029年冬、隗囂が洛陽に人質する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
029年12月、盧芳が五原で、皇帝となる
029年11月、大司徒の伏湛を免じた。侯霸を大司徒とした。
侯覇は、太原の閔仲叔の名声をきいて、辟した。侯覇は、政事がヘタで、苦労した。閔仲叔は言った。「侯覇は、政事に苦労しているのに、私に質問してくれない。辟して、問わない。これは、人材を失わせる方法だ」と。閔仲叔は、とがめる文書を投げいれて、侯覇を去った。
はじめ五原の李興、隨昱と、朔方の田颯と、代郡の石鮪、閔堪は、おのおの起兵して、みずから将軍をとなえた。匈奴の単于は、李興らと和親した。匈奴は、盧芳を漢地にもどして、皇帝にしたい。李興らは、単于の領土にゆき、盧芳をむかえた。12月、李興らと盧芳は、入塞した。九原縣(五原)に都した。
盧芳は、五原、朔方、雲中、定襄、雁門の5郡をかすめた。守令をぶつけ、胡族とつうじて、北邊をおかした。
馮異は、関中をおさめた。3年、関中にいて、上林に人があつまった。劉秀に上章があった。「馮異は、威權がおもい。百姓が歸心する。馮異は、鹹陽王を名のっている」と。
劉秀は馮異に、上章をしめした。馮異はおそれ、あやまった。劉秀は馮異に言った。「不意は、国家のおいて、義は君臣だが、恩は父子だ。おそれなくていい」と。
029年冬、天水の隗囂が、洛陽に人質する
隗囂は、おごった。西伯(周文王)になぞらえた。諸将と議して、王をとなえたい。鄭興は言った。「周文王は、天下の3分の2をもっても、殷室につかえた。周武王は、約束せずに、諸侯800を動員した。高帝は、沛公のまま、統一戦争をやった。隗囂の功績は、高帝におよばない。王をとなえるな」と。隗囂は、王をやめた。
のちに隗囂は、ひろく官位をおき、自尊した。鄭興は言った。「中郎將、太中大夫、使持節
の官は、王者がおくものだ。人臣がおくものでない。やめろ」と。隗囂は、官位をやめた。
ときに関中の將帥は、しばしば上書して「公孫述をうとう」と言った。劉秀は隗囂に、上書を見せ、蜀攻めをさせたい。隗囂は、蜀攻めをことわった。
「三輔は單弱だ。劉文伯(盧芳)が辺境にいて、蜀にゆけない」と。
隗囂、馬援、来歙は、仲がよい。劉秀は、来歙と馬援をつかい、隗囂の入朝をうながした。隗囂は、ダラダラひきのばした。劉秀は来歙をやり、隗囂の子を入侍させたい。隗囂は、劉永、彭寵がやぶれたと聞いた。長子の隗恂を、洛陽にやった。劉秀は隗恂を、胡騎校尉,鐫羌侯とした。
ぼくは思う。このへんのダラダラは、曹丕と孫権ににている!
鄭興は、「隗恂に同行して東にゆきたい。父母の葬儀のため、かえりたい」と言った。隗囂はゆるさない。隗囂は、鄭興の秩礼をふやした。鄭興は隗囂に言った。「秩礼はいらないから、葬儀をさせてくれ。隗囂に、妻子をあずける。私をうたがうな」と。隗囂は、鄭興を妻子とともに、東にゆかせた。
馬援も、家属をつれて、隗純について洛陽へいた。馬援は賓客がおおい。劉秀は馬援に、上林の苑中で、屯田することをゆるした。
隗囂の部将・王元は、隗囂に独立をすすめた。王元はいう。
「天下は、まだ劉秀に決まらない。南に公孫述、北に盧芳がいる。江湖や海岱には、王公が十數いる。儒者(馬援、鄭興、班彪)の説得に、ひきずられるな。いま天水は、つよい。東の函谷関をとざせば、チャンスがある。この地盤を活かせ」と。
隗囂は、子を洛陽にやりつつ、地形にたのみ、割拠したい。
申屠剛は、隗囂をいさめた。「劉秀にさからうな」と。隗囂は、聞かず。游士や長者は、すこしずつ隗囂を去った。
ぼくが隗囂で、実際にこうだとしたら、独立にかたむく。そうでなく、「独立しろ」の意見を、歴史家が書きやすかっただけかも知れない。ネタがあるから。
「游士や長者」が去ったというのは、どうせ脚色である。
029年、荊州と交趾が貢献し、教化する
王莽末、交趾の諸郡は、閉境して自守した。岑彭は、もとより交趾牧の鄧讓と、したしい。
岑彭は、偏將軍の屈充をつかい、江南に檄をうつし、劉秀の詔命をつたえた。ここにおいて、交趾牧の鄧譲、江夏太守の侯登、武陵太守の王堂、長沙相の韓
福、桂陽太守の張隆、零陵太守の田翕、蒼梧太守の杜穆、交趾太守の錫光らが、劉秀に貢献した。すべて列侯に封じられた。
錫光は、漢中の人。交趾にいて、民夷を、禮義で教化した。劉秀は、宛県の任延を、九真太守とした。任延は教民し、耕種、嫁娶させた。ゆえに嶺南の華風は、この2人の太守により、はじまった。
029年、劉秀への仕官を、こばんだ人々
書奏,詔曰:「自古明王、聖主, 必有不賓之士。伯夷、叔齊不食周粟,太原周黨不受朕祿,亦各有志焉。其賜帛四十匹, 罷之。」
この歳、處士する太原の周黨、會稽の嚴光らを、京師にめした。周党は、稽首せず、姓名を言わず、伏して意見をのべた。
博士の范升は、上奏した。「太原の周黨、東海の王良、山陽の王成らは、ありがたくも劉秀に用いられた。だが、文書にくらく、武芸をやらない。名前をかざって、三公になりたいという。雲台で、問いつめたい。不敬である」と。
劉秀は言った。「古代より、明王や聖主には、かならず不賓之士がいた。伯夷、叔齊は、周室の食糧をたべなかった。太原の周黨は、後漢の食糧をたべないつもりだ。賜帛40匹をあたえて、家にかえせ」と。
王良後歷沛郡太守、大司徒司直,在位恭儉,布被瓦器,妻子不入官捨。後以病歸, 一歲復征;至滎陽,疾篤,不任進道,過其友人。友人不肯見,曰:「不有忠言奇謀而 取大位,何其往來屑屑不憚煩也!」遂拒之。良慚,自後連征不應,卒於家。
劉秀と厳光は、ともに遊学した。劉秀は皇帝即位すると、厳光に会いたい。齊國をえると、しきりに厳光をめして、諫議大夫とした。厳光は、諌議大夫とならず、富春(会稽)の山中で、寿命をおえた。
王良は、のちに沛郡太守、大司徒司直となった。王良は、妻子を官舎にいれない。病になり、1年後にもどった。滎陽で、ふたたび病になった。王良の友人が通ったが、友人は王良に会わない。友人は言った。「忠言や奇謀がないくせに、王良は高位についた。ウザいやつめ」と。王良ははじた。かさねて劉秀からめされたが、応じず。家で死んだ。
前漢の元帝のとき、莎車王の延は、長安に侍子をおくった。王莽のとき、匈奴が西域をせめたが、莎車王は匈奴につかず。莎車王の延が死に、子の康がたった。莎車王の康は、匈奴をこばんだ。竇融が承制して、莎車王の康を、漢の莎車建功懷德王、西域大都尉とした。隣接した55国が、みな漢にぞくした。
以上、『資治通鑑』巻41でした。近日、つづき、やります。110712