02) 真定王・劉揚をとらえる
『後漢書』列伝第二、耿純伝。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。
王郎伝の抄訳で保留した、2つのナゾを解くため、耿純伝やります。
1.なぜ耿純は光武帝に、鉅鹿をあきらめろと云ったか
2.王郎の討伐がらみで、光武帝は皇族にやましいことをした?
王郎の邯鄲を平定、銅馬をくり入れる
及至鄗,世祖止傳舍,鄗大姓蘇公反城開門內王郎將李惲。純先覺知,將兵逆與惲戰,大破斬之。從平邯鄲,又破銅馬。
鄗県にきて、光武帝は駅舎にとどまった。
鄗県の大姓である蘇公が、王郎の部将を迎えるため、城門をひらいた。耿純は、さきに開門のことを知り、王郎の部将を迎撃して斬った。
耿純は、邯鄲の平定にしたがった。
王郎伝はいう。光武帝が、王郎についた鉅鹿を囲んだとき、耿純が「あきらめましょう」と云った。耿純は、鉅鹿の大姓だ。手引きして、開城させてくれても良さそうなのに。
なぜか。おそらく鉅鹿が、王郎をつよく支持したから。耿純の宗族ですら、王郎になびいた。宗族がなびくのを防ぐため、耿純が屋敷を焼いたことは、前ページで見ました。
なんの裏づけもない、更始帝からも見捨てられた光武帝より、成帝の子を名のり、趙魏の豪族に裏うちされた王郎のほうが魅力的なのは、当然だ。
耿純は、銅馬をやぶった。
ほぼ兵のない曹操が、青州兵を手に入れて、急に強くなったのと同じ。
赤眉に夜襲されて死にかけ、光武帝に放置される
時,赤眉、青犢、上江、大彤、鐵脛、五幡十餘萬眾並在射犬,世祖引兵將擊之。純軍在前,去眾營數裏,賊忽夜攻純,雨射營中,士多死傷。純勒部曲,堅守不動。選敢死二千人,俱持強弩,各傅三矢,使銜枚間行,繞出賊後,齊聲呼噪,強弩併發,賊眾驚走,追擊,遂破之。馳騎白世祖。
ときに、赤眉ら10余万の賊が、射犬にいた。光武帝は、赤眉らを攻めていた。
耿純の軍は、先頭にいた。賊の夜襲をうけて、おおくが死傷した。耿純は、決死の2000人を選び、赤眉らを後ろから攻めた。赤眉らは、逃げた。耿純は、馬をとばして、光武帝に報告した。
世祖明旦與諸將俱至營,勞純曰:「昨夜困乎?」純曰:「賴明公威德,幸而獲全。」世祖曰:「大兵不可夜動,故不相救耳。軍營進退無常,卿宗族不可悉居軍中。」乃以純族人耿B025為蒲吾長,悉令將親屬居焉。
光武帝は、翌朝に耿純をねぎらった。
「昨夜は、苦労したね」
「あなたの威徳のおかげで、生き残りました」
もしくは、耿純の子孫が、名誉のために創作したとか。笑
光武帝は、耿純の一族が全滅するのを避けるため、耿純の部曲を分けた。耿純の親族に、別隊をまかせた。
肩を折ったので、従弟に軍隊をまかせる
世祖即位,封純高陽侯。擊劉永于濟陰,下定陶。初,純從攻王郎,墮馬折肩,時疾發,乃還詣懷宮。帝問:「卿兄弟誰可使者?」純舉從弟植,於是使植將純營,純猶以前將軍從。
光武帝が即位した。耿純は、高陽侯になった。
劉永を濟陰に討ち、定陶をくだした。
はじめ王郎を攻めたとき、耿純は落馬して、肩を折った。ときに傷が、ぶり返した。耿純は、従弟の耿植を、代理の指揮官にたてた。
指揮をやめたが、耿純は、前将軍のままである。
真定王・劉揚のおいとして、天子候補をつぶす
時真定王劉揚複造作讖記雲:「赤九之後,癭揚為主。」揚病癭,欲以惑眾,與綿曼賊交通。
ときに真定王の劉揚は、予言書をつくった。
光武帝は、劉揚を味方にするため、劉揚のめい(妹の子)をめとった。これが、光武帝の郭皇后。
渡邉義浩氏はいう。光武帝は、劉揚を味方にしたから、王郎を倒せたと。
ってことは、いま劉揚が裏切ったのか? よく分からん。。
王郎を推戴した、趙王・劉林との関係も、よく分からん。。
予言書はいう。
「漢の9代目のあと、首にコブのある揚が、主君となる」
劉揚は、首にコブがある。万民を惑わした。
しかし9代目とは、光武帝のことだけを指すのだろうか? 光武帝は、後漢を成立させたあと、自分を漢の9代目にするため、前漢の皇帝を数人、イナイコトにした。こんな操作が必要だということは、裏を返せば、世間の常識では、9代目=光武帝となっていない。
また、光武帝は若い。後任というのは、ムリがある。劉揚がいう9代目とは、光武帝のことじゃない? 予言書の解読に、正解はないのだが。
建武二年春,遣騎都尉陳副、遊擊將軍鄧隆征揚,揚閉城門,不內副等。乃複遣純持節,行赦令于幽、冀,所過並使勞慰王侯。密敕純曰:「劉揚若見,因而收之。」純從吏士百餘騎與副、隆會元氏,俱至真定,止傳舍。揚稱病不謁,以純真定宗室之出,遣使與純書,欲相見。純報曰:「奉使見王侯牧守,不得先詣,如欲面會,宜出傳舍。」
