01) 伯父の劉寵、兄の劉岱
『三国志集解』を頼りながら、ていねいに劉繇伝を読みます。
「繇」が文字化けしている方へ。「ヨウ」ないし「月缶系」です。
今回は、史料あつめに終始してしまいました。
いい訳ですが、それだけ後漢末の揚州は、分かりにくい!のです。転じて、これをまとめた孫権はすごいなあ、、と思いました。笑
「呉志」で皇帝のつぎに列伝がある意味
吳書四 劉繇太史慈士燮傳第四
『集解』がひく康発祥がいう。この列伝は「魏志」の、董卓や袁紹と同じ位置づけだ。しかしヒン妃の前にあるから、「魏志」とは違う。
劉繇は、劉岱の弟だ。劉繇は、袁術や陶謙らと、あるとき勢力がならんだ。「魏志」で公孫瓚や陶謙のあとに、劉繇の列伝を載せて、「呉志」に入れないという手もあった。
太史慈と士燮は、どちらも呉臣である。張昭や顧雍らと、同じ巻に列伝を載せても、よかった。
劉繇、太史慈、士燮の列伝が、なぜここにあるか分からない。
劉咸キと梁商鉅がいう。「魏志」と「蜀志」は、皇帝のつぎに皇后がくる。「呉志」だけ、皇帝のあとに劉繇たちの列伝が入る。他の例がないことである。
ぼくは陳寿が、呉の正統をおとしめるため、やったのだと思う。孫氏だけ、いみな呼び捨て。孫氏のつまだけ、皇后と呼ばれない。正史の体裁を、わざと崩すことで、孫氏が地方官に毛が生えただけの国だと、無言で示した。
劉繇の血筋は、前漢の皇族
劉繇字正禮,東萊牟平人也。
『郡国志』はいう。東莱郡は、青州。
齊孝王少子封牟平侯,子孫家焉。繇伯父寵,為漢太尉。
劉繇の伯父・劉寵は、後漢の太尉だ。范曄『後漢書』の劉寵伝がいう。劉寵は、あざなは栄祖。斉悼恵王の後裔だ。
『集解』が『後漢書』をひく。劉寵字祖榮,東萊牟平人,齊悼惠王之後也。悼惠王子孝王將閭,將閭少子封牟平侯,子孫家焉。
續漢書曰:繇祖父本,師受經傳,博學群書,號為通儒。
『集解』が『後漢書』をひく。父丕,博學,號為通儒。
梁商鉅がいう。「本」と「丕」は字形が似ている。区別がつかない。
周寿昌がいう。じつは劉丕だが、曹丕のいみなを避け、劉本とした。
舉賢良方正,為般長,卒官。
『郡国志』がいう。般県は、青州の平原郡だ。
「魏志」公孫瓚伝、荀彧伝注、禰衡伝注にみえる地名。
伯父の劉寵は、会稽で「取一銭太守」
續漢書曰:寵字祖榮,受父業,
盧弼がいう。范曄『後漢書』では、栄祖である。
以經明行修,舉孝廉,光祿(大夫)察四行,
沈家本はいう。「大夫」2字は余分だ。
除東平陵令。
済南郡の郡治は、東平陵である。「魏志」武帝紀にある。
視事數年,以母病棄官,
恵棟がひく『続漢書』は、少し詳しい。
劉寵が赴任したとき、東平陵の民俗はゼータクだった。劉寵が着任した。劉寵は、数年間かけて、倹約して暮らすように、指導した。のちに母の病で、退職した。
寵少受父業,以明經舉孝廉,陳東平陵令,以仁惠為吏民所愛。母疾,棄官去。新しい情報ゼロだ。
百姓士民攀輿拒輪,充塞道路,車不得前,乃止亭,輕服潛遁,歸脩供養。後辟大將軍府,稍遷會稽太守,
范曄『後漢書』がいう。劉寵は、4たび遷って豫章太守となった。また3たび遷って、会稽太守になった。
豫章太守という情報がふえた。のちに劉繇が終焉する場所だ。
正身率下,郡中大治。徵入為將作大匠。山陰縣民去治數十裏有若邪中在山谷間, 五六老翁年皆七八十,聞寵遷,相率共送寵,人齎百錢。(中略)寵謝之,為選受一大錢,故會稽號寵為取一錢太守。其清如是。
劉寵の政治を慕った、会稽郡の山陰県の人たち。劉寵への餞別に、大量の銭を差し出した。劉寵は1銭だけを受け取った。劉寵は「取一錢太守」と呼ばれた。
気持ちは受け取るけど、お金は要らないよ、と。
会稽の山陰とは、山越と呼ばれる不服住民だろうね。劉寵は、山にこもって後漢を無視した民にも、慕われた。イヌにも慕われた。
寵前後曆二郡,八居九列,四登三事。
九列とは、九卿のこと。三事とは、三公のこと。
范曄『後漢書』は、経歴がくわしい。
轉為宗正、大鴻臚。延熹四年,代黃瓊為司空、以陰霧愆陽免。頃之,拜將作大匠,得為宗正。建甯元年,代王
暢為司空,頻遷司徒、太尉。二年,以日食策免,歸鄉里。
家不藏賄,無重寶器,恆菲飲食,薄衣服,弊車羸馬,號為窶陋。三去相位,輒歸本土。往來京師,常下道脫驂過,人莫知焉。寵嘗欲止亭,亭吏止之曰:「整頓傳舍,以待劉公,不可得止。」寵因過去。其廉儉皆此類也。
劉寵は、生活が質素だった。劉寵は、身なりがボロかったから、招かれた本人なのに、ガードマンに止められた。
以老病卒於家。
『後漢書』は、弟方,官至山陽太守。方有二子:貸字公山,繇字正禮。兄弟齊名稱。が加わる。これに対応する裴注は、
續漢書曰:繇父輿,一名方,山陽太守。岱、繇皆有雋才。英雄記稱岱孝悌仁恕,以虛己受人。
劉繇の兄、劉岱は、同盟を乱し、黄巾に殺される
繇兄岱,字公山,曆位侍中,兗州刺吏。
『集解』がいう。劉岱は「魏志」武帝紀の初平元年と3年にある。
190年春正月、袁術、韓馥、孔チュウ、劉岱、王匡、袁紹、張邈、橋瑁、袁遺、鮑信が挙兵した。盟主を袁紹とした。劉岱は、酸棗にいき、成コウを固めた。
劉岱は、仲のわるい橋瑁を殺害した。劉岱は橋瑁の代わりに、王肱を、東軍太守につけた。
192年に劉岱は、青州黄巾に殺された。以下のとおり。
青州黃巾眾百萬入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊眾百萬,百姓皆震恐,士卒無鬥志,不可敵也。觀賊眾群輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士眾之力,先為固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果為所殺。かわいそうに。
ちなみに范曄『後漢書』で、劉岱はこうなる。
董卓入洛陽,岱從侍中出為兗州刺史。虛己愛物,為士人所附。初平三年,青州黃巾賊入兗州,殺任城相鄭遂,
轉入東平。岱擊之,戰死。
次回、劉繇の本人のお話にうつります。