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明帝&章帝&和帝の時代 4)マザコンの和帝
孝和皇帝は、劉肇という。章帝の4男。
『逸周書』によれば、剛ではなく柔の人に「和」と贈る。
母の梁貴人は、竇皇后にそしられて死んだ。竇皇后は、和帝を我が子として育てた。72年、皇太子になった。
88年2月、10歳で皇帝になった。竇氏は皇太后となり、臨朝した。
「皇帝が幼いから、朕が政治をする。長兄の竇憲は輔けよ」
10月、竇憲が車騎将軍となり、北匈奴を討ちに行った。勝ったので、翌年9月に竇憲は大将軍になった。
90年5月、泰山郡を分けて、済北国とした。楽成郡、タク郡、渤海郡を切り取って、河間国を作った。和帝の弟の劉寿と劉開をそれぞれ王とした。
(注)劉開は、桓帝・霊帝の系統を産みます。

91年正月、和帝は元服した。
92年3月、司徒の袁安が死んだ。 4月、竇憲が北方から洛陽に戻った。
6月に日蝕。和帝は竇憲とその一族を自殺に追い込んだ。
96年2月、陰貴人を皇后とした。
97年閏月(8月と9月の間)竇太后が死んだ。9月、和帝は実母に皇太后を贈った。
102年6月、陰皇后を廃した。父で特進だった陰綱は自殺した。
103年9月、南に巡狩をした。清河王の劉慶、済北王の劉寿、河間王の劉開はお供した。
105年12月、和帝は27歳で死んだ。皇子の劉隆を皇太子とした。

竇憲を誅してから、和帝は万機を親政した。災異があると、公卿に得失を論じさせた。
「私は徳が薄いから」
というのが口癖で、人の意見をきちんと聴いた。
交州のもと南海郡は、珍品を献上していたが、道が険しいので輸送する人が多く死んだ。
「遠国の珍味は嬉しいが、そのせいで死人が出るなら、民への愛と矛盾する。もう持ってこなくていいよ」
(注)聡明ぶりを示す逸話も、小ぶりです・・・

論に曰く、
光武帝が中興してから永元(89-105)まで、盛衰のサイクルはあったが、総じて人口や国土は増えた。匈奴や西域をたびたび従えたのは、夏殷周よりも道義や政治が発達したからか。はたまた、兵数のバランスが当時と違うだけだろうか。
賛に曰く、 和帝は沈毅で剛烈で、前代のおきてに従った。王は怒りを秘めて、悪党を倒すものだ。竇憲を倒したのは、それである。

・・・さて、面白くない皇帝です。
論は和帝個人について言及することがなく、大局の目線からの全体論でなんとなくごまかした。
賛が言っている「沈烈」というのは、和帝の全人格を指したものではない。ただ竇憲を倒したという一瞬のできごとを飾っただけだ。
これは和帝に罪があるわけじゃなく、27歳で死んだから、個性が出てこなかったということか。でも、これを書いている時点でぼくは数え27歳だが、もうちょっと自我があるような気がするんだけど・・・


三国志の起点を見つけることが、今度こそできました。
章帝のファザコンぶりと、和帝のマザコンぶりを描くことが出来れば、なぜ後漢が滅びたかは明白となります。2人の治世を目的とせず、三国志の前提として切り抜くなら、飛ばし読みで関係がありそうなところだけ見れば充分だ。
あとは、皇后と王の列伝を『後漢書』から拾って読みましょう。090308
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このコンテンツの目次
>明帝&章帝&和帝の時代
1)明帝と孫権の類似点
2)ファザコンの章帝
3)嘘ばっかの論と賛
4)マザコンの和帝