161年、会稽の劉寵、諸羌の皇甫規
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
161年春夏、宦官の役所で、火事が多発
161年春正月辛酉、南宮の嘉德殿で出火。正月戊子、丙署が出火。
大疫した。2月壬辰、武庫が出火。司徒の盛允をやめ、大司農の種暠を司徒とした。3月、太尉の黃瓊をやめた。
161年夏4月、太常する沛國の劉矩を太尉とした。はじめ劉矩は、雍丘令となった。訴訟をみずから聞いた。県官を同席させず、裁いた。訴訟にきた人は、感じ入った。
ぼくは思う。なぜ県官を入れないか。県官と人民とのあいだで、もめごとが多かったのだろう。県官とは、どうせ宦官の子弟だ。ちがうかなあ。
4月甲寅、河間孝王の子である、戶亭侯の劉博を、任城王にした。劉博は、孝王の后を奉った。
5月辛酉、心に彗星。5月丁卯、原陵の長壽門が出火。
5月己卯、京師に雹がふる。
6月、京兆と扶風および涼州で、地震した。6月庚子、岱山および博尤來山が、くずれて裂けた。6月
己酉、天下を赦した。
司空の虞放をやめ、さきの太尉の黃瓊を司空とした。
犍為屬國の夷族が、百姓を寇鈔した。益州刺史の山昱が、夷族を破った。
零吾羌と、先零の諸種が、三輔を寇した。
161年秋、会稽の一銭太守・劉寵
161年秋7月、京師で雨乞。
公卿より以下を、減俸した。桓帝は、王侯に金を貸しつけ、官位を売った。商品は、關內侯、虎賁、羽林緹騎、營士、五大夫である。
ぼくは思う。梁冀から巻き上げた金を、桓帝はすでに使い切ったか。
寵常為會稽太守,簡除煩苛,禁察非法,郡中大治;征為將作大匠。山陰縣有五六 老叟,自若邪山谷間出,人□百錢以送寵曰:「山谷鄙生,未嘗識郡朝,它守時,吏發 求民間,至夜不絕,或狗吠竟夕,民不得安。自明府下車以來,狗不夜吠,民不見吏; 年老遭值聖明,今聞當見棄去,故自扶奉送。」寵曰:「吾政何能及公言邪!勤苦父 老!」為人選一大錢受之。
9月、司空の黄瓊をやめ、大鴻臚する東萊の劉寵を、司空とした。劉寵は会稽太守のとき、山越に慕われた。転任するとき、1銭だけ餞別を受け取った。
劉寵は、あの、劉岱と劉繇の伯父。以下で、ふれました。
袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ
161年冬、段熲でなく皇甫規が、羌族を討つ
161年冬、先零と沈氐羌は、諸種羌とともに、并州と涼州を寇した。校尉の段熲は、湟中の義從をひきい、これを羌族を討った。涼州刺史の郭閎は、軍功をむさぼる。郭閎は、段熲の軍を進ませない。戦役が長びいたので、義從は反して、すべて帰郷した。郭閎は、段熲に罪を着せて、下獄した。左校にうつした。濟南相の胡閎が、段熲の代わりに校尉となる。
胡閎には、威略がない。諸郡は、羌族にひどく寇された。
泰山太守の皇甫規は、上疏した。「泰山は、ほぼ平定できた。私は59歳だ。羌族の討伐を任せてください」と。皇甫規は、中郎将となった。持節して、関西の兵を監し、零吾羌らを討つ。
ユニット名は「涼西の三明」皇甫規、段熲、張奐伝
11月、皇甫規は羌族をやぶり、八百級を斬った。先零の諸種羌は、皇甫規の威信をしたう。10餘萬が、皇甫規にくだった。101204