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(C)2007-2009 ひろお
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明帝&章帝&和帝の時代 1)明帝と孫権の類似点
すでに三国志ではないというツッコミを自分に対して入れたいのだが、興味が湧いたので仕方ない。どうして後漢が滅びたのか考えていたら、だんだん遡り始めてしまった!
2代明帝と3代章帝の本紀の中から、皇帝の人となりが分かりそうな記事を重点的に抜いて、年表代わりにまとめておこうと思います。小さい出来事は、本紀そのものを読めばいいのだから、引用しません。

顕宗孝明皇帝は、劉荘という。はじめの名は劉陽と云ったが、皇太子になったときに名を改めた。『古今注』によれば、あざなは「厳」だ。
光武帝の四男。母は陰皇后である。
『逸周書』によれば、四方を照らして君臨する人に「明」の号を送る。

生まれながらに、顔つきが「豊下」だった。つまし、下ぶくれ、もしくは下あごが張っていた。杜預は『春秋』の文例から、四角い顔をしていたと解釈した。『東観漢記』は、顔の上半分は鋭くて、三角形のような顔だったと記す。 うなじが紅くて、堯に似ていたともある。
(注)現代人はあごが細くて逆三角形の顔の人がいる。しかし明帝は、順三角形の顔だ(笑)エラが張っていて、毛の色が特異だったと聞くと、必ず思い出すのが孫権だ。血筋の正しい陰皇后が異民族だったわけがない。明帝が混血でないとすると・・・ある傾向の人生を歩んだ人の風貌を形容するとき、ステレオタイプにこう書くという慣例があったことが分かる。
明帝と孫権の共通点を見つけることが出来れば、3つのメリットを得ることができる。まず明帝の人柄を知るとき、孫権に関する知識を援用できる。次に、孫権の隠れた一面を、明帝の生き方から探すことができる。最後に、孫権が必ずしも碧眼紫髯じゃないと明らかになる。見た目じゃなくて、政治のやり方に付いてくる筆法なんだから。

劉荘は10歳で『春秋』に通暁し、父の光武帝は「 奇!」 と悦んだ。最高の褒め言葉だ。
39年、劉荘は東海公になった。41年、爵を進めて東海王となった。
(注)東海王と云って思いだすのは、司馬越です。皇帝にはならなかったが、西晋の3代懐帝を立てて、皇帝のように振る舞った。司馬越が明帝のことを意識しなかったはずがない。

43年、皇太子になった。博士の桓栄(列伝27)に師事して、『尚書』をよく学んだ。
57年2月、皇帝になった。30歳だった。母を尊んで、陰皇太后とした。3月、光武帝を原陵に葬り、「世祖」と呼んだ。
4月、詔にて所信表明演説をした。
予末少子(若造)だけど、がんばります」
12月、政策について詔した。
「裁判は公平に、刑は緩めにせよ」
59年正月、驃騎将軍と三公に年頭方針を述べた。
「異民族を懐けて、いい政治をせよ」
9月、諸王が来朝した。沛王の劉輔、楚王の劉英、済南王の劉康、淮陽王の劉延、東海王の劉政だ。劉政は明帝の任国を継いでいるが、甥である。光武帝の子、彊の子だ。
10月、養老ノ礼を行った。
「天下の老人に賜り物をせよ」

60年正月、年頭挨拶。
「産業の振興を図り、辺境の飢えに手を打て」
2月、貴人の馬氏を皇后とし、劉タツを皇太子にした。
(注)タツは偏が「火」で、旁が「旦」です。火徳の漢王朝らしい名前だ。
8月末に日蝕。
「気づいたことがあれば、何でも進言してくれ」
12月、梁松が獄で死んだ。
(注)和帝の外祖父です。梁冀につながっていく家の人です。
61年2月、農業振興の命令。
62年10月、明帝のゆかりの地で、租税免除。
63年正月、諸王が来朝。
4月、「おべっか使いを政治に持ち込むな」と詔。
10月、魯で東海恭王の陵を祭る。諸王と会う。

64年正月、皇太后の陰氏が死んだ。
この歳、北匈奴が和親を乞うてきた。
65年3月、初めて度遼将軍を五原郡に置く。
10月、死刑の罪人を五原郡で働かせる。末日日蝕があった。
「極言して、はばかること勿れ」
郡臣が封書を奉ると、
「みな朕の過ちだ。宮殿の修繕をやめよう」

66年正月、また罪人を五原や朔方に行かす。
67年2月、広陵王の劉荊(明帝の弟)が、罪で自殺して、取り潰し。
4月、農業と養蚕の奨励。
68年正月、諸王の来朝。
69年正月、益州の外から、夷の哀牢王が帰順したから、永昌郡を置いた。益州西部都尉を廃止した。
5月、人口を増やすため、物資と教育を施す。この歳、徭役は軽くなり、百姓の食料や家畜は増加した。

70年2月、皇帝の耕作パフォーマンスの後、参加者に食事を振る舞った。
4月、黄河を渡って巡幸し、治水について論じた。
10月末日、日蝕。三公が冠を脱いで、罪に服した。
「やめなさい。日蝕は朕のせいだ」
11月、楚王の劉英が謀反した。連座したのは数千人。楚王は、翌年4月に自害。
(注)この事件を収束させて登場したのが、袁安だ。袁紹の祖父の祖父だ。論理的にズバズバ裁くやり方が、明帝と似ていたから評価されたのでしょう。

袁安が出てきて、微妙に三国志にかすったところで、次ページへ。
皇帝として及第点を取ろうと思ったら、人の意見を聞いて、産業を起こして、偏私を戒めて・・・明帝がやっていることは当たり前なのだが、当たり前をやるのが難しいというのは真理だ。
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このコンテンツの目次
>明帝&章帝&和帝の時代
1)明帝と孫権の類似点
2)ファザコンの章帝
3)嘘ばっかの論と賛
4)マザコンの和帝