建武二年(26年)光武帝は、将軍をおくって、劉揚を召しだした。劉揚は、城門をとざして、光武帝の将軍を入れない。
光武帝は、耿純に節を持たせ、幽州と冀州に、大赦を言いわたした。耿純は、通過した土地で、王侯をなだめた。
光武帝は、ひそかに耿純に命じた。
「もし劉揚と会ったら、つかまえてしまえ」
耿純は、劉揚のおい(姉妹の子)である。
劉揚は、耿純に書状をおくり、耿純を呼びつけた。
耿純は、ことわった。
「王侯や牧守ですら、(光武帝の使者である)私に会うため、みずから出てきました。劉揚さんも、ご自分から出てきてくれませんか」
時,揚弟臨邑侯讓及從兄細各擁兵萬餘人,揚自恃眾強而純意安靜,即從官屬詣之,兄弟並將輕兵在門外。揚入見純,純接以禮敬,因延請其兄弟,皆入,乃閉B22B悉誅之,因勒兵而出。真定震怖,無敢動者。帝憐揚、讓謀未發,並封其子,複故國。
ときに劉揚は、1万余人の兵がいた。耿純は、おとなしい。劉揚は油断して、耿純に会いにきた。耿純は、礼敬をもって、劉揚と面会した。
劉揚の兄弟がすっかり部屋に入ってから、耿純は、門を閉ざした。劉揚の兄弟を殺した。真定国の人は怖れて、動けなかった。
光武帝は、劉揚のはかりごとが未遂に終わったから、これを憐れんだ。光武帝は、劉揚の子たちを、もとの真定国の封じた。
「憐れみ」が分からない。光武帝は、劉揚のはかりごとが、成就しなかったことを、惜しんだのか? そんなわけない。
王郎伝で光武帝は「もし王郎が、ほんとうに成帝の子でも、天下は取れなかったぞ」と云った。光武帝は、皇族がからむと、言動が不審になる。
東郡太守となり、名前だけで賊を平定する
純還京師,因自請曰:「臣本吏家子孫,幸遭大漢復興,聖帝受命,備位列將,爵為通侯。天下略定,臣無所用志,願試治一郡,盡力自效。」帝笑曰:「卿既治武,複欲修文邪?」乃拜純為東郡太守。時,東郡未平,純視事數月,盜賊清甯。四年,詔純將兵擊更始東平太守范荊,荊降。進擊太山濟南及平原賊,皆平之。居東郡四歲,時發幹長有罪,純案奏,圍守之,奏未下,長自殺。純坐免,以列侯奉朝請。從擊董憲,道過東郡,百姓老小數千隨東駕涕泣,雲「願複得耿君」。帝謂公卿曰:「純年少被甲胄為軍吏耳,治郡乃能見思若是乎?」
耿純は洛陽で云った。「武官だけじゃなく、文官として働きたい」
光武帝は笑った。「耿純は、武を治めた上に、文を修めたいのか」
この笑いをもって「臣下とフレンドリーに話す光武帝」というキャラがカタチづくられるなら、ぼくは反対する。笑
耿純は東郡太守となり、治世に成功した。
4年目に連座させられ、耿純は東郡太守を辞めた。東郡の人は泣いて、耿武を戻してくれと頼んだ。光武帝のコメント。
「耿純は、若くして武功があった。太守としても民に慕われたねえ」
六年,定封為東光侯。純辭就國,帝曰:「文帝謂周勃'丞相吾所重,君為我率諸侯就國',今亦然也。」純受詔而去。至鄴,賜谷萬斛。到國,吊死問病,民愛敬之。
建武六年(30年)東光侯となった。耿純は、任国に行くことをこばんだ。光武帝は、国に行けと説得した。
「前漢の文帝は、丞相の周勃に云った。『私はあなたを重んじている。あなたには、私のために、率先して任国に行ってもらいたい』と。私が耿純さんに国に行ってもらいたいのは、文帝と同じ気持ちからだ」
耿純は国に行った。
八年,東郡、濟陰盜賊群起,遣大司空李通、橫野大將軍王常擊之。帝以純威信著于衛地,遣使拜太中大夫,使與大兵會東郡。東郡聞純入界,盜賊九千余人皆詣純降,大兵不戰而還。璽書複以為東郡太守,吏民悅服。十三年,卒官,諡曰成侯。子阜嗣。
建武八年(32年)
東郡と済陰の盗賊が、挙兵した。東郡の盗賊は、耿純がきたと聞いて、9000人が降った。後漢軍は、戦わずに帰った。耿純は、ふたたび東郡太守となった。
建武十三年(37年)在官のまま、耿純は死んだ。成侯。
おわりに
王郎伝を読んだとき、2つのナゾが残りました。
1.なぜ耿純は光武帝に、鉅鹿をあきらめろと云ったか
2.王郎の討伐がらみで、光武帝は皇族にやましいことをした?
ひとつめは解決。鉅鹿の人が、みな王郎を熱烈に支持したから。
光武帝は、更始帝から兵力も財産も権力も与えられず、ひとりで河北に来たばかりだった。もし光武帝が、ゴリ押しして鉅鹿を開城させても、すぐに裏切るだろう。
ふたつめは、ナゾのまま。王郎が成帝の子だというのが、どこまで独善的な「自称」なのか分からない。渡邉義浩氏が、王郎の部下だったという、真定王の劉揚についても、光武帝はアイマイな対応だ。
郭皇后本紀でも読めば、分かるだろうか。100811