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明帝&章帝&和帝の時代 3)嘘ばっかの論と賛
85年3月、魯で孔子が講義をしたところを祭り、弟子を祭り、孔子の子孫の男女に布帛を与えた。もろもろの劉氏の墓参りと、霊的なパワーのある山を登ることが、章帝のもっぱらの仕事だ。
86年正月、年頭の詔をした。
「天子とは、民の父母のようなものだ。もし孤児がいたら、朕が父母代わりとなって、食わせてやろう」
次は北方に旅立った。諸王が従った。冀州を見回ってから、長城を越えた。 5月、袁安を司空とした。

もういちいち引用しないが、章帝は旅行ばかりしている。諸王が、冀州・青州・徐州あたりに配されているんだが、章帝が訪れると、お供したり接待したり、領内を見回ってコメントを垂れられたりしている。異常に交流が深い。
いっぽう西方では、羌との戦いが一進一退しているが、章帝が西域について詔で触れることはない。 春秋戦国時代に書かれた本には、西域は登場しないから、関心が薄いんだ。班超が、拗ねそうだ。

儒教の経典は、「孝」を説くんだが、それは父祖を大切にせよと言うことだ。漢のために何もできない章帝は、
「どうしよう、皇帝業を務める自信がないよ、パパ!」
と懼れ、 父祖の祭りばっかりしている。ファザコンであるこの皇帝にとって、儒教は都合のいい本なんだ。ファザコンと表現するとダサいが、漢字を並べて気持ちを述べれば、恰好が付く。
男系の繁栄を願っているから、子をたくさん王に封じた。章帝が子宝に恵まれたからではなく、藩屏を増やすことに熱心だったから、章帝を起点として皇族は拡散した。子が多いことは必要条件ではあるが、充分条件ではない。
『後漢書』には、章帝の徳が盛んだったから、子孫から皇帝がいっぱい出ました、みたいに書いてある。違う。儒教に染まった歴史官が手繰り寄せれば、そういう結論になるかも知れないが、結果論だ。
飛行機の機長と副機長は、違うものを食べるという。共倒れになるのを防ぐためだ。章帝が各地に皇族をばら撒いたから、どこかが絶えても、どこかが続いているという結果になった。
章帝は、光武帝や明帝のようなカリスマ性や天運がなかったから、後漢を傾けた。しかし、旅行に励んで諸王を全土に散りばめたから、後漢の滅亡を遅れさせた。功罪は50%ずつだ。
ぼくの評価と違い、明帝と並んで「章帝は明君だ」となっているのは、儒教徒たちが曲解した結果だろう。

少し展望を述べておけば、章帝が白虎観で「親親」を肯定したのは、男系に対する敬意を強調したかったからだ。天人が感応して光武帝が復興した漢なのに、早くも天に見放されたから、過去の劉氏を宣揚して、理論武装する必要が出てきたのだ。
「天災ばかりだけど、劉氏は間違いなく皇帝の家だ」
というメッセージだ。
これを次のマザコン和帝が曲解して、「親親」という公式見解を、外戚を重んじる根拠にしてしまった。初めに和帝が言い出したとき、母系まで貴ぶという意味はなかったようで、おっかなびっくり言い出している。
「非業の死を遂げた、身分の低い実母を祭ってもいいかな」
これを肯定した臣下は、和帝から
「君だけが、朕の気持ちを分かってくれる」
と感謝された。すなわち、ファザコンの章帝の段階で「親親」には母系のニュアンスがなかったことが分かる。
父系を祀るのに狂った章帝は、側室だった母・賈氏に皇后位を贈っていない。やっと貴人に上げてやっただけだ。絶対にマザコンではない。
後漢は、ファザコンとマザコンの父子によって滅びた。すなわち章帝と和帝である。このあと順帝が死ぬまでは、この2人が敷設したレールの上で同じことをくり返すだけだから、細かく見る必要はないほどだ(笑)

88年2月、章徳前殿で死んだ。『後漢書』には享年33と書かれるが、年数をカウントすると享年32であることが明白だそうだ。
論に曰く、
曹丕が言った。明帝は察察(物事を細かく明らかにする性格)だった。章帝は長者(優れた人)だった。章帝は、人々が明帝の苛切(切れ味の鋭さ)を厭っていたから、つとめて寛厚に振る舞った。陳寵(列伝36)が、刑罰の制度の軽減を求めると、聞き入れた。太后に孝道を尽くし、名都(主要都市)を分割して、親戚の国をたくさん建てた。徭役と税賦を少なくしたので、人は慶びとした。忠恕を政策に表し、礼楽を詔書に表した。臣下や外戚は調った。長者と言ってよいだろう。13年の在位で、郡国が符瑞を数百千も提出された。
賛に曰く、
章帝は済済として(威儀が盛んで)、天性は愷悌な(楽しみ和らいだ)人だった。この皇帝の徳は、深遠な境地を体現している。
芸文を左右し(諸儒に五経を議論させ)、律礼を斟酌した。儒館(学校)は歌を献じ、戎亭(辺境の見張所)は斥候兵が必要なくなった。気は調い、時はやわらぎ、法令は公平で民は栄えた。

■論と賛を読んで
曹丕と明帝を『後漢書』が結びつけたことが、とても面白い。洒落の利いたアイロニーだと思う。なぜなら、曹丕は血縁をことごとく排斥して、虐めた人だからだ。曹丕が「明帝は、諸王を建てたから立派だなあ」なんて言うのか!自らを棚に上げるにも程がある。
そして、もう1つの繋がりがある。曹丕は漢を滅ぼした後、「全土を統一すべきだ」という強迫観念に取り付かれて、呉への無謀な外征を繰り返した。そのプレッシャーに負けて、死んでしまう。同じ強迫観念に、曹丕より130年くらい早く取り付かれていたのが、章帝だ。全土統一強迫神経症だ(笑)

そして、大嘘の賛である。本紀の本文を読まずに書いたに違いない。章帝のどこがそんなに素晴らしかったのか、レジュメにして説明してほしいほどだ。出来事は、桓帝や霊帝のときと同じじゃないか。章帝が儒教に傾倒したという一点のみで、無茶な美化をされてしまってる。
ビビリまくって父祖にすがっている章帝のどこに、威儀や楽しさや和らぎがあるんだ。

次は、4代の和帝の本紀を読みます。
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このコンテンツの目次
>明帝&章帝&和帝の時代
1)明帝と孫権の類似点
2)ファザコンの章帝
3)嘘ばっかの論と賛
4)マザコンの和帝