03) 笮融がかき混ぜる
『三国志集解』を頼りながら、ていねいに劉繇伝を読みます。
丹徒に逃げた劉繇に、許劭がアドバイスします。
豫章郡で、劉繇が死ぬ
袁宏漢紀曰:劉繇將奔會稽,許子將曰:
許劭は、武帝紀がひく『世語』にある。和コウ伝がひく『汝南先賢伝』にある。『後漢書』に、列伝がある。
許劭字子將,汝南平輿人也。少峻名節,好人倫,多所賞識。若樊子昭、和陽士者,並顯名於世。故天下言拔士者,咸稱許、郭。(中略)
初,劭與靖俱有高名,好共核論鄉黨人物,每月輒更其品題,故汝南俗有「月旦評」焉。
司空楊彪辟,舉方正、敦樸,征,皆不就。或勸劭仕,對曰:「方今小人道長,王室將亂,吾欲避地淮海,以全老幼。」乃南到廣陵。徐州刺史陶謙禮之甚厚。劭不自安,告其徒曰:「陶恭祖外慕聲名,內非真正。待吾雖厚,其勢必薄。不如去之。」遂複投揚州刺史劉繇于曲阿。其後陶謙果捕諸寓士。乃孫策平吳,劭與繇南奔豫章而卒。時年四十六。
許劭は劉繇に、会稽郡でなく、豫章郡にいけという。
「會稽富實,策之所貪,且窮在海隅,不可往也。不如豫章,北連豫壤,西接荊州。若收合吏民,遣使貢獻,與曹兗州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。」繇從之。
胡三省がいう。豫章郡は長江ぞいで、豫州や兗州の東南にある。淮北に袁術がいて、九江郡や廬江郡のあいだにいる。だから許劭は「袁術が分断する」と言ったのだ。
遂溯江南保豫章,駐彭澤。
呂範伝にある。呂範は彭澤太守となり、柴桑にいた。おそらく孫権は、のちに呂範を丹楊太守にして、彭澤郡を省いたのであろう。
笮融先至。殺太守硃皓,
笮融は、孫策伝がひく『江表伝』にある。
范曄『後漢書』の朱儁伝がいう。朱晧は、朱儁の子。才行あり。豫章太守になった。
獻帝春秋曰:是歲,繇屯彭澤,又使融助皓討劉表所用太守諸葛玄。許子將謂繇曰:「笮融出軍,不顧(命)名義者也。硃文明善推誠以信人,宜使密防之。」融到,果詐殺皓,代領郡事。
胡三省がいう。朱晧のあざなは、文明だ。
恵棟がいう。朱晧のあざなは『献帝春秋』によれば、文淵である。
『献帝春秋』は、わりにデタラメだ。振り回されてはいけない。。
笮融は、豫州太守になり代わったのだ。豫州太守の一部始終は、孫策伝の注にみえる。
入居郡中。繇進討融,為融所破,更複招合屬縣,攻破融。融敗走入山,為民所殺,繇尋病卒,時年四十二。
劉繇が死んでしまいました。
ご指摘をいただきました。民に殺されたのは、笮融です。劉繇ではありません。劉繇は、病没ですね。訂正いたします。失礼いたしました。ミスを教えていただき、ありがとうございました。
仏教徒、笮融のこと
笮融者,丹楊人,初聚眾數百,往依徐州牧陶謙。謙使督廣陵、彭城運漕,
范曄『後漢書』陶謙伝がいう。陶謙は笮融に、広陵、下邳、彭城の兵糧はこびを任せた。『資治通鑑』でも同じである。
遂放縱擅殺,坐斷三郡委輸以自入。乃大起浮圖祠。(中略)
范曄『後漢書』西域伝がいう。天竺国は、仏教をおさめた。殺さずを教える。
趙一清は『晋書』仏図澄伝をひく。石季龍は、著作郎の王度にいった。「仏は外国の神である。漢人は、仏の祠を建てない。漢の初期に伝わり、西域の人が、寺院を建てた。漢人は、出家しなかった。魏は漢をついだから、仏教政策は同じである」
曹公攻陶謙,徐土騷動,融將男女萬口,馬三千匹,走廣陵,廣陵太守趙昱待以賓禮。
趙昱は、「魏志」陶謙伝にある。
先是,彭城相薛禮為陶謙所偪,屯秣陵。融利廣陵之眾,因酒酣殺昱,放兵大略,因載而去。過殺禮,然後殺皓。
笮融は、趙昱を殺し、薛禮を殺し、朱晧を殺した。
後策西伐江夏,還過豫章,收載繇喪,善遇其家。王朗遺策書曰:(略)
王朗が劉繇のために悲しみ。劉繇の遺児・劉基をなつかしむ文。
おわりに
『集解』から史料をひくだけで、終わってしまった。
後日なにか書くための「自分用まとめ」の体裁に。ごめんなさい。
最後にひとつだけ、指摘を。
劉繇を任命したのは、李傕の朝廷だと思う。馬日磾は、李傕の朝廷からの使者。袁紹や袁術でない。まして「中立」でもない。
李傕の朝廷は、きわめて保守的。朱晧にせよ、劉繇にしろ、後漢の宰相の子弟ばかり任命する。献帝の競合優位性は、その保守性だからね。政策としては、一貫性があって、よろしい。
劉繇は、長安の意思を受けて、長安からもっとも遠い、もっとも混沌とした地に飛び込んだ。裁ききれずに、死んだ。そういう旧時代の代表だと思います。100505