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明帝&章帝&和帝の時代
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2)ファザコンの章帝
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72年2月、東に巡狩した。
「罰を軽減せよ。疑わしきは罰するな」
3月、魯で孔子の旧宅を訪れ、孔子と72弟子を祀った。明帝は、講堂にみずから立って、皇太子や諸王に書経を説明した。
4月、冀州や徐州を周り、皇子たちを王とした。大赦。
12月、奉車都尉の竇固と、フ馬都尉の耿秉を涼州に屯させた。翌年2月、北匈奴を攻撃した。
この歳、西南夷が続々と貢献して、人質を差し出してきた。
5月、明帝の威徳が遠方を懐けたので、祝った。
8月、武威郡、張掖郡、酒泉郡、敦煌郡、張掖属国の罪人を、減刑して守備に当てた。11月、奉車都尉の竇固と、フ馬都尉の耿秉と、騎都尉の劉張は、敦煌から出撃した。初めて西域都護と戊己校尉を設置した。
この歳、天水郡を漢陽郡と改めた。
75年6月、西域都護の陳睦が攻められて、軍が破れた。戊己校尉が包囲された。
8月、明帝は東宮ノ前殿で死んだ。48歳だった。質素な埋葬と葬式を命じた。
明帝は建武ノ制度(光武帝のやり方)を遵奉して、違えなかった。外戚は侯に封じられ、政事に参加することはなかった。
『東漢観記』曰く、光武帝は前漢の権臣を重んじたが、外戚が政事に関与することを避けた。だから、外戚の陰氏と郭氏は九卿レベルに留められた。一族で栄位に登った人数は、前漢の外戚に比べると半分未満だった。明帝はこれを踏襲したのだ。
「我が子を郎(職位)にしてくれ」
と明帝に願ったのは、館陶公主(明帝の妹)だったが、明帝は認めなかった。銭千万をプレゼントしただけだ。明帝は、郡臣に言った。
「郎官は中央では討論に参加し、地方では県の長官となる職位だ。もし適任者が就かないと、民はわざわいを受ける。だから身内でも、任じなかったのだ」
だから官吏は適任者が努め、民は生業に安心して励み、遠きも近きも明帝の治世に懐き、戸数(人口)は増加した。
論に曰く、
明帝は刑罰の道理を正しく行い、法令は分明だった。日出から日没まで朝廷にいて、冤罪は必ず明らかにした。内外にへつらって私事をはさむ人はおらず、天子は驕り高ぶった様子はなかった。投獄は厳密な裁判をしてから行ったから、前漢の10分の2に減った。後の人は、光武帝・明帝の政治を模範としないことはなかった。
「陛下はテキパキと判決を下されるが、良くありません。ゆったりとした度量が、備わっていないのではないですか」
明帝をそう批判したのは、鍾離意と宋均であった。
賛に曰く、
明帝は先帝の大業を継いだから、ビクビクしていた。だから心を危ぶんで徳を恭しくし、姦邪を打ち破った。朝儀をしっかりやって、陵墓を簡素にした。前漢には行われていなかった明堂ノ礼と辟雍ノ礼を復活させ、身を低くして従った。すなわち政事と人選を正しく行った。日月のように輝かしい功績である。
はじめの宿題、「明帝と孫権の共通点はなにか」に答えましょう。
きっと異民族と深く関与して、領土を開拓したということだろう。明帝は、北と西と南で、それぞれ成果をあげた。孫権が江南を開発して、東晋につながる中華の拡大のきっかけとなったことに符合する。
「領土開拓に功績があるなら、きっと顔つきも異民族っぽいだろう」
そういう連想だ。
もう1つの共通点を挙げるならば、父が始めた事業をうまく膨らませたということだ。明帝も孫権も、とても上手い君主だ。
「継承が上手いなら、末広がり、下ぶくれ、立派なあごに違いない」
となる。いい加減なイメージだが、史家が書いたことだ。ぼくは後から、彼らの筆の軌跡をなぞったに過ぎない。
仮に明帝が70歳まで生き続けたら、後漢は幼帝の連続に苦しむことはなかった
だろうが、別の弊害が生まれたに違いない。 老いた明帝は、権力の集中に励みすぎて、外戚以下の豪族とギクシャクすることになっただろう。なぜそんな予想が成り立つかといえば、孫権がそれをやったからだ。
後漢は幼帝を連発した。複雑な対立構図を練りこみながら、酸いも甘いも飲み込んで、年数だけは続いた。しかし、もし明帝が権力の集中に取り組んでいたら、パックリと気持ちよく2つに分裂して、早晩とっくに滅びていただろう。
ただし1つ似ていないのは、孫権がダラダラと熟考する人だったけれど、明帝はスパスパと決めていく人だったことだ。明帝と孫権、2人とも生涯に出せる結論の数が同じに定められていて、明帝は行き急いで使いきってしまい、孫権はゆっくり消費した。そんなところかなあ。
あと霊帝のときに「保釈金を払えば、出て良い。罪が確定していない人を赦せ」という勅令が連発される。これは明帝に遡るようです。
