以聚人者也,徒以恩德懷之,是故士眾樂附。今邯鄲自立,北州疑惑,純雖舉族歸命,老弱在行,猶恐宗人賓客半有不同心者,故燔燒屋室,絕其反顧之望。」世祖漢息。
このとき郡国では、邯鄲の王郎にくだる人が多かった。
耿純は、宗族が王郎にしたがうのを恐れ、屋敷を焼かせた。
光武帝は、耿純が屋敷を焼いたワケを聞いた。耿純は答えた。
「あなたは戦車1台だけで、河北にきました。あなたは、財産はもたず、賞与をバラまきません。ただ恩徳だけで、河北を懐かせようとしています。いま王郎が邯鄲にいます。わたしの宗族が、王郎にしたがうのを避けるため、わざと退路を絶ちました」
ぼくは思う。光武帝は、更始帝のしたから、追放か逃亡と同じような立場で、河北にきたようです。兄の劉縯を殺されて、ジリ貧だ。
更始帝が王を封じたとき、光武帝は王にしてもらってない。異姓の李軼ですら、王になったときに。光武帝は、更始帝政権では、いないも同然だ。
李軼と光武帝の命令系統は、どうなっているんだろう? きっと李軼が、正式に河北の平定を請け負っている。光武帝は、ほぼ無視。
光武帝は感心して、ため息をついた。
次回、どうやって逆転するのでしょうか。つづく。