029年春、彭寵の死、班彪『王命論』
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
029年正月、馬援が隗囂のまえで、劉秀をほめる
春,正月,癸巳,車駕還宮。
帝使來歙持節送馬援歸隴右。隗囂與援共臥起,問以東方事,曰:「前到朝廷,上 引見數十,每接燕語,自夕至旦,才明勇略,非人敵也。且開心見誠,無所隱伏,闊達 多大節,略與高帝同;經學博覽,政事文辯,前世無比。」囂曰:「卿謂何如高帝?」 援曰:「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」囂意不懌, 曰:「如卿言,反覆勝邪!」
029年春正月癸巳、劉秀の車駕は、還宮した。
劉秀は、来歙に持節させ、馬援を隴右におくった。
隗囂と馬援は、ともに臥起した。隗囂は馬援に、東方のことを聞いた。馬援は言った。「劉秀と数十回、朝から晩まで語りあった。劉秀は、高帝とおなじだ。しかも経学や政事にもくわしい」と。
隗囂は言った。「高帝とくらべて、劉秀はどうだ」と。馬援は「高帝よりすぐれる。高帝よりも政事にくわしいし、行動に節度があり、飲酒をこのまない」と。隗囂は、馬援の発言を、よろこばず。
029年2月、王覇が馬武をおとりに、周建をやぶる
蘇茂將五校兵救周建於垂惠。馬武為茂、建所敗,奔過王霸營,大呼求救。霸曰: 「賊兵盛,出必兩敗,弩力而已!」乃閉營堅壁。軍吏皆爭之,霸曰:「茂兵精銳,其 眾又多,吾吏士心恐,而捕虜與吾相恃,兩軍不一,此敗道也。今閉營固守,示不相援, 賊必乘勝輕進;捕虜無救,其戰自倍。如此,茂眾疲勞,吾承其敝,乃可克也。」茂、 建果悉出攻武,合戰良久,霸軍中壯士數十人斷髮請戰,霸乃開營後,出精騎襲其背。
029年2月丙午、大赦した。
賊の蘇茂は、五校の兵をひきいて、垂惠に周建をすくう。馬武は、蘇茂と周建にやぶれて、王覇の軍営ににげた。王覇は言った。「賊がつよいから、馬武を助けない」と。軍吏がさわぐので、王覇は説明した。
「蘇茂は精鋭だ。私・王覇がでても、捕虜将軍の馬武と連携がとれず、やぶれる。いま馬武を見殺せば、蘇茂は勢いづき、やがてつかれる。私は、蘇茂のつかれを攻める」と。賊が馬武を攻めつかれたので、王覇は背後をおそった。
蘇茂と周建は、まえに馬武、うしろに王覇がいるので、混乱した。蘇茂が王覇に、矢をいかけた。酒樽に矢がささっても、王覇はじっと音楽をきいた。
翌日、軍吏は「前日のいきおいで、勝てる」と言った。王覇は言った。「ちがう。蘇茂は、糧食がつきる。軍営をとじて待てば、戦わずして蘇茂に勝てる」と。
蘇茂と周建は、王覇に戦ってもらえず、ひいた。その夜、周建の兄子がそむき、周建は道中で死んだ。蘇茂は、董憲とあわさる。劉永の子・劉紆は、佼強ににげた。
029年2月、漁陽の彭寵が、奴隷にそむかる
彭寵妻數為惡夢,又多見怪變;卜筮、望氣者皆言兵當從中起。寵以子後蘭卿質漢 歸,不信之,使將兵居外,無親於中。寵齋在便室,蒼頭子密等三人因寵臥寐,共縛著 床,告外吏雲:「大王齋禁,皆使吏休。」偽稱寵命,收縛奴婢,各置一處。又以寵命 呼其妻,妻入,驚曰:「奴反!」奴乃捽其頭,擊其頰。寵急呼曰:「趣為諸將軍辦 裝!」於是兩奴將妻入取寶物,留一奴守寵。
2月乙丑、劉秀は魏郡にゆく。
漁陽で劉秀にそむくのが、彭寵である。彭寵の妻は、しばしば悪夢した。彭寵は、便室にいて、奴隷3人とともに寝起きした。
胡三省はいう。秦代に、民をキン首といった。奴を蒼頭といった。奴は、良人とちがう。ぼくはいま、奴隷と訳しといた。ちょっとニュアンスはズレるけど。
奴隷は、彭寵をしばった。彭寵の妻は、奴隷になぐられた。奴隷は、見張り役をたてて、彭寵の財産をうばった。
彭寵は、見張り役の奴隷に迎合して「将軍」とよびかけ、「将軍よ。私をほどいてくれたら、財物を山分けする」と言った。
彭寵と妻は斬られた。翌朝、奴隷が、彭寵と妻のクビを見せると、官属たちは、おどろき怖れた。彭寵の尚書・韓立らは、彭寵の子・彭午を燕王にたてた。彭寵の國師・韓利は、彭午のクビをきって、劉秀の部将・祭遵にくだった。
劉秀は、彭寵をしばった奴隷・子密を、不義侯にふうじた。
ぼくは補う。けっきょく彭寵が死ぬだけだ。奴隷の一挙手一投足なんて、興味がない。なぜ『資治通鑑』は、くわしく載せたか。いま「不義」について、論評をくわえるためだ。