粛宗孝章皇帝は、劉タツという。明帝の5男である。母は賈貴人。
『逸周書』によれば、温和で腹を立てず、儀に詳しくてよく守っている人に「章」を贈る。
60年、皇太子になった。若いときから寛容で、儒術を好み、明帝は才器があると見込んだ。
(注)気になるのは、明帝も章帝も長子ではないこと。この一族は生存能力が弱くて兄が死んでいるのか、適任者を選んでいるのか。列伝4を読まないと分からんが(手元にない)皇帝の兄王が登場しないから、きっと死んでいるんだ。
75年8月、皇帝になった。19歳だった。明帝の馬皇后を尊んで、皇太后とした。10月、大赦して所信表明。
「朕は眇(ビョウ=取るに足らない弱者)だが、恐れ多くも皇帝をやる。ご指導を宜しく」
11月、日蝕があったので西方の戦役をストップ。
この歳、日照りとウシの伝染病。穀物を配って救済した。
76年正月、戊己校尉を廃止した。
2月、地震。
「朕の政治がいかん。賢良方正、よく直言極諌する人を挙げろ」
5月、初めて孝廉と郎中のうちから、都城を任せられる人を選び、県長と侯相とした。
(注)後漢で永遠にくり返される、「天変地異、人材募集、天変地異」というスパイラルの始まりだ。
8月、ほうき星。9月、永昌で夷が叛く。10月、武陵郡で蛮が叛く。11月、阜陵王の劉延が謀反したので、侯に降とす。
77年3月、危機を感じた詔。
「陰陽が調わず、飢饉が多く、国境付近が騒がしい。ルールをしっかり守り、まずは国内から秩序を取り戻せ」
6月、焼当羌が叛いた。12月、星座に不吉。
78年3月、貴人の竇氏を皇后とした。
4月、明帝が始めた常山郡の治水をストップ。
79年、劉慶を皇太子とした。諸王の封地を再編成。
6月に馬太后が死に、冬にウシが疫病。
11月壬戌、詔した。
「儒教について、何が正しいのかグチャグチャだ。前漢ノ宣帝が石渠閣でやったように、白虎観(北宮のホール)に諸儒を集めて、議論させよ。議事録を『白虎議奏』にまとめよ」
80年2月、日蝕。雨乞いの詔。
3月に詔して「冤罪が多い。裁判を正しくやれ」と。5月に詔して「もっと臣たちの意見を聞かせてくれ」と。
82年正月、諸王が来朝。6月、劉慶を廃して清河王とし、劉肇を皇太子にした。広平王の劉羨を西平王に移した。
8月、高廟で飲酎(よく醸造した酒を飲む儀式)をした。光武帝と明帝の合同祭をした。
「こんなにファザコンの私を、臣たちは助けてくれ」
9月は東へ行幸し、鄴と常山と趙国を周った。10月は西の長安へ行き、歴代皇帝と蕭何・霍光を祀った。
「上にろくな天子がおらず、下に賢い宰相がいない。どうしよう」
12月、洛陽に戻った。この歳、洛陽と郡国でズイムシがわいた。
(注)在位5年にして、章帝の緊張の糸は切れてしまった。原典にいう「兢兢業業」
という、畏れ入った状態が解けてしまった。気ままに皇太子をすげ代えて、祖先に手放しに祈って、洛陽から逃げ出した。
すでに本紀の雰囲気は、桓帝や霊帝のときに似ている。明帝のときは、国の拡大と安定がたびたび記事になっていたが、章帝は縮小と振動です。後漢滅亡をいちばん遡って論じるならば、西暦80年が起点になるだろう。
83年12月、陳留、梁国、淮陽、頴陽を周って、洛陽に戻った。
「五経を創作した聖人が死んでから、長い年月が経った。正しい読み方が分からなくなり、誤りを正すことは、もう無理だ。真髄を探求することも廃絶しそうだ。古文学が太学の正規科目になっていないのが、良くない。『左氏伝』『穀梁春秋』『古文尚書』『毛詩』らの学問を興して、学説を広げよ」
この歳、またズイムシ。
85年2月、四分暦を用いた。堯を祭り、泰山に行幸し、高祖と世祖、文帝と武帝と宣帝と明帝を祀った。
「私は泰山にいって、先君の勲功を明らかにした。われ1人空虚にして病むことが多いが、引き継いでがんばろうと思う」
済南に御幸した。
(注)光武帝が奇跡的に中興してしまったから、漢は滅びなかった。しかしその奇跡の有効期間は短くて、明帝のとき燃やし尽くされてしまった。自然の異常は、すでに亡国のものである。 凡人の章帝は、父祖が作った神話にすがりつつ、腰を落ち着けずに全国を回るしか、気を紛らわす方法がない。始皇帝は顔見世のために旅行をしたが、章帝は違う。
不安になれば、古文学に頼って、脳内で「宇宙でたった1つの、不滅な中華帝国」というフィクションを組み立て、それに頼っていくしかない。この思い込みは、三国時代にも引き継がれる。
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このコンテンツの目次
>明帝&章帝&和帝の時代
1)明帝と孫権の類似点
2)ファザコンの章帝
3)嘘ばっかの論と賛
4)マザコンの和帝
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