表紙 > 読書録 > 平秀道「王莽と符命」「後漢光武帝と図讖」『龍谷大学論集』より

讖緯は、王莽がつくり、光武帝が興した

平秀道氏の2本の論文から、抜粋です。ほぼメモのレベル。

王莽と符命:王莽伝ほかに見える、讖緯

馬端臨はいう。讖緯は、哀帝や平帝のとき起きた。

以下、著者がみずから宣言するように、王莽伝にそって紹介されている。王莽伝を読めば、わかることは、細かく引きません。


平帝が即位して、王莽が執政。「白雉の瑞」があらわれた。
周の成王のときとおなじ。王莽は、安漢公になった。
白い雉は、ふつうの経書にない。緯書だけが伝える話。

緯書だけとは、知らなかった。


元始年間(後1-5年)王莽は、図讖をつくれる人を集めた。
王莽が皇帝になる符命が、夢によって出現や発見された。
『漢書』李尋伝に、天官歴包元太平経の記述あり。
成帝のとき成立。外戚の王氏が、劉氏をしのぐとする。革命はいわず。

王莽伝のほかに、莽新を知ることができる記述がある。それだけで新鮮!

王莽を土徳の虞舜にならべるのも、讖緯。
劉向と劉歆の父子は、讖緯思想をもち、漢新革命をたすけた。

天鳳元年(14年)王莽の失墜をいう符命が、初登場。
黄龍の死骸が見つかった。人民の期待に反した、あらわれ。
王莽への期待も失望も、緯書にある聖天子とおなじ表現ででる。
王莽は符命を信じた。

更始帝に攻められたとき、
「天は私に徳をあたえた。漢兵が私をどうにもできない」
と云った。これは『論語』にちなむ。聖人ぶった。
末期の讖緯ぐるいを、班固は「王莽は気が変になった」とする。

班固は、王莽が讖緯を信じたことを、批判したのか。讖緯を信じる視角が、ゆがんでいるとして、批判したのか。とくに注意して、読みたいポイントです。前者なら、光武帝への批判にもなる。笑


王莽と符命:劉歆がつくり、王莽が完成させた

今日からみて、緯書にある讖緯の要素は、
陰陽五行、符命、瑞祥、災異、讖言、星占、歴数と歴運だ。
すべて王莽の時期にあらわれている
劉歆が哀帝のとき完成して、つづく学者が王莽のためにつくった。

この指摘が、この論文で、いちばん要点となる指摘。だと思う。


『漢書』芸文志に、緯書の目録はない。
だが、易部の古雑80篇、雑災異35篇が、緯書に相当するか。
緯書に「孝経緯」がおおいのは、王莽が孝経を重んじたから。
緯書に「春秋緯」がおおいのは、『孝経鉤命決』による。曰く、
孔子が「私は『春秋』を記した。行いは『孝経』にある」と云ったと。

王莽と符命:董仲舒と民間信仰を吸収

王莽が符命にもとづき詔書をつくり、革命を認めさせたのは、
民間信仰をたくみに取り入れたから。
董仲舒の陰陽五行説も、王莽は取り入れた。

漢室は衰退した。匈奴の脅威がある。
原始の儒教は、礼楽によって天下を治める、聖天子を待望した。
王莽は謙譲して、儒教を味方につけた。
王莽が失敗したのは政策のせいで、符命は成功した。

後漢光武帝と図讖:光武帝の即位

『隋書』経籍志はいう。
王莽と光武帝の2人により、図讖は盛んになった。

光武帝が李通の図讖にみちびかれたのは、李通伝にある。
李通の父・李守は、劉歆に支持した。李通は、父から図讖を学んだか。
『後漢書』鄧シン伝はいう。劉歆は、劉秀と改名した。
光武帝の即位は、赤伏符による。四七=二八。

光武帝を即位に導いた図讖は、まとめると4つ。
 1「劉氏が復興し、李氏がたすける」光武紀、李通伝
 2「劉秀が天子になるべし」鄧シン伝
 3「四七のとき、火は主となる」光武紀
 4「卯刀が徳を修め、天子となる」光武紀

