表紙 > 人物伝 > 袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ

02) 名士と交わり、揚州牧へ

『三国志集解』を頼りながら、ていねいに劉繇伝を読みます。
お待ちかね。やっとご本人が登場。

『後漢書』で劉繇は、どんなか

「呉志」に移るまえに、『後漢書』をやっつけときましょう。
劉繇が、簡潔にまとまっています。

興平中,繇為楊州牧、振威將軍。時袁術據淮南,繇乃移居曲阿。值中國喪亂,士友多南奔,繇攜接收養,與同 優劇,甚得名稱。袁術遣孫策攻破繇,因奔豫章,病卒。
興平年間(194-195年)劉繇は、揚州牧、振威將軍となった。
ときに袁術は、淮南にいた。だから劉繇は、曲阿にうつった。中原が喪亂して、士友がおおく南へ逃げた。劉繇は、士友をかくまった。劉繇は、名声をえた。
袁術は孫策に命じ、劉繇を破った。劉繇は、豫章に逃げた。病死。

愛がない! けど、要約したら、こうなりますね。


劉繇は、名士との付き合いが広い

やっと、「呉志」本文です。

繇年十九,從父韙為賊所劫質,繇篡取以歸,由是顯名。舉孝廉,為郎中,除下邑長。
劉繇が赴任した下邑県とは、「魏志」臧洪伝にある。
ときに三署郎から人をえらび、県長が任じられた。琅邪郡の趙昱は、呂県長。東莱郡の劉繇は、下邑県長。東海の王朗は、シ丘長。臧洪は、即丘県長になった。

いわゆる「同期」です。社会での扱いが、劉繇と同じ。比較すべし。


時郡守以貴戚託之,遂棄官去。州辟部濟南,
『続百官志』がいう。諸郡では毎年8月に、郡国を巡回する。劉繇がまねかれた「部」とは、郡国従事のことである。
おそらく劉繇は、青州刺史に呼ばれたのだろう。胡三省がいう。青州刺史にしたがって、済南郡を部したのだ。
「蜀志」費詩伝にあ、永昌従事がでてくる。

濟南相中常侍子,貪穢不循,繇奏免之。平原陶丘洪薦繇,
陶丘洪は、「魏志」荀攸伝がひく『漢末名士録』にある。

とても面白い!袁術との対立が見られる。袁術は、何顒をはじめ、後漢末の名士を批判した。陶丘洪が弁護した。後日、やはり何顒は有能だった。袁術は間違い、陶丘洪が正解でした、と。
原文は、
漢末名士錄曰:常於眾坐數顒三罪,曰:「王德彌先覺雋老,名德高亮,而伯求疏之,是一罪也。許子遠凶淫之人,性行不純,而伯求親之,是二罪也。郭、賈寒窶,無他資業,而伯求肥馬輕裘,光耀道路,是三罪也。」
陶丘洪曰:「王德彌大賢而短於濟時,許子遠雖不純而赴難不憚濡足。伯求舉善則以德彌為首,濟難則以子遠為宗。且伯求嘗為虞偉高手刃復仇,義名奮發。其怨家積財巨萬,文馬百駟,而欲使伯求羸牛疲馬,頓伏道路,此為披其胸而假仇敵之刃也。」
意猶不平。後與南陽宗承會於闕下,術發怒曰:「何伯求,凶德也,吾當殺之。」承曰:「何生英俊之士,足下善遇之,使延令名於天下。」術乃止。後黨禁除解,辟司空府。每三府掾屬會議,顒策謀有餘,議者皆自以為不及。遷北軍中候,董卓以為長史。後荀彧為尚書令,遣人迎叔父司空爽喪,使並置顒屍,而葬之於爽塚傍。

陶丘洪は、華歆伝にもある。

陶丘洪は、霊帝を廃そうとした。華歆がとめた。果たして、霊帝を廃す作戦は、失敗した。陶丘洪は、華歆に恐れいった。
同郡陶丘洪亦知名,自以明見過歆。時王芬與豪傑謀廢靈帝。語在武紀。魏書稱芬有大名於天下。芬陰呼歆、洪共定計,洪欲行,歆止之曰:「夫廢立大事,伊、霍之所難。芬性疏而不武,此必無成,而禍將及族。子其無往!」洪從歆言而止。後芬果敗,洪乃服。


欲令舉茂才。刺史曰:「前年舉公山,奈何複舉正禮乎?」洪曰:「若明使君用公山於前,擢正禮於後,所謂禦二龍於長塗,騁騏驥於千里,不亦可乎!」會辟司空掾,除侍御史,不就。

劉岱と劉繇の兄弟は、龍と麒麟ですよ!

後漢末の人脈を、まとめたい。何顒、陶丘洪、荀攸、華歆、劉繇、王朗、趙昱、許劭あたりが、つながっている。ほめあう。
みな袁術と、衝突してしまう人ですが。笑


揚州刺史として、孫策と対決する

避亂淮浦,詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南,繇畏憚,不敢之州。欲南渡江,吳景、孫賁迎置曲阿。

「迎置」とある。ちくま訳では「迎えとって置ちつかせた」だ。まるで呉景と孫賁が、劉繇にウェルカムだったようだ。
サイト『呉書見聞』は、ちくま訳をそのまま採用し、劉繇が「中立」の立場で、揚州に赴任したとした。なぜ「中立」か。
呉景たちは袁術の部将だ。もし劉繇が(たとえば袁紹の息のかかった)袁術の敵なら、呉景が劉繇を迎えることは、袁術にむけた謀反となる。それは、おかしいと。
うーん。。
ぼくは「中立」など、ないと思う。袁紹か、袁術か、李傕郭汜か、誰かの息がかかっていないと、刺史になんかなれない。
思うに、ちくまの読み方が違うのだ。
「迎」は「逆」に通じる。向こうからきた人を、逆にこちらから出ていき、むかえること。べつにウェルカムでなく、牽制の動きを見せるだけでも「迎」だ。劉繇がくる前に、逆に、すでに腰をおちつけている丹楊側から動き、牽制した。「迎撃」というじゃん。


術圖為僭逆,攻沒諸郡縣。繇遣樊能、張英屯江邊以拒之。以景、賁術所授用,乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史,與景、賁並力攻英、能等,歲餘不下。

孫策伝がいう。これより前に劉繇は、長江を渡り、曲阿にいった。ときに呉景は、丹楊にいた。孫策の従兄・孫賁も、丹楊都尉だった。劉繇がくると、呉景と孫賁は逃げた。

一昨日にフードコートで、孫策伝を読みました。書いてあった。

龍湯尾は、樊能と張英らに、袁術を防がせた。袁術は、故吏の恵クを揚州刺史にした。孫賁と張英は戦った。興平元年のことだ。

漢命加繇為牧,振武將軍,眾數萬人,

「魏志」荀彧伝がいう。興平2年、曹操は荀彧に、徐州をとりたいと相談した。荀彧は、「さきに呂布をやぶり、つぎに南方の劉繇と手を結び、ともに袁術を討ちなさい」といった。

先月、岡崎のフードコートで荀彧伝を読んだとき、出てきた。


孫策東渡,破英、能等。繇奔丹徒,

孫策伝がひく『江表伝』がいう。孫策は牛渚を攻めた。大量の物資を、孫策はうばった。興平2年のことだ。
彭城相の薛禮、下邳相の笮融は、劉繇をかついだ。薛禮は秣陵城に、薛禮は県南にいた。孫策は、薛禮と笮融をやぶった。

次回、劉繇が死にます。死に方が、各史料でちがう。