劉秀は、扶風の郭伋を、漁陽太守とした。郭伋は、彭寵の乱の、あとしまつをした。匈奴は遠ざかった。郭伋は、漁陽太守を5年つとめた。戸数は倍増した。
029年春、龐萌がうらぎり、董憲の東平王となる
吳漢率耿弇、王常擊富平、獲索賊於平原,大破之;追討餘黨,至勃海,降者上萬 餘人。上因詔弇進討張步。
劉秀は、光祿大夫の樊宏に持節させて、上谷で耿況をむかえた。樊宏は耿況に言った。「邊郡は寒苦だ。ながく住む場所でない」と。耿況は京師にきて、邸宅をもらった。牟平(東莱)侯に封じられた。
吳漢は、耿弇と王常をひきい、平原で、富平や獲索の賊を、大破した。余党をおって、勃海までゆく。くだったのは、1万人余をうわまわる。つぎに劉秀は、耿弇を進軍させ、張歩をうたせる。
平敵將軍の龐萌は、人となりを劉秀に愛された。劉秀は「わが子を、龐萌にたくせる」と言った。
劉秀は、龐萌と蓋延に、董憲をうたせた。ときに詔書が、蓋延にだけ届き、龐萌に届かず。龐萌は、蓋延にそしられたと考え、劉秀にそむいた。龐萌は、蓋延をやぶった。
龐萌は董憲とつらなり、みずから東平王をとなえ、桃郷(東平)の北にいる。
劉秀は大怒し、みずから龐萌をうちにゆく。劉秀は言った。「私は龐萌を、社稷の臣だと思ったのに。とんだお笑いだ。みな睢陽(梁國)にあつまれ」と。
龐萌は、彭越をやぶり、劉秀の楚郡太守・孫萌を殺した。
郡吏の劉平は、孫萌のために号泣し「かわりに私を殺せ」と言った。龐萌は、これを義として、見のがした。孫萌が、のどがかわいてグッタリするので、劉平は自分をキズつけ、自分の血を孫萌にのませた。
岑彭は、夷陵をぬいた。田戎は、蜀ににげた。田戎の妻子と、士眾の數萬人がつかまった。公孫述は、田戎を翼江王とした。
岑彭は蜀をうちたいが、穀物がすくなく、水流がけわしい。岑彭は蜀を攻めるため、威虜將軍の馮駿を江州においた。都尉の田鴻を、夷陵においた。領軍の李
玄を、夷道(南郡)においた。みずから岑彭は、津郷(南郡の江陵)にもどる。荊州をしずめた。くだった蠻夷を、その君長にふうじた。
029年、班彪『王命論』が、隗囂に漢室の永続をとく
隗囂問於班彪曰:「往者周亡,戰國並爭,數世然後定。意者從橫之事復起於今乎? 將承運迭興,在於一人也?」彪曰:「周之廢興,與漢殊異。昔周爵五等,諸侯從政, 本根既微,枝葉強大,故其末流有從橫之事,勢數然也。漢承秦制,改立郡縣,主有專 己之威,臣無百年之柄。至於成帝,假借外家,哀、平短祚,國嗣三絕,故王氏擅朝, 因竊號位,危自上起,傷不及下,是以即真之後,天下莫不引領而歎。十餘年間,中外 騷擾,遠近俱發,假號雲合,鹹稱劉氏,不謀同辭。方今雄桀帶州域者,皆無七國世業 之資,而百姓謳吟思漢。漢必復興,已可知矣。」
029年夏4月、日照、イナゴ。
隗囂は班彪に問うた。「周室がほろび、戦国時代になった。いまは戦国時代とおなじだ。天命をつぐのは、劉氏1人だけか」と。班彪は答えた。「周室の興廃と、漢室の興廃はちがう。周室は、諸侯に権限をあたえすぎて、ほろびた。漢室は、郡県の統治をきかせる。漢室は、成帝が外戚におされ、哀帝と平帝は短期だった。王莽に、皇位をぬすまれた。だが漢室は、宮廷がゴタゴタしただけで、百姓に危害していない。百姓は、漢室の復興をのぞむ」と。
隗囂はいう。「漢室の劉氏が、そんなに重要か。秦末、だれが漢室を知っていたか」と。班彪は『王命論』を記して、隗囂に反論した。
『漢書』があたえた、曹操たちへの影響について、論じてみたい。後日。
班彪はいう。「劉氏は、帝堯から火徳をつぐ。だから高帝は、韓信、英布、項梁、項籍におとるけれど、天下をとった。王莽や、今日の軍閥が、劉氏に代われるはずがない」と。
囂不聽。彪遂避地河西。竇融以為從事甚禮重之。彪 遂為融畫策,使之專意事漢焉。
班彪はいう。「秦末、陳嬰の母は、世々まずしいので、自分の子が王になれないと、わきまえた(秦二世二年)。王陵の母は、劉氏が天下をとると考え、死んで王陵にわきまえさせた(高祖元年)。匹夫の母ですら、劉氏の天下を知っているのだ。隗囂も、わきまえろ」と。
隗囂は、班彪をきかず。班彪は、河西ににげた。竇融は、班彪を従事として、おもんじた。班彪は、竇融のために画策して、竇融の心を、漢室にむけさせた。
次回、隗囂が劉秀につくか、そむくか。つづきます。