4つコンパクトにまとめっているのが、うれしい。


後漢光武帝と図讖:前漢と莽新の図讖

劉秀が誕生した翌年、方士・夏賀良が、哀帝に讖言した。
成帝のとき、斉人・甘忠可が、天官歴包元太平経をつくった。
成帝と哀帝に売りこんだが、名声を得るのが目的。
夏賀良と甘忠可の文章は、後世、信じられた緯書とはちがう

王莽のとき、魏成の大尹・李焉が「李氏が漢をたすける」と予言。
のちに李通が、光武帝のためにつかった。

後漢光武帝と図讖:光武帝による利用

『宋書』符瑞志から、推測できる。
「劉秀が天子となる」とは、劉氏の秀でた人が天子になる、の意。
劉歆その人を表さず、まして光武帝も表さない。

河図に「赤九会昌」とある。
光武帝は、自分を漢の9代目にするため、
成帝、哀帝、平帝をはずし、長安でべつに祭った。
もともと「赤九会昌」は、成帝のための河図だっただろうに。

『後漢書』祭祀伝に、河図緯がある。
光武帝は、図讖によって、政治を立てた。
光武帝に有利な図讖の読み方をけなせば、罷免された。
賈逵は『春秋左氏伝』に、劉氏が堯の子孫という記述があると歪曲。
伊敏は、図讖をそしり疎まる。桓譚は、緯書をけなして斬られそう。
鄭興は、図讖を学ばないと宣言して、政治からはずされた。

光武帝は、公孫述の図讖を否定するため、図讖を作成。
『漢観記』はいう。光武帝は公孫述に書を与えた。
「赤をつぐのは黄だ。黄の姓は当塗、名は高だ。お前じゃない」
光武帝の当塗高は、漢魏革命で利用された。『三国志』周群伝より。
当塗高の元ネタは、春秋讖だろう。袁術も利用。

後漢を建国した光武帝が、後漢を滅亡させる図讖を、つかっていた。後漢を正当化する目的で。皮肉で、おもしろいなあ。


後漢光武帝と図讖:王莽は「迷信ぶかく」ない

讖緯と図讖は、文献に出現する時期がちがう。
図讖は漢新に、讖緯は魏晋におおい。
(図讖は、河図からはじまった予言書)
経書と対比して、緯書が注目されると、図讖が讖緯に代わる。

安居香山氏はいう。
王莽は世論に逆行した政策をゴリ押しするため、符命を偽作したと。
平氏が、安居氏に反論。
王莽も光武帝も、ひとしく図讖をつかった。
むしろ光武帝のほうが、正当化にかんする緯書がおおい。
王莽の時期は緯書が少なく、自作せざるをえなかった
光武帝は、既存の緯書を利用できたから、自作せず。
ちがいはこれだけ。王莽に冷たく、光武帝に優しいのは不適。

ぼくは平氏の指摘に、賛成いたします。


もちろん光武帝は、図讖だけで天下をとったのではない。
宇都宮清吉氏はいう。南陽豪族の経済力と血筋、人柄のおかげ。

さいごに「近代的」で「合理的」な説明を加えてしまうところに、図讖の論文の苦しさが見えます。きっとこの観点で、平氏を批判する人たちがいたのでしょう。的外れな批判なので、無視すればいいと思います。笑


おわりに:リアルタイムの讖緯

後漢末や三国時代の人にとって、讖緯は、
「与えられたもの」「昔からあるもの」です。
だから三国ファンも、讖緯を「迷信くさいが重要」と受容します。

しかし前漢の後半から、後漢の成立にかけては、
まさに讖緯の確立と、政権の確立が、並行しています。
讖緯は、所与でも伝統でもない。
「現代的なテーマ」として、リアルタイムに誕生&発展している
三国志のルーツを知るという意味で、王莽と光武帝は大切。
論文がしめす史料は、断片的にしか理解できていませんが、
これを再確認できたので、とりあえず、おしまいです。100813